臓器林で踊らせて

 「臓器林」。駄洒落としてはすでに多くの(そして若干の猟奇趣味を持った)者たちによって口にされたであろうが、作成した文章中の誤変換にこの文字を見つけた時、何かしらの理由でパソコンやスマホの予測変換を調べられるとあらぬ疑いを受けかねないなと感じた。

 おそらく「ぞうき」の時点で指が変換キーに触れてしまったがゆえに現れた猟奇的な林なのだろうが、それほど臓器やら臓物やらを打ち込んできたつもりはない。つもりがないだけではあるが、ひょっとするとパソコンやスマホ付喪神が私の趣味嗜好を読み取っていたのかもしれない。

 さて、そんな架空の「臓器林」という言葉を目にした時、何らかの臓器が大量に(下手をすれば埋め尽くすほどに)放置された林を想像する者と、何らかの臓器にしか見えない木々によって構成された林を想像する者と、どちらが多いのだろう。なんとなく、後者が劣勢のような気がする。

 臓器で埋め尽くされた林なら、多大な生物の犠牲、そして臓器の用意と配置を担当する者の労力があれば実現できる。もちろん、特殊なアート等の理由がなければ実現する意味はないし、さすがに実現してほしいとも思わないのだが、倫理観などを取っ払えば実際に作ることはできる。「林(雑木林)」も「臓器」も現実に存在するものだからだ。

 しかし、臓器と見紛うような木々というものが実在するかというと、樹木の品種改良などを行ったとしても、さすがに困難だと思われる。画力があれば絵にすることはできるだろうし、CG等で現実のような光景を作り出すことも可能だろうが、それは実現とは言い難い。やはり、同じ言葉であっても、人が想像しやすいものは、比較的実現しやすい方になるのかもしれない。

 だとすれば、「雑木林」を元にした駄洒落ならば「臓器林」よりも「臓器囃子」の方が、多くの者の口から発せられて然るべきではないだろうか。手抜きであろうが駄曲であろうが、臓器にまつわるお囃子を適当に作れば良いだけの話なので、大量の臓器を雑木林に撒き散らすよりも容易であろう。しかし、これもまた「なんとなく」でしかないが、駄洒落としては「臓器林」が優勢という気がする。「林」を「囃子」に変換するのは、臓器を林に撒き散らすよりも困難なことなのだろうか。

内臓幻想

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