書を持って町へ出て考えよう

「読書して考えないのは、食事をして消化しないのと同じである」
エドマンド=バーク)


 極端なことを言えば、一年間に365冊の本を読んでも「ああ、面白かった」だけで終わる人間より、一年間に読んだ本が『恋空』一冊(「一冊」と書いたから書籍版のことになるのだけど、別にケータイ版でも構いません)だけであっても、それを読んだうえで「なぜ面白かったのか/面白くなかったのか」「これが支持されるのは何故か」等等考えられるだけ考えを巡らせた人間の方が有益な時間を過ごしているのだろう。

 麻生太郎が失言や漢字の読み違えをするたびに「漫画は想像力を失わせる」などといったことをぬかしていた連中が結構いた(実際、そんなコメントを私がかつて嫌な思いをして尻尾巻いて逃げてきた「日刊ブログ新聞 ぶらっと!」なるところで多く見かけた)が、読み方次第で悪書を読む行為も有益なものになるという想像が出来ないわけであり、その程度の想像力しか持たぬ人間にどうして麻生太郎が批判出来よう。また、余談だが、麻生さんへの「漫画云々」的な批判が正当であるなら、森元首相の失言の際には、もっとラグビーが批判されて良かったはずである。

 そもそも、小説に比べて漫画が読みやすいというのは誤りだと思う。作品にもよるし、単純に考えれば「絵+文字」を消化しなければならないので、漫画の方が情報量は多いはずである。


 私が「共感」というフレーズを嫌悪しているのは、「共感」は思考停止に直結しやすいと考えているからだ。「共感」して「感動」するのは、結局「ああ、それわかる。自分にもそんなことがあったなあ」とか、そんな次元の感動であり、「本当にそれが良いことなのか」という考察が抜け落ちている。
 
 映画学校時代、よく「意味ばかりで感情/内面がない」と批判された私だが(たしかに、それはもっともな批判でもあったのだが)、私から見れば周囲の作品は「感情ばかりで意味や理性が欠如した」作品であった。 理事長である故・今村昌平監督の作品は、詳細な人間観察による精神構造の映像化とでも言うべきものであるが、きちんと見ればそこには「感情」を撮りながら「理性」という柱がしっかりと立っていることがわかるはずなのだが、どうもあまりにも人間を「描きすぎた」がために、そこばかりが評価され、「人間を描きさえすれば良い」という思考停止がまかり通ってしまったんじゃないかと思っている。そうだとすれば、なんだか浮かばれない話である(いつだか、霊媒師だかお払いに来た人だかが「この学校は今村さんがしっかり見守ってる」的なことを言ったそうだけど、もしそれが本当で、なおかつ私の考えが当たっていたら、もうあの学校は長くないのかもしれない)。


「芸術は『私』である。科学は『我々』である」
(クロード=ベルナール)

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クロード・ベルナール

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