これからは「正義に見えるポーズ」の話をしよう

 企業や団体に対する抗議としての不買運動やボイコットに効果があるかといえば、実売が深刻に減少していなければ効果はないし、減少していてもそれが抗議によるものだと明らかでなければ効果は薄い。効果があったといえるのは、抗議の結果だとはっきり分かる形で深刻な実売の減少があった場合で、結局は「多くの抗議者がどれだけ徹底した抗議行動をとれるか」が重要であることは、改まって指摘するほどのことでもないだろう。

 抗議に賛同する者の数に関しては、対象企業が抗議されるべき状態にあり、それが広く知られていれば自然と増えていくだろうが、問題は抗議の徹底という部分である。企業の規模や活動内容にもよるが、なかなか関連する商品や企画全てを避けるのは難しい。もちろん、主力商品等に的を絞って可能な限りの効果を期待するのも手ではあるが、当然徹底した抗議とは呼べなくなるため、相手があくどいほど無駄な行為になる可能性が高い。抗議する側の負担は決して小さくないし、抗議活動を他者に強要するなど論外だが、不買やボイコットというのは、個人の経済事情や地理事情等によって「どうにもならない」立場の者も多く存在するであろうことは容易に想像でき、そういった点を踏まえると、自身が不買を心がけていることを表明することすら気がひけてしまう場合もある。

 もっとも、困難であるからこそ抗議としての意味があるという考え方もできるのだろうが、そうなると抗議を表明しながら、同時に自分が徹底できていないことをも表明する者の存在というのは、いったい誰の得になるのだろう。実際にそのような言動をとる人物を目にしてしまったがゆえに生じた疑問なのだが、少なくとも対象企業へ抗議の意を届けるという点においては悪手だと思う。

 ただでさえ、抗議の声は多く見えても、実売はさほど減少していないという例が少なくないという。そんななか、抗議者自身が徹底できていないことを表明していては、企業側でなくとも、本気で抗議する気持ちがあるのかと感じてしまう。たしかに、どんな場合でも完璧でなどいられないし、どうしたって矛盾も生じるのが人間ではあろうが、許容すべきではあっても開き直って良いものとは思えない。そもそも、どういう理由でわざわざ不徹底さをも表明するのかと考えると、結局欲望を抑えられないか、あるいは何かの拍子に他者から不徹底を指摘され糾弾されるのを恐れているがゆえの保険的なものではないかという疑いも生じる。いや、保身を考えてしまうこと自体を否定はしないが、同じ口が保身を卑劣な行為だと述べているのだとすれば、さすがにその無神経さ愚かさに呆れてしまうし、自分が正義の側だとアピールしたいだけではないかとも思える。私が目にした人物が正にそうだったように。