努力の必要性を説くための努力が不充分であるらしい人たち

 努力できるのは幸福である。

 努力が必要なのは不幸である。

 努力を強要されるのは被害である。

 

 充分な努力というものは、基本的に健康体でなければ難しいし、身体だけが健康であっても、その恵まれた身体を活かすことができないほど悪い環境に置かれていては意味がない。そのような状況を「充分な努力が可能な環境」へと変えることは、個人の努力でそうそうどうにかできるものではないはずだ。

 「逆境が人を成長させる」だの「結果が出ていないのは努力が不十分な証拠」だのといった言葉は、どうにも環境を整えるために知恵を絞るのが面倒な人間の言い逃れにしか思えず、特に逆境云々に関しては、逆境がなかった場合に本当に成長できなかったのか証明してからにしてほしい。まあ、ドラえもんの道具でも存在しない限り、不可能な証明であるけれど。

 健康で文化的な最低限度の生活が成立して、はじめて「充分な努力」も可能になる。それを整備するのが、政治家をはじめとする社会の仕組みを整える役割を担った者たちなのだろうが、これがまた「充分な努力」が難しそうな環境で蠢いているように見える(そもそも、そんなことを考える気がはなからなさそうな方々もいるが)。逆境によって真価が発揮されるのであれば、とっくに世界は桃源郷になっていても良いと思うのだが、そうはなっていない。空気の悪いところだらけである。

 “努力厨”などと呼ばれるタイプの者が、他人に努力を強要するわりに、充分な努力を可能にする環境を整えるための努力をしようとしないのは不可解だが、こういった方々は努力家ではなく、単に悪質な個人主義者なのかもしれない。