「適度に疑いつつ、そのことを踏まえたうえで建設的なお付き合いをしましょう」

 「気にしない」「恨まない」……そんな人間は、むしろ嫌いだ。そんな人間に憧れるような人間も苦手だ。悟り切ったのであれば、また話は別だろうが、そんな人間はそうそう居るまい。私は「気にする」し「恨み続ける」人間だ。生き辛いが、そんな自分が嫌いかと問われれば、そうでもない。このままのほうがいいとさえ思っている。

 どうしても「気にしてしまう」性分の人間に「気にするな」と言ったところで意味がないのは、自分が「気にしてしまう」性分だから、よく分かっている。だいたい、「気にするな」と言えるような人間が、私のような性分の者が「気にしてしまう」ことを増やしているんじゃないか? もし私が何も気にしなくなってしまったら、きっと自分以外の「気にしてしまう」人間が「気にしてしまう事象」を増やすことになる。「気にしてしまう」性分の現在だって、きっとどこかで他の「気にしてしまう」人間の「気にしてしまう事象」を生んでいる。だが、「気にしてしまう」性分のままでいれば、他の誰かの「気にしてしまう事象」を自分自身が生んでいることに気づきやすくなるし、気づいた時の恥も大きくなる。ゆえに、それを繰り返してしまうことも防ぎやすくなるだろう。なら、「気にしてしまう」性分のままがいい。

 何か崇高な、宗教的な「悟り」をひらいたわけでもないのに、「気にしない」「恨まない」そんな人間であるということは、きっと自分が加害側である危険性に対して自覚が薄いのではないかと思う。「自分も誰かから見ればクズかもしれない」などと言っておきながら、自分のことを嫌いな人間をゴキブリに例えて語るような人を見たので、必要以上に心がささくれだっているせいもあるが、なんだか書き残しておきたくなった。

 交際相手に対する条件、なんてものを表明する権利を許されるなら、私は「適度に疑い続けることを許してくれる人。そして、私のことも適度に疑い続けてくれる人」としておきたい。