やーしょー、たまに思い出すくらいなら、構わないだろう?

 本来の発売日には秘境在住者ゆえに読むことができないので、感想や考察はこうして日曜日に更新しています。というわけで『聲の形』最新話を読んで泣いたり笑ったり考えたりしたことをダラダラ綴ろうの回。ネタバレ注意(話の流れで西尾維新続・終物語』の内容に関しても触れるので、そちらのネタバレも注意)。第54話「君へ」編。

 そりゃ、プロポーズまでしちゃったら、「単純な恋愛漫画」にはなりませんわね。もう私には、金婚式を迎える幸せそうな将也おじいちゃんと硝子おばあちゃんの姿まで見えましたもの。

 それでもなお、私を「いや、何か騙されてるんじゃないか……。とんでもないことを残り少ない話数で描いてくるんじゃないか……」と不安にさせる大今先生は、やっぱり鬼……否、ラムちゃんだな、と。



 ところで、西尾維新の『続・終物語』を読了したのだが、その「あとがき」に、残りの話数で『聲の形』が描いていきそうだな、と私が勝手に思っていることとほぼ同じ内容が書かれていた。というか、『続・終物語』そのものが、そういった「物語」であった。


 あれらは、彼女たちの心残りであると同時に――僕の心残りでもあったのだと、扇ちゃんは言った。
 彼女達の二十パーセントであり、僕の二十パーセントであり。
 失われた、置き去りにされた気持ちだった。(『続・終物語』264P)

 ただ、思い出して、向き合っただけ。
 ……たぶん、そのくらいでいいのだ。
 全部は背負えないし、持っていけない。
 羽川でも老倉でもないが、旅の荷物は、最小限にするべきなのだ――持ち運べるトランクの大きさには、限りがあるのだから――でも。
 たまに思い出すくらいなら、構わないだろう?(『続・終物語』265P)

「結局全部はできない、何かは諦めなきゃいけないって話でしょうか? ある幸せを選択することは、他の幸せを犠牲にすること――幸福の対義語は不幸ではなく、他の幸福って感じですか?(中略)『する』と『できる』の違いも、結構顕著なので、『したこと』と『できなかったこと』がイコールになると、割と辛そうです。なんかやればやるほど、後悔することや反省することが増えていくのだとすると憂鬱ですけれど、『あのとき、ああしてればなあ』って気持ちって、案外次に繋がっていく気もするんですけどね」(『続・終物語』あとがき)


 『続・終物語』で描かれた「鏡の世界」「二十パーセントの世界」は、硝子の夢想や将也の見た夢とほぼ同じことだろう。阿良々木君はそれらを「たまに思い出すくらいのもの」として次の物語へ飛んだ。将也も、ここにきてようやく硝子や過去と「向き合い」、ほぼプロポーズのような言葉まで言ってのけた。だが、少し気になるのは「もっとみんなと一緒にいたい/たくさん話をしたり遊んだりしたい」の「みんな」が、どこまで含まれているのかということだ。文字通り、みんな(メインキャラクター全員)なのだとすれば、おそらく「たまに思い出すくらいのもの」として訣別せねばならない関係が将也と硝子の前に突きつけられるだろう(それが誰でどういった形になるかまでは分からないが。ひょっとすれば、辛すぎるので拒絶したい展開ではあるが、将也と硝子の関係自体においてかもしれない。阿良々木君と千石撫子のように)。


 さて、結局『聲の形』も障害者=純真無垢という構図から抜け出せなかったという指摘があるのだが、以前も述べたように、私はそうは思わないし、たとえそうだとしても、そこを問題にすべき作品だとはあまり思わない。そもそも、私がその構図がたいして気にならないのは、端的に言って、そうではない構図の作品も結構見てきたからだというのがある。なので、いまさら硝子のような天使(言うほど「天使」的、「聖」的なキャラクターでもないと思うのだが)が描かれたからといって、障害者=純真無垢という構図に呑まれたものだとは思わないのである。

 ただ、『美味しんぼ』騒動が、描かれた内容のマズさは勿論のこと、あれが『美味しんぼ』だったからさらに事態は深刻だった(つまり、誤った内容のものが、手にとられやすい媒体に書かれたという問題)ということを考えてみれば、週刊少年マガジン連載作品における描かれ方としては、たしかに踏み込みが満足いかないという意見にも頷ける面がないでもない(しかしながら、私は現在においてマガジンがどれだけ読まれているかというのは、あまり実感がもてない。というのも、私は昔から漫画雑誌を購読する習慣があまりなく、マガジンのみならず、基本的にはどんな漫画でも単行本派であり、ジャンプでさえ購読するようになったのは『銀魂』以降である。マガジンにいたっては『聲の形』4巻収録分あたりからであり、ゆえに週刊少年漫画誌の影響力というものには疎い。所有している漫画作品が元々どこで連載されていたのかさえ、理解していないものがあるのである)。

 それにしても、同じような批判的指摘として「硝子は純真無垢な被害者を貫き通した(そういう描かれ方をした)」というのがあるが、たしかにそれが西宮硝子というキャラクターの薄さという問題一点に対する批判なら分からないでもないのだが、しかし(純真無垢とまではそもそも思わないが)、そうであると困る理由ってなんなのだろう、とも思う。植野が現実的なキャラクターだというのは、(個人的に植野の言動は度し難いものではあるが)たしかに、ああいった考え方で動く人間はいるというリアリティが植野というキャラクターにはあるということなのだろう。その点に関しては、おそらく彼女を嫌っている者も好きな者も共通していると思う。植野が単純な悪として描かれてはいないというのは、その点だけでも充分指摘できることだと思う。

 しかし、やはり私は『聲の形』における硝子の描かれ方に対して批判的にはならない。『聲の形』は「障害者いじめ」というタブーを破ったと言われるが、それはその「障害者いじめ」が、障害者側に非(あからさまに人間性に問題があるなど)がほとんどなくとも起こり得るものであったという点でより強烈な印象を残すものになっていると思うからだ。

 硝子に多少の非がなければ、許しがたいという感情は、そのまま植野の「ハラグロハラグロ」思考に通じる。ここからは、少々“邪推”的にもなるが、私は、どうも硝子が「天使すぎる」と言われてしまうように描かれているのは、そのほうが硝子への感情移入が高まるからという理由ではなく、潜在的に植野のような「いじめる側の論理」を持った読者の、「硝子にも負の面があるはずだ」という期待(いや、確かに「負の面」はとりたてて描かれていないだけで、突き詰めれば硝子にだって色々あるのだろうが、それが「いじめられてもある程度仕方ない」と思わせるほどのものであるべきだという期待?)を裏切り、「どうですか? 彼女には少なくともいじめられても仕方ないと、はっきり言えるような面はありませんでしたけど?」と突きつけるためだったのではないかと思ってしまう。そして、何度も言っているが「反省する加害者」である将也こそが最もファンタジーな存在であるように、そんな「いじめる側の論理」を心の内に秘めた者は、その暴力性を自覚することはほぼない。はたして、リアリティや重層性といった点への批判として、硝子のキャラクターの薄さを指摘しているのか、はたまた「そうであってくれないと困る」何かが、批判者の心の内にあるのか……。

 おそらく「障害者いじめ」というものに関して、小学生の頃の将也がしょっちゅう行ったような加虐行為のほうに重きを置いているのなら、硝子の「天使性」と呼ばれるようなものの不自然さが気になってしょうがなくなるのかもしれない。しかし、逆に植野の健常者ゆえの暴力性や川井の無自覚な差別性といった、ある種、見えにくい分深刻な「障害者いじめ/弱者いじめ」の構図をより重視している側にとっては、硝子の「天使性」云々といったものは、さして気になる欠点とは思えなくなってきそうだ(これが少し怖い仮説なのは、前述の通り、つまり前者は『聲の形』を読んでなお、自身の中にも潜んでいる可能性のある後者的攻撃性、差別性に気づいていないということだ。もしくは、そこを直視したくないがゆえに、硝子の天使性の問題を重視する?)

 序盤の展開において、心の内に障害者への差別的な感情、あるいは健常者/強者の暴力性のようなものを秘めた者でも胸を締め付けられるような展開だったのは、『聲の形』が徹底して将也の視点から描かれていたせいだろう。「反省する加害者」たる将也こそ最もファンタジーな存在だと言っているが、しかし、そのファンタジーな存在がそうせざるを得なくなるような背景が嫌と言うほど伝わってきたのが序盤なのだろう。

 そして、いつの間にか将也は、真柴並みにいじめを憎む私のような者でさえ応援したくなるような主人公になっていった。しかし同時に、将也が行ってきた行為の重さを若干曇らせてしまう面もあったのかもしれない。

 そんな折に現れるのが、ほとんど成長していない、あの頃のままの「一途な態度」で硝子を攻撃する植野なのである。植野は、現在においてもその健常者の暴力性を露わにする存在なのだが、同時に、彼女の存在は、将也の非現実性を際立たせる。おそらく劇中の将也も、再会後の植野のいくつかの振る舞いに触れて、かつての自分への嫌悪をより強くしたのではなかろうか。確かに将也は成長し、反省もした。しかし、過去は変えられないという点をより重く捉えるならば、川井と植野を「目クソ鼻クソ」と評した将也も、その「目クソ鼻クソ」の一員であると言わねばならない(というか、将也自身そういう思いがあったのだと思う)。「現実性」というものを重視して、『聲の形』に対して批判的な意見を述べようとするなら、硝子の非現実性よりも、将也の非現実性を問題にすべきではないか? というのが私の意見であり、同時に数少ない『聲の形』に対する不満というか、気になる点である。

 さて、大今先生が、本来描こうとしていたものは「嫌いあっているもの同士の繋がり」らしい(「いじめ」を売りにしたつもりはなく、問題作と言われることには、驚いたという発言もあった)。そうなると、そもそも将也と硝子は「嫌いあっていた」のかという話になる。当初の構想がどうだったのかは分からないけれども、かつての将也は硝子が嫌いだったと言っているが、今はそうではないだろうし、硝子にいたっては、それこそ「天使すぎる」と揶揄されるように、あれほどまで苛められていても将也が嫌いだった節はあまり見られない。植野は激しく硝子を嫌っているようだが、これもまた硝子の側はそうでもなさそうだ(さすがに好意は抱いていないだろうが)。となると、現時点で(いろいろ複雑な思いはありつつも)「嫌いあって」いるのは、おそらく将也と島田、広瀬のラインだろう。実際、彼らとの今後については、ほとんど描かれていない。植野以外だと「和解ではない救いの形」が示されそうな関係の最たるものだろう。

 また、インタビューにおいて大今先生は「何も解決しない物語が好き」というような発言もしている(正確に言えば、「何も解決しない物語が好き」というのはインタビューの見出し的なもので、大今先生自身の発言を抜粋すると「何も解決しない、すっきりしない状況が一番苦しいので、そこに救いを与えたいと思っています。もしかしたら自分が救われたいと思っているだけなのかもしれないんですけど」になる。ちなみに映画『リトル・ミス・サンシャイン』が例に挙げられている)。これは、「解決」というものをどう捉えているかによって、微妙に解釈もズレていきそうなところなので、これをもって先の展開を予想するのは、ちょっと困難である。だが、今回の考察もどきにおいて先に触れた西尾維新の作品、特に「物語シリーズ」は、「過剰なまでに解決しようとする物語」だと思う。「解決」を主人公(あるいは、最も感情移入できた登場人物)にとって最良と思える結果に導くことだとするなら、「物語シリーズ」ほど「解決しない」物語もないのだが、しかし、忍野メメというキャラクターによる「バランスをとる」というスタンスによって裁かれる「みんなが不幸になる解決法(不幸を分散させる)」は、情や義理といったもので黙認されていたような過ちを直視させる機能も持つ(このあたり、忍野メメは、近年の話題作で言えば『相棒』シリーズの杉下右京と似ている)。ひょっとしたら、『聲の形』でも、上記作のような痛みを伴う「みんなが少しずつ不幸になることで先に進む」という展開が示されるかもしれない。

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(5) (講談社コミックス)

聲の形(5) (講談社コミックス)

続・終物語 (講談社BOX)

続・終物語 (講談社BOX)

傷物語 (講談社BOX)

傷物語 (講談社BOX)


以下、遊びネタ。


将硝どうでしょう(水曜どうでしょう×聲の形)第4話
 ※マガジンは水曜発売です。

将也「管いじったっけ、尿入っちゃってて、もう垂れ流しさ」
(『水曜どうでしょう「72時間!原付東日本縦断ラリー」』より)



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709