下等生物たちの夕暮れ

 二階の窓を開けると手が届きそうなところに電線が通っているのだが、実際には届きそうなだけで、どんなにギリギリまで無理をして身体を窓から突き出しても手が電線に触れることはなく、いくら私の脳の中のバカな部分が「やってみたら届くのとちゃいますの? 試してみたらええんとちゃいますの?」などと囁いてきても、バランスを崩して転落する危険性はあっても、電線に触れてしまって、運悪く漏電したりなんかしていて、バチバチっと火花を上げてマンガのように黒焦げになって口から煙がぷしゅうっというだけなら良いのだが、現実はマンガのようにはいかず、笑えない感じの死体と化してしまうのだが、幸いなことに、届かないからそんな心配はないのである。バランスを崩して転落したとしても、さほどの高さではないので、たとえ命を失っても、それほど悲惨な死体にはならずにすむ。だが、どう頑張っても届かないこの電線に、鬼蜘蛛が巣を張っていたりすると、大の鬼蜘蛛嫌いの人間としては、なんとしても退治しておきたくなるもので、しかし、どう頑張っても手が届かない電線なので、風のない日であれば勢いの良い殺虫剤を駆使して鬼蜘蛛野郎がぽとりと地面に落下していくまで殺虫成分を吹きつけることも不可能ではないのだが、風が強いと蜘蛛野郎に届かず、まったく見当違いの方向へ殺虫成分は飛んでいってしまう。そもそも益虫である蜘蛛に対して、そこまで執拗な攻撃を加える必要があるのかと思われるだろうが、私だって地面を這いまわるだけの蜘蛛やぴょこぴょこ跳ねる姿が愛らしいハエトリグモなら素手でつかんで外に逃がしてやるくらいの優しさを見せられるが、鬼蜘蛛野郎が私の行動範囲内に存在していることはどうしても許せないので、執念深い殺人鬼のような目で私は鬼蜘蛛野郎の息の根を止めてやろうと普段の何倍も脳を働かせたりするのであるが、いかんせん高機能とは言い難い脳なので、手も殺虫剤も届かない電線に張り付いた鬼蜘蛛野郎を退治する手段など浮かばず、ヤケになって長い棒かなにかで叩き落としてやりたい気分にもなるが、そこが電線であるということを忘れてしまうほど私の脳はポンコツでもなく、そうこうしていると、この夏のあまりの雨の多さによって人の迷惑など顧みずに増えまくった鬱陶しい小虫の野郎が耳元でぷうううんと不快な音を発しやがり、払いのけようと手を強く振ったら目測を誤ってメガネに当たって弾き飛ばしてしまい、幸い壊れることはなかったが、再びぷうううんと近寄ってきたらしい小虫の野郎の居場所を目視することができず、おいこの糞鬼蜘蛛野郎、益虫ならこの小虫を食っておけと再び鬼蜘蛛野郎への憎しみが噴出し、なにがなんでも小虫ともども息の根を止めてやると思い、落ちたメガネを再装備し、常備してある殺虫剤の中で最も勢いのあるものを手にとり、さあ覚悟しやがれと窓を開けようとしたところ、小虫の野郎がまたしても耳元でぷうううんと不快な音を発するので、いったん殺虫剤は置いて、冷静の小虫の野郎の所在を確かめ、手の平の細胞が悲鳴をあげるほど力強くばちん!と叩き潰してやり、私は薬指の付け根あたりにべとっとこびりついた小虫の残骸をアルコールティッシュで拭き取り、さあ次は鬼蜘蛛野郎の番だと殺虫剤を手にとり、窓を開けようとしたのだが、いつのまにか鬼蜘蛛の野郎はどこか見えない場所に移動していやがり、いっそ屋根の上に登って殺虫剤を撒き散らしてやろうかとも思ったが、さすがにそこまで冷静さを失うほど私の脳はぽんこつではなく、結局、いらいらだけをたらふく味わい、冬さえ来てくれれば虫どもに気をとられることはないのだから、さっさと来やがれ冬将軍と空に向かって叫んでみようかと思ったが、繰り返すがそこまでぽんこつな脳でもないので、おとなしく机の前に戻ってきて、こうして本日の日記など書いてみたりしているのだが、気分の晴れることなどひとつもないわけで、私の近くに虫と微生物以外の生命体が存在していないことが幸いと思えるほど機嫌が悪い。