愛し愛されては生きられないのさ

 「寅さんが発達障害かどうかに関係なく、ほんの数十年前まで、寅さんというキャラクターは「多くの日本人に愛されていた」という事実から見えてくるものはあると思っている。」(kentaro isaka‏  @isa_kent ツイッターより)

 前後の呟きややりとりなどを見て、なるほどと思うと同時に、しかし多くの日本人に愛されていたのは、はたして本当に「寅さん」だったのだろうかという疑問も生じる。愛されていたのは、寅さんでも寅さんの周りの人々でもなく「それを観て好き勝手に生きたいと願う自分」でしかなかったのではないかと思うのだ。

 上記の意見を述べたいさけんさんがそうだというわけでもないし、いさけんさんの仰る「多くの日本人」の全てがそうだとも思わない。しかし、寅さんを愛した多くの日本人すべてが、いさけんさんが後の呟きで述べたように、『男はつらいよ』を“「生きているだけで価値がある」のだということを、一連の作品を作り続けることを通して、多くの人に語りかけていた人間賛歌”だと捉えていたとも思えないのだ。「寅さんのようになりたい」という願いは、もっと単純に「寅さんのように自分は(自分だけは)好き勝手に行きたい」という願いだったのではないだろうか。

 寅さんというキャラクターが「憎めない」存在では決してないということは、いさけんさんも後の呟きで指摘している(「メチャクチャなこともする、腹の立つようなことも言う、だけど彼を取り巻く人々は誰一人として彼を「憎まない」んだよ。そこに、人間らしい笑いや涙が生まれる」)。実際、いつ帰ってくるかもわからない寅さんの分のメロンがなかったことで喧嘩に発展する場面などは、理不尽以外のなにものでもないように私は感じるし、現実において田舎にありがちな親族や知人同士の(悪く言えば)馴れ合いのようなべたっとした関係性で苦しむことも少なくなかった身としては、誰一人として寅さんを憎まず、そこに人間らしい笑いや涙が生まれるという作品のテーマは理解できるし悪いものでもないと思うけれども、どちらかと言えば寅さんの巻き起こす騒動の負の面のほうが気にかかってしまうし、ゆえに自分が寅さんと深く関わるのは正直に言って少々しんどいなとも感じてしまう。同時に、「寅さんのようになりたい」とも思わないのだ。

 もちろん、寅さんのような人の居場所がしっかりと存在する世界は素晴らしいと思うし、そうであるべきだとも思う。しかし、現実においては(これもまた、寅さんが発達障害かどうかに関係なく)なかなか、最後まで憎まずに過ごすというのも難しい、映画のなかでさえ、周りの人たちの堪忍袋の緒が緩んでしまうような場面は何度も描かれてきた。「寅さんのようになりたい」という声はよく聞くが、それに対して「寅さんの周りの人のようになりたい」という声はあまり聞こえないように思う。寅さんのように生きたいと願う人たちが実際に寅さんのように勝手気ままにふるまった結果、自分たちにとって不都合な人間(その中には、現実の「寅さんのような人」もきっと含まれる)を排除するような言動に結びついていったということはないだろうか。

 そう考えていくと、ひょっとすると寅さんの居場所を奪ったのは、他でもない「寅さんを愛していた」人たちなのかもしれないのだ。