お願いジャック・ザ・クソリパー

 高校時代、『キューティーハニー』の主題歌を「お願いお願い 傷つけないで」ではなく「お願いお願い 近づかないで」と歌っている奴がいたが、替え歌だったのか単純に間違えて覚えていたのかは分からない。険悪な関係ではなかったが、仲が良いわけでもなかったので、歌の通りに私は近づかないでおいたからだ。

 しかし、人間関係においては、ひょっとしたら「傷つけないで」と思ったり思われたりすることよりも「近づかないで」のほうが、思うのも思われるのも多いのではないかと思ったりする(思われたりするかどうかは当然読んだ方々に委ねる)。「傷つけないで」は、良好なものかどうかは別としても、ある程度の関係性がなければそうそう頭に浮かばない願望であるのに対し、「近づかないで」は、その関係性自体を拒否している。「人間関係において」などと書いたが、「近づかないで」は人間関係を成立させない願望だろう。だが、結ばれる関係よりも結ばれない関係(結ばれていないのだから、「関係」ですらない)のほうが多いはずなので、私の勝手な予想は正しくなかったとしても、それほど馬鹿にされるものでもないかもしれない。

 もっとも、「近づかないで」と面と向かって口に出してしまった場合、それが原因で嫌な関係性が生じてしまうし、それこそ言われた側は傷ついてしまう。傷つけることでも関係性は生じてしまうのだから、願望としての「近づかないで」は、ある意味「傷つかないで」とも同義である。そして、そう願う理由は自分が嫌な思いをしたくないから、つまり「傷つけないで」だ。相手の存在を知ってしまっただけでも最低限の関係性は生じてしまうのだから、人間関係というのは厄介なものである。

 こういったことを踏まえると、自分勝手と思われそうな「傷つけないで」や「近づかないで」という願望には、たとえ自分が傷つきたくないがゆえだったとしても、相手に対する「傷つかないでほしい」という願いを内包していると言えそうなので、これも優しさの一種なのだと主張されても自信を持って否定することはできないし、自身を持って否定できる人間のことを自信を持って肯定することもできない。「優しくするのは、優しくされたいから」「傷つけないのは、傷つきたくないから」。利己主義だの個人主義だのと言われそうだけれども、優しさが利己主義や個人主義から生じたものではないと言い切れる人間には傷つけられそうなので近づきたくない。

 

(余談)ツイッター等で「クソリプ」と称されるような説教を突然他人に投げかけるようなアカウントを見て「優しい人だな」とは思えないが、あれがもし「自分を傷つけてもらうために他人を傷つけてまわる」という歪んだ自傷行為なのだとしら、それはそれで厄介な話である。

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