ジョナスは2000年に25才になり、2021年の辺境の地では一人腐っている者あり

 腐るよりは干からびたい。

 ルチオ・フルチ作品的なゾンビよりは乾いたミイラで晒されたい。

 また一歩、死に近づきました。

 

さて、東京五輪パラリンピック開会式の楽曲を担当することが発表された小山田圭吾の過去のいじめ告白記事(1995年のQuick Japanでの発言。これまでにも何度か話題にのぼってはいた。この号は我が家の資料庫にも保管されています)に関して、いろいろと騒ぎになっているようで、なかには義憤が過ぎるように感じる者もいるが、本来のオリンピック/パラリンピックの理念からすればふさわしくない人選だとは思う。あくまで、「本来の理念」からすれば、だが。

 

「過去のこと」すべてがその人の今後の人生を無価値にするとは思わない。けど、この行為の継続性と残虐性を考えると、あえてわざわざ「栄誉(及び便益)を与える」必要はどう考えてもないでしょう。別に今から法廷で裁くわけじゃない、「栄誉を与えるのはやめろ」って話。 渡邉葉@YoWatShiinaEsq(Twitterより引用)

 

 基本的には上記の意見に概ね同意するのだけれど、ここまで不祥事が続き、それでなおコロナ禍においても強行されるらしい東京五輪パラリンピックに関わることが、はたして「栄誉」と呼べるのかどうかは疑わしい気がする。このタイミングにおける小山田圭吾氏起用の発表は、ある意味で「今回の大会らしい」展開だったのではないかと思うし、なんなら人間性や過去の所業はともかく音楽家としては素晴らしい小山田圭吾という存在ですら、今回の大会には勿体ないくらいで、いっそ過去も現在も人間的にめたくそで音楽家としても誰が見ても三流以下くらいの人物が適任なのではないかと意地悪く考えてしまう(ゆえに私は、野村萬斎さんや小林賢太郎さんには、できればこんな仕事は受けて欲しくなかったと思っている)。

 もっとも、上記「適任者」のような人物が音楽家として成功しているはずもないのだが(なにしろ音楽家として誰が見ても三流以下なのだから)、言い換えれば、音楽家ですらない人格破綻者の適当な鼻唄くらいが丁度良いと感じてしまうほど、今回のオリンピック/パラリンピックを憎くおもっているのである。どうしてもやるのなら、いつの間にか終わっていたくらいのものに留めてほしい。