「まずは君が落ち着け」(@『シン・ゴジラ』)

 映画版『聲の形』の日本語字幕付上映(聴覚障害のある方へのバリアフリー的上映)に対する要望というか批判というか、まあそういった様々な声があがって、ちょっとした炎上状態になってしまっているようなのだが、数少ない冷静な方々(というより、根気のある方々)が必死にあらゆる主張を整理し、なんとか建設的な議論に持っていこうとしているようなので、なるべくそんな人たちの意見だけを注視し、各方面の短絡的な意見しか叫べない人たちのことは無視しておいたほうが社会のためにも私の精神衛生のためにも良いだろう。もはや、私なんかが特に口を挟む必要はないだろうし、そもそも期待されてもいないだろうし、幸い口を挟みたいとも思わない。

 ただ、主張が乱暴であることがわかりきっているような人はいいのだが、ツイッターにおいては、乱暴としか思えない意見も比較的冷静と思える意見も含め、やみくもとさえ思えるほど大量に他人の呟きをリツイートし、それでいて「参考のためにリツイートしているだけで、肯定の意味ではありません」といった註釈(伊藤剛さんは、固定ツイートに「RTはメモがわりの事が多く、必ずしも賛同を意味しません」と記してある)があるわけでもない人がいて、かえってこういうタイプのほうが困ってしまう。自分の意見を整理する気も、他人に伝えようとする気もないのかもしれないので、これもまた無視してしまって良いのかもしれない。単にひどく整合性がないだけの人という気もするし。

 さて、『聲の形』の日本語字幕付上映は、満足がいくほどのものではなかったかもしれないが、しかし、他の映画よりは多く実施されている。ゆえに「満足いかない」「納得いかない」ことの理由は、字幕付上映がなかったからではなく、その実施回数が少なく思えること、そして実施時期が遅いことらしいのだが、映画館の数自体が減り、映画が娯楽の王様ではなくなってしまった現在において、観たい映画を映画館で観るということが困難なのは、障害のある方に限った話ではない。近くの映画館ではやっていないから車で1時間半かけて観に行ったと呟いている人がいたが、もっとも近い映画館自体が車で1時間半近くかかる人だってたくさんいるし(それどころではない人だってたくさんいるだろう)、そんな地域では字幕のあるなしに限らず、おそらく『聲の形』くらいの公開規模の作品は映画館で観ることはできない。かく言う、私がそんな状況にある。

 もちろん、障害があることによって、より困難になる可能性が高いのは確かだろうけれど、「観たい映画を他の人たちと同じタイミングで観ることができない」という点のみに関しては、少なくとも怒りを込めて主張できるほどのものではない気がする。そういったことを考えられずに、ただ声をあげればいいと思ってしまっているのなら、それは問題を解決するのに向いていないということだろう。

 当事者でなければなかなかわからない問題というのは確かに存在するが、だからといって、その当事者に問題を伝える力があるか、問題の解決策を考える力があるかというのは、別の話である。