学ぶことの楽しさを知る者は学ぶことの楽しさを説く暇も惜しんで学び続けることだろう

 学ぶことの楽しさを知る者が、学ぶことの楽しさを上手に伝える方法を学んでいないことが多いのはなぜか? 学ぶことの楽しさの伝え方が数ある知識や知恵のなかでも特に難しいためか? 学ぶことの楽しさを知らぬ者があまりにも聞く耳を持たないためか? いずれにしても、学ぶことの楽しさを知りながら自分が学ぶことの楽しさを上手に伝える方法を学べていないことに気づかないのはなぜか? 気づかぬだけならまだしも、逆効果としか思えない口ぶりになるのはなぜか? 

 ツァラトゥストラが知恵を求めてさしのべられる手を欲したのは、貧者たちをよろこばせたかっただけだったろうか? 優位に立ちたがる者の振る舞いを批判するのもまた自分が優位に立ちたいだけなのではないか? そうではないと自信を持って言えるのだろうか? 少なくとも、常に優位に立ちたがる者ならば、批判に対しも「相手は自分より優位に立とうとしているのだ」と判断しそうなものだが、なぜその可能性を考慮できないのか? そういった相手を諭したいのなら、もっと効果的な方法を考案すべきではないのか? 学ぶことの楽しさを知る者なら当然それを学ぶべきなのではないか? 本当に学ぶことの楽しさを知っているだけなのだと自信を持って言えるのだろうか? 


 と、まあ、いくら私がここで疑念を呈したとしても、それもまた哲学者的な気分を味わってみたいだけだったり、繊細な自分アピールをしたいだけだったり、それこそマウンティング欲を満たしたいだけなのではないかという批判に自信を持って「そうではない」と言うことなどできず、ごちゃごちゃ言っていないで「論じ得ぬことには沈黙すべき」を実践し、ひたすら瞑想でもしてみようかしらとも思うのだけれど、とりあえず「見下すようなやり方はダメ」だとか覚えたての言葉を喜んで使いたがる子供のように「マウンティング」というワードを頻発させたりしつつ(もちろん、世に蔓延るマウンティング欲の問題はしっかり議論されるべきだとは思うけれど)、自分自身の「見下すようなやり方」や「マウンティング的な振る舞い」には鈍感な人間にはうんざりだとだけは、ここではっきりと言っておきたい。

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

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論理哲学論考 (岩波文庫)

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