生き延びるための脳の執念

 「肉体が食べろと命令してくるのだ」

 大西洋を救命いかだで76日間も漂流したスティーヴン・キャラハン氏(映画『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』では、救命いかだでの生活についての顧問を担当したらしい)のことを知ったのは、小学五年の国語の授業でのことだった。キャラハン氏についての文章(新山賢治『七十六日間の漂流』)が国語の教科書に教材として載っていたのだ。私と同世代で、真面目に授業を受けていた人なら、記憶に残っているかもしれない。

 この雑記を書いている現在もなお、私はキャラハン氏の漂流記をしっかり読んだことがなく、教科書に載っていた分しか知らないが、氏の話で最も印象に残ったのは、次に引用する点だ。

「きがなどの極限の状態におかれると、肉体が思考の大部分を支配してしまうことがあるということを、初めて知りました。わたしの肉体が、パイナップルジュースを飲めとか、ココナッツやパンを食べろといってくるのです。(中略)肉体も、せいぞんするために精神にはたらきかけるのです」(『七十六日間の漂流』新山賢治 教育出版五年上より)

 授業では、どういうわけか、キャラハン氏の話に出てくる「パイナップルジュースやココナッツやパン」が実際に存在したのか、という点について議論になっていた。キャラハン氏は、サバイバル生活中、魚や鳥を獲って食料にしていたようだが、教科書に載っている文章の中には、元々所持していた食料についての記述はなかったはずで、ゆえに(実際はどうだったのか分からないが)、この教材だけを頼りに「パイナップルジュースやパンは実際にあったのか」という疑問への答えを出すことはできないと思うのだが、当時の担任教師は「脳が命令してくるというだけで、実際にそういった食べ物があったわけではないだろう」と言っていた。ちなみに、当時の進研ゼミには、この教材に関するページに、パンらしきものに手を伸ばそうとするキャラハン氏のイラストが描かれている。気になるので、いずれ実際の漂流記を読んでみようと思うのだが、しかし、そもそも、この疑問は教材の本筋ではないとも思う。

 さて、肉体からの命令なのかは分からないが、最近の私は、やけに甘党になっている。ブドウ糖は脳の栄養素らしいので、脳が「バカになりたくない!」と叫んでいるのだろうか。手遅れの感も否めないが、これ以上バカになりたくはないので、肉体の命令に背くことなく、甘いものを貪ったりしている。(そういえば、明石家さんまさんが、いつだったか「その瞬間に思いついたものが、体が欲しているものだ。“きなこ”と思ったら、きなこを食え」と言っていた)。

 しかし、同時に私の肉体は「醜い身体になりたくない!」とも叫ぶ。これもまた、いささか手遅れの感があるが、私はこの命令にも背くことなく、長年続けている微細なる運動をほんの少し多めにしたりもしている。元々、私の理想の肉体は、『ザ・フライ』の時のジェフ・ゴールドブラム(外見がハエ化する前の、自らに備わった身体能力に浮かれて逆立ちしたり、頭の悪そうな筋肉ダルマの腕をへし折ったりしていた時の状態)なので、やたらと甘物を貪りつつ、異様に身体をぐにゃぐにゃと伸縮させられるようになるのは、大歓迎といってもいい。現代社会では絶賛漂流中の私だが、大西洋を漂流しているわけではないので、しばらく肉体の命令に忠実に生きてみようかと思っている。

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