あの子の「聲」を知りませんか。行方不明になりました。

 「あまロス」「タモロス」ついでに『モヤモヤさまぁ〜ず2』における重度の「大江ロス」まで経験した美月雨竜さんは(だいぶ狩野アナに慣れました)、来週水曜以降から深刻な「聲ロス」に陥ることと思われますが、さて、どう解消したら良いものか……。というわけで、『聲の形』最新話を読んであれこれ考えたり感じたりしたことを書き散らかそうの回も、本日を加えて残り2回。第61話「卒業」編。

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

 植野からの「そんなにあの子のことが好きなら〜」という台詞には、あっさり「うん」なんて返事しているくせに、肝心の硝子に対しては「好き」どころか「俺のことどう思ってるか」さえ聞かずじまいって、やーしょー、それは植野・硝子両方にとって……。まったく、おめえさんって奴は本当に……。これでは、もし『聲の形』がれっきとしたラブコメだったのなら、植野が最終的に落ち着くポジションは、将也と硝子を応援する立場でも、もちろん攻撃する立場でもなく、硝子に対して「あの鈍感相手じゃ、あんた本当ずっと苦労するわ」と憐むポジションだろう(中期以降の『うる星やつら』での、ラムちゃんに対するしのぶみたいなものですね。あたるは鈍感なのではなく、無節操なわけだが。名作『ビューティフル・ドリーマー』では、「あれのどこがいいの? 他ならぬ私が言うのよ」とか言ってたな……)。

 ところで、「植野が知っていて(気づいていて)将也が知らない(気づいていない)こと」って、3つどころではない気がする(植野自身「少なくとも3つ」とは言っているが)。まあ、大半が植野にとっては知られたくないことだろうから、厳選していくと、あの場では「少なくとも3つ」になったのだろう。この辺り、植野という登場人物の(本人も言っている通り)「ダメさ」は徹底されていたように感じる。私としては最後の最後まで、はっきりと「嫌い」なキャラクターで終わったので、本人の「私…さあ/ダメな奴なんだァ…」という台詞に対しても、「そんな可愛いもんじゃないよね。はっきり言って犯罪者だよね」くらいのことは思ったわけですが、それにしても上記の将也のポンコツぶりを見せられると、さすがに「植野も哀れだなあ(笑)」とは思った。「(笑)」を付ける程度の感情ではありますが。



 さて、そんな物語の盛り上げ要員・植野の最後のひと暴れ(「暴れ」ってほどのもんじゃありませんが)が、第61話の見せ場の一つ(植野ファンにとっては「最大の見せ場」なのでしょう。植野ファンじゃないから、私にとっては「最大」ではありません)なわけだが、はたして植野は「結局は良い子」だったのだろうか? 私は、はっきり「NO」だと言いたい。

 いや、もちろん、別に同情の余地ゼロの悪魔のような女だと言いたいわけでもない。そもそも、これは植野に限った話ではなく、(硝子に対しては、いまだに「天使すぎる」という意見はあるものの)『聲の形』の登場人物は、基本的に誰もが「良いところもあれば、悪いところもある(どちらの面の方が“目立った”かは別として)」という、言ってしまえば「普通」のことがしっかり描かれていただけであり(誰が読んでも嫌な奴に映るのは、おそらく硝子の父一家くらいで、それにしたって以前指摘した通り、かなり俗っぽい悪である)、今回の植野にしても、反省や変化が強く感じられたことは確かだが、過去が清算されたわけでもないし、そもそもまだ反省しきれていない所業や打ち明けていない悪行だってある。「結局はいい子だった」とは、どうしても思えないのである。同時に、人間はなかなか純度100%の悪党になど、そうそうなれないということでもある。

 もっとも、『聲の形』の後釜を狙うかのように連載が開始された『煉獄のカルマ』におけるいじめ加害者たちの現在までの描かれ方も然りだが、現実のいじめ加害者というのは、かなりの割合で「同情の余地なし」と判断したくなるような、(あえて汚い言葉を使えば)クズやゲスが存在しているだろう。だが、そういったいじめ加害者が「純度100%の悪党」であるかどうかと言えば、そうとも言えない気がする。私は、上記のようないじめ加害者は、「死刑にしてしまっても良いだろう」くらいのことは考えるタイプではあるのだが、以前も何度か引き合いに出した『ダークナイト』のジョーカーや『ダーティハリー』のスコルピオのような、サタン的「純悪」と上記加害者たちを同列にはできないだろう。なにせ、サタン的「純悪」には保身行為すらないのだから(そういう意味では、『聲の形』の中で最も「純悪」に近かったのは、小学校時の転落前の将也かもしれないが、それにしたってやはり「人」ではあった)。

 では、『聲の形』で描かれた「悪」とは、どんなものだったのかと考えると、これは「差別主義的な考えというのは、 “あからさまな”ものと、“善良な市民”として普通に生活しているように見える、すぐそばに存在する人々のふとした会話の中に見え隠れするものがある」といった話の後者部分に当たるのではないかと思う。植野や川井の「悪い面」というのは、その典型例だろう。「硝子を引き立てるために植野が悪く描かれているだけ」といったタイプの植野に対する擁護(あるいは硝子に対する批判)というのは、キャラクター/物語の多面性を損なうものであるという批判に見えて、「いじめる側が自身の正当性を保ちたいとする願望」とも無縁ではなく思える。悪意たっぷりに言えば、「硝子(いじめられる側/あるいは障害者などの弱者)の駄目な部分がもっとしっかり描かれれば、自分たちだけが悪いとは思われずに済む」という、非常に勝手で見苦しい主張である。だが、そういったものこそ、世界に溢れる「悪の形」だと私は思う。「純悪」ならば、自身が「悪」であることなど百も承知のうえで、あるいは「善/悪」なんてことすら一切考えず、ひたすら世界が燃えるのを眺めて楽しむだけである(そんな「純悪」に対抗するには、「正義」の側も、ある種暴走した、自己目的化したものになっていかざるを得ず、そうなると、それは「正義」と呼べるのか、という問題に発展する。『ダークナイト』や『ダーティハリー』は、そういう映画でもあるし、西尾維新や『相棒』シリーズも、そういったテーマを繰り返し描いているように思う)。

 植野は、おそらくこの第61話において「改心」したわけではない。もちろん、これまでと同じレベルでの「クズ」にとどまったわけでもない(まあ、そもそも植野をクズと呼んでしまっていいのかというのは、植野が嫌いな私でさえ悩むところではある)。植野の成長/変化は、きっと「自分の中の悪い面」を、これまで以上にはっきりと自覚し、そんな「自分の中の悪い面」を可能な限りコントロールしながら今後の人生を生きていこうとする、そういったものなのではないかと私は考えている。他の読者の方の感想に「クズがようやくゼロ地点(普通の人の立場)に立っただけ」といったものがあったが、たしかに今回の植野が単純な「改心」なのだとしたら、その通りで、それを褒め讃えるのは、「ずっと真面目にやって来た人より、不良から更生した人間の方が賞賛される」という、どうにも納得のいかない社会の嫌な面と同じことである。だが、「改心」ではなく、上記のような意味での「成長/変化」なのだとしたら、立った地平は「改心」したものよりもずっと下だと言えるかもしれないが、物語における植野のようなキャラクターの落としどころとして、ある種の生々しさと真摯さを感じる。いずれにしても、植野が去ってからの台詞から思うに、将也にとっては、最終的には、植野がもっとも謎めいた存在となったのかもしれない。



 謎といえば、硝子が自殺に至った理由がわからないという人が結構多いようだが、私はそうは思わない。まあ、読解力の差というより、これは個人の価値観の差の方が大きい気もするが、それは置いておいて、私にとっての『聲の形』の大きな謎の一つは、植野が将也を好きになった理由の方である。再会後の将也を硝子が好きになった理由、そして植野が高校に至るまで将也を好きでいつづけた理由なら、まだわからなくもないのだが、大元のきっかけが(一応描かれてはいるが)まったく理解できんのである(仮に硝子も小学生時代から将也のことを恋愛的な意味で好いていたのなら、それも同じようにわからない)。これもまた、私という人間の色恋沙汰に関する価値観の問題なのかもしれないが、正直にいって、納得するには「植野は、あんな将也を好きになるようなバカだったから、後の行動も外れっぱなしなのだろう」と考えるくらいしかなく、だが、さすがにそれだといくら植野嫌いの私でも、何だか植野のことを悪く考えすぎじゃないかと、もやっとした気分になる。まあ、この辺は、割とふざけながら考えることのできる程度の話題ですがね(ついでに謎といえば、これはもう個人的に最大の謎といってもいいのだが、「なぜママ宮さんは、あんな男と結婚してしまったのか」という問題もある。容姿だけとっても、全然いい男に見えないんだよ、あいつ。よくあの遺伝子から硝子や結絃が生まれたものである。やはり遺伝よりも環境のほうが重要なのだろうか。だとすれば、将也も父親の抜け毛が悲惨なものだったからといって、必ずしもそうなるとは限らない。硝子との今後の暮らしは、頭皮の健康にも良さそうだし。これが植野が相手だと、ちょっとした喧嘩でも髪の毛をむしり取られる危険が……)。



 自然と将也と硝子の今後について妄想してしまったので、真の見所、将也と硝子の微笑ましいやりとりに関しての感想を……と思ったのだが、どうも硝子信者の私は、今回のような幸せそうなやりとりや、将也の阿呆で残念な対応とそれに対する硝子のリアクション等を眺めていると、真面目に何か考えようなんて気は起きず、ひたすら「硝子かわいい、硝子かわいい」とぶつぶつ呟いてしまう、かなり気持ちの悪い人になってしまうので、ただでさえ地面ギリギリの低空飛行状態な私の評判が、完全に地に落ちるどころか潜りこんで、「ブラジルの人聞こえますかー?」状態になりかねない。将也のいつものしどろもどろトークに対してちょっと赤くなりつつ「ん」とと頷く硝子がかわいいとか、その後の髪の毛をカシカシする硝子がもっとかわいいとか、「同じこと考えてた」「一緒に頑張ろう」って、それもう二度目の告白どころか硝子からの求婚みたいなものですよね?とか、東京へ向かう硝子の手話が「またね」で本当に良かったとか、もう全コマかわいいとか、そういうことはあまり詳しく書かないようにしようと思う(充分書いてしまった気もするが、たぶん気のせいだろう)。

 ただ、最終回での展開がどうなるかはわからない(描かれるかどうかもわからない)けれど、将也が家を継ぐことによって、硝子がヘアメイクイシダで働くフラグが折れたのでは? という指摘がいくつか見られた。だが、「将也が家を継ぐ」ということだけでは、フラグが折れたことにはならないと思う。というのも、異性に髪を触られることが苦手という人は結構多く(特に女性は男性に髪を触られることを嫌がることが多いと思う)、それはたとえ相手が理容師/美容師であっても同様である。ゆえに、ヘアメイクイシダを将也が継いだ場合でも、そこには硝子がいた方がより良いのである。もっとも、石田ママが現役でいられるのなら、当分はそれで済む話ではあるが、その先のこともあるし、前回での薬を飲む描写からも推察されるように、どうやら身体を悪くしていそうなので、近いうちに現役から退いて二人を見守ってもらうのも良いかもしれない(ただ、ママ宮さんと飲んでいるシーンから考えるに、肝臓は大丈夫らしい。あの薬も、さほど重いものではないのかも)。ちなみに、異性に髪を〜という話は、実際にそういう人が知り合いに結構いることもあるが、『主演さまぁ〜ず 〜設定 美容室〜』の最終回でも、同じ話が出ていた。このドラマ(なのかコントなのか判断しがたい不可思議な傑作)では、「耳の傷」だとか、なんのトラウマか分からないが会話をすることができない天才美容師・二階堂君など、こじつけではあるが妙に繋がりを感じさせる設定があり、ひょっとしてしずるのコントが好きだったりする大今先生は、この『主演さまぁ〜ず』も観ていたのではないかと勝手に想像している。

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 余談だが、島田はフランスへ音楽修行に行くそうだが、彼のやっている音楽ってポップやロックではなく、クラシックや現代音楽畑なのだろうか。まあ、ナオト・インティライミ的な「世界を知るために旅するぜー」というだけのことかもしれないけど。でも、そんな島田はあまり見たくない。



 さらに余談。Ghoulの話をすると、それほど熱心なファンというわけではないブルーハーツ(いや、好きではあるのだけれど、熱心なファンかと言われると否定しておく他ない。全作品を所有しているわけでもないし)の「僕の右手」が頭の中でかすかに鳴り響いて危うく柄にもなく涙をこらえなければいけなくなる。

1984-1989

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TRAIN-TRAIN

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聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709