第23回 日本映画学校卒業制作上映会 〜映画なんかなくても生きていける卒業生による呟き

 日本映画学校の卒業制作上映会に行ってきた(ちなみに、腐れ縁お嬢には「何の罰ゲーム?」と言われた。以前、お嬢に私の代の卒業シナリオ集を読んでもらったところ、各作品に毒を吐きまくっていたので、当然と言えば当然の反応)。在学中ですら行かなかったこの催しに、卒業して2年経った今頃、何故参戦したかと言うと、同期の真子晃君に誘われたからである。午前中の作品(ジャーナルゼミのドキュメンタリー)以外は目を通してきた(結果的にジャーナルゼミ作品と技術コース合同作品以外は全て鑑賞)。病み上がり(というか、まだ咳やら何やら少し残ってる)の身体ではちょっときつかったけど。以下、簡単に感想をメモしておく。



 『透明な子供たち』(脚本演出コース+技術コース合同/監:乙黒恭平/脚:乙黒恭平、孫井夏海、野澤翠、木村宏太)

 この作品に限らず、近頃の日本の学生映画やミニシアター系映画で新興宗教団体が登場するのを何作品か観た気がするのだけど、『愛のむきだし』や『ある朝スウプは』の影響なのかな。だとしたら、あの二作は影響力が大きいだけに罪な映画で、他の映画では、大抵それほど上手くいっていない。

 パンフレットのあらすじを読むと、最後に「悲劇を生む」と書かれているのだけど、見た限りさほどの悲劇ではない。主人公・夏生は勿論だし、友也にしても最後の行動のせいで保護されることになるのだろう。その先のことは知らんが、あの段階では、悲劇と言うほどの悲劇ではないと思う。

 そもそも、二人が東京へ旅立つニューシネマ的展開の時点からして、かつてのアメリカン・ニューシネマ、あるいは是枝裕和『誰も知らない』ほど切羽詰まってはいないし、他にやりようは沢山あったはずだ。出来るのに出来ないと考えてしまう人間の哀しさとかおかしさといったものに、さほど共感(そもそも「共感」しただけで、作品を評価すること自体に反対だ)できないので、そういった物語を描くうえでの技術などは遥かに私の代より高くなってるのだけど、そういった物語である時点で評価しない私には、少々物足りなくもある。なにより、このラストにしたいがために、他の「やりよう」を避けているようにしか見えない。つまりは、なぜ他のやり方が彼らにできなかったのかが、きちんと考えられていないのだろう。



 『平凡カブト』(映画演出コース+技術コース合同A班/監・脚:石崎泰士)

 私の代以前からそうだったのだけど、入学する学生にそういう奴が多いせいか、どうも映画学校の作品には、どもりがちな暗めの少年主人公に思いを寄せる大人しめの女の子、的な構図が多い。今期では『平凡カブト』と『丘へと』がその系統。この時点で、個人的にはちょっと点が下がっちゃうのだけど、無闇に暗く重くじめっとした感じになりがちな卒制の中で、ダメ人間コメディをちゃんと撮ろうとしてたので好感が持てた。

 ただ、笑いって一番難しいので、ビールに小便のくだりや「足太いんだよ、ブス」くらいだとクスッともできない。ただ、普段の生活でそこまで大きな笑いが起きるかというと、特に『平凡カブト』に登場する彼らのような生活では起きようがないとも思うので、クスッとすらしにくいけど笑ってもいいくらいのあの感じは良かったんじゃないかとも思う。

 まあ、なにより主演二人の顔が良かった。初期・山下敦弘作品の雰囲気。どうでもいいことだが、主人公・阿部君は、なんだか某脚本ゼミ同期生に似ていた。



 『白い家』(映画演出コース+技術コースC班/監・脚:田中悦子)

 幸福だった頃の家族と共に住んでいた家(現在は他の家族が住んでいる)を再び自分のものにしようと、相手家族の娘にストーカーを装って写真を送りつける主婦、という映画学校卒制では珍しいタイプの話。それだけに、どう決着をつけるか期待していたが、ちょっと残念な結果。いくら「共感し得る」悲しい理由があったとしても、犯罪は犯罪だし、現在住んでいる家族だって、その家に思い出はあるはず。だが、主人公の主婦のそういった愚かさが非難されたりする描写はない。秘密を知った家族に肩を抱かれて「かつての家」から去ってゆくだけ。

 もし、これが『相棒』シリーズの一編だったら、杉下右京は彼女に自身の罪をしっかりと償わせたはずである。どうにも、「人間を描く」ということだけに執着しすぎると、許すべきでないことを許し、許してもよいことを許さないような作品になりがち。おそらく監督・脚本の田中悦子は、『相棒』シリーズや西尾維新の倫理的で理性的であるがゆえの強さと厳しさというものを知らないか、拒絶しているのではないか。あと、これも勝手な憶測だけど『ハーバード白熱教室』も観てないんじゃないだろうか。

 日本で『キック・アス』や『グラン・トリノ』的な作品が作りにくいのは、社会状況が異なるせいかもしれないけれど、『ダークナイト』的な作品が作られにくいのは、こういった感情のみを優先させ過ぎる風潮のせいかもしれない。

 いっそ、スティーヴン・キング的なモダン・ホラーとして撮った方が良かったと思う。『黒い家』よりも怖い『白い家』というのもなんだかいいじゃない。



 『丘へと』(映画演出コース+技術コース合同B班/監・脚:松本拓磨)

 『平凡カブト』以上の、どもりがち青年に大人しめ女の子が好意よせてます物語だが、より明るくバカに徹して撮れていて好印象。たぶん、作者は『もやしもん』のファンだ(女の子のカーペット購入を手伝うとか、飲み会で媚薬をこっそり、といった『もやしもん』そのままなシーンも登場。古墳研究会というのも、『もやしもん』的な大学という異界の面白さの別バージョン。ゆえに、ちょっと森見登美彦も入ってる)。

 監督の松本拓麿は、舞台挨拶で「思っていることをしっかり他人に伝えることの大切さ」と語っていたのだけど、『丘へと』に関しては、そんなことよりも、単純に大学のバカで楽しい物語として成立してるのが良いと思う。「他人に伝えること〜」云々をテーマにするなら、伝えたうえで拒絶されたり否定されたりとかが必要だと思う。

 ちょっとタイトルの語呂が悪いのが残念。もっと良いタイトルを誰かが考えてあげたらよかったのに。

 『あの日、答えを失って』(映画演出コース+技術コース合同D班/監・脚:奥村裕介)

 一番、観てるのが辛かった作品。身につまされたとかではなく、もっと単純に否定的な意味で。語り方としては、いくつかの謎というか事象が小出しにされ、だんだん解明されていくという形なので、物語を追うという意味では、結構真剣に気になって追っていくのだけど、結局どいつもこいつも「自業自得じゃねえか」で済んでしまうような連中なのが辛い。「どうするのが良かったんだ」と言われても、「あの日」どころか、それ以前の振る舞いからして間違っている気がするので、要はゆっくり自分の首を絞めていった連中の話じゃないかと思う。それはそれでいいのだが、作品の空気が「彼らの悲しみに寄り添う」ような感じになっていて、そんなものを観て何を思えばいいんだろう。

 田舎の雰囲気というか景色は、私の故郷に近い感じもあるけれど、あんな視野の狭い迷惑な奴らが近所にいなくて良かったなあ、と思った。閉塞っていうほど閉塞してないし、ファスト風土で楽しめればそれはそれでいい。作り手が、かわいそうと思ってはいけない対象をかわいそうだと思っている感じ。



 『どこかではなく、ここから』(俳優科卒業ドラマ作品/監:鳥井邦男/脚:天願大介

 俳優科作品なので、技術スタッフは基本的にプロ。

 俳優科作品でちょっと気になったのは「身内笑い」。友達がこんな役やってるという感じでの笑いが、会場で結構入る。芸能界データベースにのっとったうえでの演出ならば、観客も(よほどの情弱でなければ)笑えるのだが、ここまで身内笑いだと、知らない身としてはかなり白けてしまう。

 あと、今期の俳優科は女性が少ない。そして、視覚的魅力に少々欠ける。実際、『どこかではなく〜』には、博愛主義で多くの男とつきあっている感情丸出しヒロインを、別の女の子がこっそり眺めて「ブスじゃん」と言うシーンもあるのだけど、いくらすべてを許してくれる博愛主義女だといっても、何故そこまで(かなり犯罪めいたアプローチも多いので、うざいと思うのだが)もてるのかが分からない。いや、美人か否かという話だけではなく、とにかく魅力がどこにあるのかが謎なのだ。ただ、サークルクラッシュとかは、美人ではない子を取り合ったりするらしいので、生々しいといえば生々しいと言えるのかも。

 内容としては、博愛主義、拒絶されても人を好きにならなきゃダメという、ある意味前向きな価値観に覆われているのだが、どうにも乗りきれずに終わってしまった。結局「博愛主義」とは言っても、純子が愛するのは自分が好きになった相手だけだし、他の連中が愛するのは純子だけ。「Q10を愛したように世界を愛せ」と宣言した『Q10』と比べると、致命的に狭いせいかもしれない。

 「母ちゃんに意地悪だった上司も、回りまわって今の母ちゃんの人格を作ってくれたわけだから、これもまた愛するべきなんだよ。母ちゃんを成り立たせているモノ全てを愛する。それよ」(『Q10』第9話より)。

 こういった「世界そのものを愛する」という視点がちょっと足りないのかもしれない。「純子一派」に向けられた「自由ってのは迷惑」って台詞は良かったけど。



 『地獄の猫』(俳優科卒業ドラマ作品/監:サトウトシキ/脚:天願大介

 童貞同盟VS化け猫に魂を売ってほしいものを手に入れた元仲間。童貞モノを今やることは、まったく刺激的ではないが、失礼な話になるけれど、映画学校俳優科の面々は「童貞同盟」が似合う。俳優科卒業ドラマとしては、これ以上ないくらいの内容だろう。

 ただ男子連中の良い意味での童貞臭さが溢れるまくっている映画にしては、ここでも女子の視覚的魅力の欠如が痛い。『ばかのハコ船』のように、女側もハナからモテない感じなら問題なかろうが、どうやらモテている設定。まあ、これもリアルサークルクラッシュなどを考えると、童貞男子はあんまり美人すぎると手が出せないことも多いだろうから、これもまた生々しいといえば生々しいのか。

 ちなみに、鑑賞した作品中、最も音楽が印象に残った作品。

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 卒製とは無関係の自主映画の感想。



 『リストラX』(監:片岡けんいち/2010年/3月5日まで20時からユーストリームにて配信中)

 久しぶりに60年代実験映画〜70年代後半、80年代的自主映画の流れにあるような映画を観た。

 自主映画や学生映画を「観る」際に期待するものって、おそらく荒削りではあっても、普段は観ることのできないものを観たいっていう願望/異物感への期待だと思っていて(変な風に捩れると、タチの悪いスノビストになっちゃうのだけど)、そういう意味では『リストラX』は正しい自主映画だったと思う。

 ただ、そういった自主映画的な作品って、昔以上に「どう届けるか」が難しくなっていて(難しいというのは、公開できないという意味じゃなくて「魅力的な異物感」というものを成立させるのが難しい、というような意味)YouTubeとかニコニコ動画なんかで近しいものなら簡単に配信できるし、検索もできる世の中だと、ほんの少しトンガってみたくらいの作品では「ネタ」として見られて、それで終わっちゃうのだろうなあ、と思う。

 異物感を提供するはずだった自主映画が、異物なんて基本的に存在しない(大きい派閥か小さい派閥か、くらいでしかない)現在に自主映画であることの魅力を保ちつつ生き残るのに必要なのは、結局ある種の「普遍性」であって、それは、たぶん「幼年期の記憶」とか木皿泉が言っていた「今も昔も変わらないことはたくさんある」ってことだと思う。自主映画っぽさ、ということだけに引っ張られて、そういうパフォーマンスで満足するのではなく、「今も昔も変わらないこと」「幼年期の記憶」といったものを、自主映画っぽいものだから出来るやり方(「自主映画っぽい」というだけで、多少の間口の狭さは否めないのだけど)で作品化するのが、当たり前のことだけど、大事なんだと思う。『リストラX』の中には、そういったものが(狙っているかどうかは別として)ちゃんとあったと思う。

 そもそも、自主映画っぽいザラつきって、結構「今も昔も変わらないこと」「幼年期の記憶」といったことと相性は悪くないと私は思っていて、それは例えば『Q10』のエンドロールの雰囲気とか、鈴井貴之『man‐hole』冒頭の遊園地のシーンとか、あるいは清水マリコ水森サトリの現代劇なのに妙に懐かしい感じとかが示してると思う。『リストラX』で言えば、全体が自主映画っぽさで覆われてるのは、あまり感心できない(嫌いではないのだけど、今そういう映画を観ても、とても狭い世界での馴れ合いになってしまう気がして)のだけど、物悲しげな音楽が流れて、台詞等が排除されてる所なんかに、そういった強さがあると思う。

 逆に言えばいかにも、80年代的なカンフー映画の自主映画的オマージュは、どうしてもその世代を生きた人だけのノスタルジーになってしまうところがあって、ちょっと辛かった。そういった、自主映画に携わった人/愛していた人のみに通じる部分よりも、NHK教育でたまに放送されてる、ちょっと奇妙なクレイアニメーションみたいな、余計な意味を省いた「幼年期の記憶」に直結するような部分の強度をどれだけ高めるかが、「自主映画っぽい自主映画」が現在にも通じる普遍性を持つ為に必要なことなんじゃないかと思う。

 80年代くらいの自主映画の良い意味でのバカさも、現在だと更に底抜けの気持ち良いおバカ動画がネットには溢れてるので、通用しにくくなっている面もある(それは、80年代自主映画的なバカさに普遍性が足りなかったのかもしれないけど)。ある特定の世代/コミュニティの為だけのノスタルジーではない普遍的な懐かしさの表現として、自主映画的なザラつきは向いてると思うし、『リストラX』には、繰り返しになるけれど、そういった強さは確かにあったと思う。ただ、タイトルからは、そういったことを狙っている感じは香ってこないので、制作した人たちからは「そんなこと期待されてもなあ」と渋られるかもしれないけれど。