善き人のみのゾナティーネ

 他人を幸せにすることはできても、他人の窮地を救うことはできない者もいる。逆に他人を幸せにすることはできないが、他人の窮地を救うことはできる者もいる。もちろん、両方できる者もいるだろうし、どちらもダメな者もいるだろう。そもそも、状況次第でどの立ち位置にも成り得るはずだ。

 大ヒットした映画『アルマゲドン』(1998年/監督:マイケル・ベイ)は、大味過ぎて好きな映画ではないが、目前の窮地を救える可能性が最も高い人物であれば、たとえ人間性に多少の問題があっても任務を与えるという合理的(と呼んで良いかは分からないが)な姿勢は、功罪あれどアメリカが大国であり続けられる理由の一端なのだろうと思わせられ、なんなら痛快ささえ感じる(スティーヴ・ブシェミ演じる地質学者は、結果的にとんでもないトラブルメーカーだったけれども)。

 善き者であろうとすることは大いに結構だが、己の考える善の範疇から少しでも逸脱した者をそれだけで否定するのは、そもそも「善き者」と呼べるのかどうか。もちろん、罪自体を不問にすることはできないし、不良の更生を美談にする風潮も賛同できない。犯罪とまではいかない「悪いこと」も憂慮すべき点であることは変わらない。だが、己の考える善を主義としてあまりに頑なになり過ぎるのも、それはそれで鈍感な人間を生むことになりそうだ。少なくとも、大きな決定権を持つ者には不向きな姿勢であると思う。