対話の不可能性

 オリンピックがようやく終わったが、パラリンピックも強行される様子だし(もっとも、あれだけの反対意見のなかオリンピックは強行したのに、あっさりパラリンピックだけは中止というのも、それはそれでパラリンピックに対する差別意識を指摘されそうではある)、コロナ禍でなくとも問題だらけのまま適切と言い難い対応で延々と開催され続けてきた高校野球は現在も関係者の考える程度の感染対策を徹底しつつ当たり前のように熱気と飛沫を撒き散らし、うんざりして鬱症状が悪化して頓服薬を多めにもらったほうがいいかしらなどと考えながら通院していると、県外ナンバー狩りが発生していないのが不思議なほど地元ナンバー以外の車が目につき、そりゃあこのド田舎でも感染者が減らないわけだよなと脳内でマラソンの沿道に詰めかけた愚か者共を虐殺する妄想をしてなんとか気を鎮めていた。

 ところで、オリンピックの開催自体に賛否があるのは仕方ないとしても、閉幕後に賛成派・反対派がそれぞれ「賛成してた奴、今の感染状況を見てどんな気持ち?」だの「反対派やボランティア辞退した奴、悔しがってない?」だのと、似たような挑発をしているのが見苦しい。開催の是非自体がどちらにあったとしても、大半の人間は自分の立場にとって都合の良い情報しか信じないであろうことくらい想像できそうなものだが、それでなおこのような低俗な煽り発言を行うのは、結局議論でも批評でもなく、相手を馬鹿にして溜飲を下げたいだけのことだろう。まあ、これは新型コロナウイルスをめぐる対立に限った話ではないけれど。実際、私自身も上記の「低俗な」連中に対しての怒りのなかに、「見苦しいと感じた相手を見下して溜飲を下げる」という気持ちが欠片もないと言えるほど、自分の思考の正当性に自信があるわけではないのである(ただ、ひとつ自信を持って言えるのは、私の最大の憎悪対象はスポーツおよび体育会系であって、おそらくコロナ禍における大規模イベントであってもスポーツ以外であれば、それを推進するのが右寄りであれ左寄りであれ何であれ、これほどの嫌悪感を抱かなかったことだろう)。