「ゲームdis本「脳内汚染」文庫版に対するワナワナがきてる。ゲームは人を殺さない。人を殺すのはにんげんだ。問題のすりかえとデマゴーグを喧伝する偽預言者こそひとのこころをころす。ノーライフキングと戦ったいまをいきる子どもたちが「がんばれ!」ってファミカセに書いているよ。」(2010年6月11日 飯田和敏の呟き)
久しぶりに映画版の『ノーライフキング』(1989年/監督:市川準/脚本:じんのひろあき)を観た(以降、ネタバレ注意)。
いとうせいこうの原作の出版からわずか1年後に公開された映画版(ちなみに、伊藤剛さんが映画館で観た時は、ガラガラだったらしい)は、評価を調べてみると「好きだ」という人も多いが、原作との違いが気に入らないという人も結構いる。たしかに、映画版のラストは、原作における粗暴で短絡的な印象の中年テレビタレントが言うような「リアルに生きろよ」を推奨したように見えなくもない。
だが、少なくとも「ゲーム」が否定されている印象はあまりない。原作と違い、主人公の少年たちは、映画のラストで『ライフキングの伝説』をクリアしている。クリア時のレベルを語り合い、ゲーム内でもゲーム外でも「仲間」であることが示され、街を走る少年たちの姿は、決して「ゲームを通じて行われる子どもたちのコミュニケーション」を否定してはいないようだ。これは、私が個人的に「古き良きドラクエの姿」と呼んでいるものに近い(すれ違い通信以前から、少なくとも私の周りでは、どこまで進んだか、あるいはどんなアイテムを入手したかを学校などで友達と語り合って、競い合って、楽しんでいた。メンコやベーゴマがRPGに変わっただけで、友達とのつながりが希薄になったとは、どうしても思えない)。市川準という監督は、「古き良きもの」を撮る傾向があり、実際『〈日本製映画〉の読み方』で相田冬二が書いているように『ノーライフキング』以外の作品は「現代」とは、あまり関わりがなさそうだ。そんな市川準が、現代(といっても1989年当時だが)と対峙せざるを得なかった『ノーライフキング』において、テレビゲームに毒された子供社会の否定でも、「かつて」の子供社会の単純な再現でもなく、テレビゲームや噂話などがコミュニケーションツールとなった子供たちの中に「変わらぬもの」を見出そうとしたとしても不思議ではない。
また、そういった点を踏まえずとも、映画版『ノーライフキング』は、本当に中年テレビタレント(原作における悪役のような存在だが、映画には登場しない)的な「リアルに生きろよ」が推奨されているのかと言えば、そうとも思えない。
確かに、原作で主人公のまことがゲームと現実が入り混じった「死に満ちた街」を歩く場面は、映画では、いわゆる現実=リアルを再確認するようなシーンに見える。市川準が後に撮った『病院で死ぬということ』(1993)でインサートされる東京の庶民の姿や風景のドキュメンタリー映像に近い(『病院で死ぬということ』は、『〈日本製映画〉の読み方』に倣えば、「冷ややかな“虚構”と温もりある“現実”が等価に存在する作品であった)。
しかし、映画を観てみればわかるが、出演者たちの「表情のなさ」によって、中年タレント的「リアル」というものに、どうしても違和感を感じさせられる。まず、子役たちが皆、よくぞ選んだというくらい冷ややかな素晴らしい顔をしている(主演の高山良は、後に『世にも奇妙な物語』でも「悪魔のゲームソフト」という話で主演を務めている)。また、登場する主要な「大人」を演じているのが、ほとんど俳優ではないのも、いわゆる「リアル」から遠ざかる要因になっている。子供たちの噂を調査する“トレンド・シーカー”水田を演じるのは、谷山浩子や椎名林檎との共演でも知られるヴァイオリニスト/作曲・編曲家の斉藤ネコ、まことの母親役にはシネマのドラマーでもあった作曲家の鈴木さえ子、みな一様に俳優では出せない現実感のなさを帯びている。極め付けは、決してパソコン画面から目を離そうとしない塾講師役の佐藤雅彦(メディアクリエーター。「バザールでござーる」などのCM、「だんご3兄弟」、テレビゲーム『IQ』などの生みの親であり、『ピタゴラスイッチ』の監修も務める。1999年には映画『kino』を監督)だ。
市川準は、元々CMディレクターであり(「禁煙パイポ」や「タンスにゴン」で有名)、自身が異業種監督であることを意識しているせいもあるのか、異業種俳優の起用には、割と積極的な方に思える(2006年にはテリー伊藤を主演に『あおげば尊し』を撮っている)。しかし、それだけが理由ではないだろう。「死に満ちた街」ならぬ「リアルに満ちた街」のはずのシーンに、「がんばれまことくん」という落書きが映り、斉藤ネコらトレンド・シーカーが、この世の者ではない存在のような佇まいでまことを見つめている。そうした全てをまことは「リアルだ」と言う。現実だけがリアルなわけでもなければ、虚構こそがリアルなわけでもない。虚実入り混じった世界がリアルなのだと、まことは感じているように思える(ちなみに、いとうせいこうによると裏設定として、まことが死に満ちた街へ歩きだす時に繁華街に流れ始める曲はミュート・ビートの「echo's song」だったらしい。映画では、街を歩くまことの背後にミュート・ビートの看板がある)。
ところで、ひたすら楽しいという状態、あるいは何かに熱中している状態というのは、我を忘れている状態なのだと思う。遊びも仕事も勉強も、我を忘れるための手段だ。
ふと我に返り、生きていること(いずれ自分は死ぬということ)を実感し、言いようのない不安と虚無感に襲われることがある。笑って走って楽しむのも、仕事や勉強に打ち込むのも、ひょっとしたら、この不安と虚無感からの逃避なのかもしれない。「ゲンジツトウヒはバカのもとだぞ」(原作で、主人公たちと対立する少年が中年タレントの受け売りで言った言葉)。どちらが現実から逃げているのか。原作でも映画でも語られた「死にながら生きるライフスタイルの確立」。「リアル」を叫ぶ中年タレントの方こそ「リアル」を知らないという言葉。映画全体に溢れる虚無感は、我に返った時の、あの感じにそっくりだ(そして、テレビゲームという遊びは、どういうわけかプレイ中に時折、あの虚無感/不安感に襲われることがある。「現実」の側から、「虚構」の世界を覗き見つつ、半分だけ没入してプレイするという、ある意味特殊なプレイスタイルゆえなのだろうか?)。ならば、やはり映画版『ノーライフキング』は、原作と逆の方向なんて向いてないのだろう。
残念なことに、映画版『ノーライフキング』は、いまだにブルーレイはおろかDVDも発売されていないようだ。わたしはビデオを所有しているが、持っていない人は、中古ビデオを探すか、奇跡的にテレビ放映されるのを待つしかないのだろう。
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呟き散らかしたこと
リンプ・ビズキットと聞いて「鱗粉ビスケット?」と聞き返した奴がいたのを思い出して「鱗粉ビスケット」を検索してみたら、そういうタイトルの詩が出てきた。
鱗粉ビスケット……七尾旅人の曲にもありそうな感じ(というより、七尾旅人の曲の中では、鱗粉とビスケットが奇跡的な出会いをしていそうな感じ)。
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