逃げのびろ、2019

 思い返してみれば昔から逃げる者に魅力を感じていた。幼い頃から衝撃映像マニアだったが、飛び交う銃弾をかいくぐる兵士やカメラマン、迫りくる爆風や噴煙を背に命からがら逃げのびてくる人々、暴走車や事故車を間一髪でかわす警官や通行人の姿などがやけに格好良く思えてしかたなかった。おかげで、走る時に意味もなく頭を低くする癖がついてしまった(銃弾を避けるためであるが、猟の許されている山中などにでも踏み込まない限り縁遠い話である)。猛牛をかわすだけの闘牛があるが、特に動物愛護の精神に満ちているわけでもないのに、普通の闘牛よりも魅力を感じてしまうのは、単純に逃げる姿のほうが好きだからだ。

 多くの人がいまだに逃げることよりも立ち向かうことを奨励する。映画学校時代も「楽な道と険しい道があれば険しい道を選べ」と講師たちは言った。だが、そんな教えや風潮に黙って従うのは、あまりに従順過ぎはしないか。それこそ、逃げているだけなのではないか。だったら、逃げることそのものに魅力を感じる私は、それら一切から逃げのびることにより、「ひょっとしたら立ち向かっているのは、むしろこいつの方なのではないか?」と世間を錯覚させ、時の人などと呼ばれて各種メディアに引っ張りだこ、「時の人」にありがちな没落からさえも華麗に逃げのび、そのあまりの見事な逃げっぷりにきゃあきゃあ言われてみたりなんかして、ひたすら逃げているだけのはずなのに富と名声まで手にし、富と名声を手にした者が陥りがちな転落人生も飄々とかわしてみせ、ますますきゃあきゃあ言われて、世界中がなにか勘違いして「この人を見よ」と称えあげ、そういった人たちにありがちな思わぬ大失態もなんとなく回避し、八十後半くらいの丁度良い頃合いで死の恐怖や苦しみをもさらりと避けたかのような安らかな死に顔でこの世にさいならするべきなのではないか。それが天が私に与えた使命なのではないか。いや、そうに決まっている。そうに決めた。私が決めた。

 しかし、そんな大きな使命を背負ってしまうと、逃げること自体が苦痛になるかもしれない。だったら、天が与えし使命さえも軽やかに払いのけ、逃げることの強要からさえも逃げのびた逃げの王、そもそも「逃げ」とはなんぞや! それすらもわからぬのに逃げは甘えだの立ち向かうが勇気だのと悟った気でいるとはなんと愚かな人間たちよ、逃げの王たる私はおぬしたちのたわけた騒ぎなど逃げるまでもなく眼中にないわ! ……くらいのことを言ってのけられるほどに逃げ切ってしまおう。

 逃げのびろ、2019。いや、人生自体、最後まで逃げ切ってしまおう。そんな私らしくもなく前向きな決意を表明したところで、はじめまして、2019。今年もどうか無事に。