良いと思われたい奴ほど考えた振りだけはする

 「暴走族」という名称を格好悪いものにしようという、いわゆる「珍走団」関連の話題が上がりはじめたのは、いつ頃の事だったのだろう。

 福岡県が実際に採用したことでも知られる「珍走団」という呼び方に限って軽く調べてみると、2012年頃にネット上のスラングとして盛り上がったのが最初であると書かれていたが、どうやらその6~7年前あたりに、とあるラジオ番組の「暴走族の新しい呼び方を考える」という企画でリスナーから投稿されたものの方が先のようだ。もっとも、実際のラジオ番組を聴いたわけではないので、確かなことは言えない。

 暴走族に限らず、悪事に関わる呼び方を格好悪くするという発想で私が最初に目にしたのは、所ジョージの著作『日々、これ口実』(1993年)における、「犯罪歴は、前科13犯=リカチャンセットは13パイナップル」というものだった。

 

「怖そうなイメージの言葉であるから、かっこつけさせるのやめよう。「リカチャンセットは13パイナップル」…こんなのにしよう。刑務所も、リカチャンハウスって呼んだりして、出所なんて言葉も、ポンポコポンのバビ~ンというのがいい。「今日、うちの兄キが、リカチャンハウスからポンポコポンのバビ~ンだぜ!!」これでいい。」(所ジョージ『日々、これ口実』より)

 

 珍走団よりも恥ずかしく感じるセンスは、さすが所さんといったトコロだが、リカちゃん人形界隈とパイナップル生産者にまで被害が拡がってしまうため、実用は不可能だろう。「ポンポコポンのバビ~ン」は出所に限らず検討の余地があるかもしれないけれど。

 しかし、こういった名称変更にどれだけ効果があるのかは少々疑問である。「珍走団」に関しては、福岡において実際に検挙数が減少したというニュースを見た記憶もあるが、珍走団たち自身が箔がつくような隠語を考案し、それが広まってしまえば多分意味がない。ブラックエンペラーを例に挙げるまでもなく、珍走団それぞれの名称までは手の出しようがない。

 また、名称変更といえば、珍走団とは逆方向の意味合いで、「いじめ」という呼び方を変えようという提案もよく目にする。「いじめ」などという緩い呼び方ではなく、暴行・脅迫といった、れっきとした犯罪行為であると示すべきだというのが、提案する側の主な理由なのだが、しかし、「珍走団」が有効だったと仮定すれば逆効果ということになるだろう。もちろん、行為自体が異なるがゆえに同列に語れるものではないだろうが、単純に「暴走族」という名称の方が“ワルとしての箔がつく”と考えるメンタリティの持主であれば、「いじめ」よりも「暴行」「脅迫」を選んでしまう気がする。逆に言えば、そのような連中には「お前のやっていることは、結局小学生レベルの幼稚な“いじめ”なのだ」と言ってやった方が効果が高いとも考えられる。

 もっとも、私は「いじめ」という言葉が生ぬるいとも思えない。「いじめ」という言葉がぬるい・緩いと考える者は、暴行や脅迫といった明確な犯罪の名称にならない程度の「いじめ」ならば問題ないと考えているのではないかとさえ感じている。

 そもそも「いじめ」という言葉は、公的にはどのように定義されているのか。こういう場合、広辞苑における解説が最も「公的」という印象に沿うものになりそうだが、どうやら第3版(1983年)までは、「いじめる」という動詞としての項はあっても「いじめ」という単語としての項はなかったらしい。ちなみに、「いじめる」の意味は「弱い者を苦しめること」となっている。第4版(1991年)から「いじめ」が登場し、その意味は「いじめること。特に学校で、弱い立場の生徒を肉体的または精神的に痛みつけること」とされている。「特に学校で」という記述から、既に「ある限定的な環境での人間関係の中で発生する加虐行為の総称」といった意味合いが持たされているように思える。SMプレイのような双方同意の一時的な行為や被害側がそもそも被害だと考えていないようなケースとの区別化も意図されているのだろう。

 こうしてみると、それぞれのいじめ案件の詳細として「暴行」や「脅迫」といった犯罪行為が存在することはあっても、意味する対象自体が異なっているので、言葉として代替にはならないように思う。おそらく、学校や職場といった限定的な環境において発生し得る現象のようなものが「いじめ」とされていて、それを「いじめ」と呼ぶか呼ばないかに限らず、詳細としての暴行や脅迫といった犯罪行為は、今も昔もれっきとした犯罪である。それが甘く見られたり、有耶無耶にされたりしがちなのは、限定的環境ゆえに様々な理由で生じる同調圧力であったり、学校の場合では「子供のやったこと」という、いわば少年法的感覚によるものだと思われる(これは店舗等からの窃盗や公共物等における器物破損においても見られる事であり、いじめ特有のものではない)。やはり、私は珍走団以上に「いじめ」の名称変更には効果を期待できない。

 いずれにせよ、紛うことなき犯罪であってさえ企業や教育機関の面子、体裁といったものによって隠蔽されがちなのは多くの実例が示す通りであって、言葉を変えたところで被害者も加害者も存在し続けてしまうだろう。被害者だった記憶というのは加害の記憶よりも明確に刻まれ易いうえ、人間というものは基本的に自分に都合良く思い出を改竄しがちであり、ゆえに被害者代表として言葉を発する自信などないのだが、運と時間以外は根本的な救いになってくれたとは思えず、荒んだ心で意地悪く考えると、結局のところ「いじめ」という呼称に対する批判というのは、いじめを非とする正義側の人間だと思われたいながらも、さほど深い考察もできない者がどうにか捻り出した誠実で正しいように見えるだけの空虚な意見なのではないかと思ってしまう。

 

※余談になるが、渦中の兵庫県知事の「おねだりリスト」というのは、誰がどんな意図でそう呼び出したのだろう。みっともなさの演出としては、そこそこ優れているのかもしれないが、今のところの知事への印象から考えるに、リストの呼称がみっともなかろうが凶悪さに満ちていようが、本人には何も響きそうにない。