主題はおそらく「彼らが愚かであることを勤勉な私は理解している」

 地元新聞の編集余録に「読書のすすめ」と題された文章が掲載され、その中に以下のような記述があった。

 

「濁流の恐怖からようやく逃げた若者がインタビューに答えていた。「ザーッときて水がガーッときたから、バーッと逃げた」「川がバーッとあふれ、グワーッと木も流されて」。彼はオノマトペでしか状況を説明しなかった。(中略)でも、インタビューに答える若者の言葉を聴いていると、さぞ大変だったろうというより、もっと別の言葉は知らなかったのかと思ってしまった」(十勝毎日新聞 2023.7.28 吉田真弓

 

 国語力の低下を感じてしまうような場面に出くわすことは確かに多々あるし、どんな理由であれ読書人口が増えれば、あらゆる書物も流通し易くなるはずで、それは私としても大歓迎である。しかし、濁流から逃げ延びた上記の若者が、その例として挙げられるべきとは思えない。気持ちの整理もつかぬうちに口頭で状況を説明しようとした者の言葉が多少幼稚な印象を受けるものであっても、さほど不思議ではない。これまで実際に目にしてきたインタビュー動画においても、感情に任せただけの答え方しか出来ずにいるのは、若者に限ったことではなかった。

 件の若者は普段からオノマトペばかりに頼った伝え方しかできないのかもしれないが、それにしたって見舞われた状況、そして報道陣からのインタビューと思われる慣れない環境下で発された上記の言葉を聞いて、「さぞ大変だったろうというより、もっと別の言葉は知らなかったのかと思ってしまった」と感じてしまうのは、さすがに穿ち過ぎではなかろうか。

 落ち着きを取り戻した後の手記においてすら同じような表現しかできないのであれば、それは私も知性の欠如を指摘したくもなるが、編集余録からは逃げ延びた直後のインタビューであるとしか読み取れなかった。これは伝える側の問題か、はたまた私の読解力不足か。新聞上に筆名入りで堂々と主張できるだけの自信があるのだから、私の側の問題なのかもしれないけれど。