「じゃあアユムは、どうして今さらかたつむりが本当に飛ぶかどうかなんて気にしだしたの?」
「冷静になると自分でも分からなくなって、正直、今かなり悩んでるんだけどね」
「でも、続けてるんでしょ? だったら、引っ込みがつかなくなった以上の理由があるんでしょ?」
「自分の気持ちをぼやーっとした、曖昧な言葉で語るのは嫌いなんだけどね……」
でも、ぼやーっとした、曖昧な状態でしかないのだからしょうがない。
「なんか、もし本当にかたつむり飛ぶってことが確認できれば、この先、生きていくのがラクになりそうな気がする」
「学会とかに発表して有名になるとか?」
マリサが、少し怪訝な感じで訊いてくる。
「いや、発表はしない。もし撮影できても、閉校式の映像にはもちろん使わない」
「じゃあ、なんでラクになると思うの?」
「なんでだろうなあ……」
なにか、すごく単純な理由のような気もするのだが、どうしてそれがはっきりとした形にならないのだろう。
「まあ、あたしも、もし本当にUFOなんて見ちゃったら、ラクっていうか、もう全部やーめたって気持ちにはなるかも」
「その気持ちも、なんとなく分かりそうな気がする」
何か「大きな存在」というものに直面したという人が、「正しく生きよう」とか「生きる希望を持てた」と言っている理由がいまひとつ理解できない。マリサの言うように「やーめた」という気分になりそうなものだと思うのだが。あるいは気が狂ってしまうか。宇宙の法則に挑むホーキング博士みたいな人たちの精神力は、いったいどれほど強靭なものなのだろう。ひょっとして強靭であることと狂人であることなんて、変わらないものなのだろうか。
僕が余計な思索にふけり、固まっていると、マリサはファイルを眺めながら話題を変えた。
「ところでさ、バンクシーの作品って、本当に全部バンクシーのものなのかな?」
「どういうこと?」
思索のせいでぼんやりしていたこともあり、すぐにはマリサの言うことの意味が理解できなかった。
「いや、バンクシーって顔を晒してないわけじゃない? それで、基本的に謎だらけなわけでしょ?」
「そうだね」
「だからさ、もしバンクシーの作風をしっかり真似ることのできる人が、バンクシーと同じようにこっそり町のどこかに作品を残して、それを見た人が本物のバンクシーの作品だと勘違いしたら?」
「ああ……」
なるほど、そういう話か。たしかに、そうなるとおそらくバンクシー本人が否定しない限り、それはバンクシーの作品として扱われるだろう。それに……。
「それに、そんな展開は、偽物はもちろん、きっとバンクシー自身も面白がりそう……」
僕がそう言うと、マリサは「そういうこと」と頷いた。
「な・り・す・ま・しってこと」
「なんで、『お・も・て・な・し』みたいに言ったの?」
「自分から言っといてなんだけど、なんかやっぱり気持ちよくないね、この言い方」
マリサは東京五輪反対派のひとりである。マリサだけではなく、僕もダイチもだ。もっとも、処世術を身につけた中学二年生は、めったなことでその思いを学校などで公にしたりはしない。興味を持って当然だと考えている連中は、人間の数の少ないこんな田舎でも、そこらじゅうに存在している。たとえば堀田氏とか……。いや、あの人のことを考えるのはよそう。
「メ―ヘレンの話を思い出すね」
「メ―ヘレン?」
掘田氏のことを頭から追い出すために僕が記憶の倉庫から引っ張り出した名前を、マリサは知らないようだった。
「フェルメールの贋作で有名な人だよ。ナチスの高官たちにフェルメールの絵を売った罪で逮捕されたんだけど、裁判中に贋作だって言いだして、最初は誰も信じなかったんだけど、実際に法廷で描いてみせたら信じるしかなくなったていう……」
「すごいね、それ」
「しかも、文化財の略奪者、売国奴から一転してナチスを欺いた英雄になって、結局、軽い詐欺罪にしか問われなかった」
そういえば、バンクシーは当初『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のタイトルを『クソのような作品をバカに売りつける方法』にしようとしていたらしい。メ―ヘレンによるフェルメールの贋作は「クソのような作品」とは言えないと思うけれど、「バカに売りつける」の部分は合っているかもしれない。
「タモリさんが、赤塚不二夫の葬式で、私もあなたの数多くの作品の一つですって言ってたでしょ?」
マリサの言葉に、いまや「伝説」と呼ばれたあの弔辞のことを思い出す。
「『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』のミスター・ブレインウォッシュもそうだけどさ、もし今、あたしたちが考えたように、バンクシーの偽物が、誰も気づかないうちにバンクシー本人として作品を残し続けているんだとしたら、そういう現象もすべてひっくるめて、バンクシーの数多くの作品の一つって言えるんだろうね」
「だとしたら、バンクシーって愉快でしょうがないんだろうね」
僕は、あの芸術テロリストが抱き得るであろう世界に対する優越感を想像し、「空飛ぶかたつむりの謎」を調べようと思いたった時と同じように胸が躍っているのを感じた。