鑑賞も収集も修行の一環である

 原作ファンも原作を知らない者も両者共につまらないと感じる映像化作品(映像→小説/漫画/舞台という場合もあるが、多く話題にのぼるのは映像化作品)の場合、原作ファンが嘆き悲しむのは理解できる。しかし、原作ファンはつまらなく感じるが、原作を知らない者は楽しめたという場合、原作ファンがことさら嘆いたり怒ったりする必要はないように思う。

 それによって原作を手にした者が「原作のほうがより面白い」と感じたのであれば、それは原作ファンにとっても喜ばしいことであるし、原作に触れてなお映像化作品のほうが面白いと感じたのであれば、それは単に感性の違いなわけで、どのみち原作の熱心なファンになる可能性は低い。そして、原作があると知ってなお原作を手にとらないタイプの者は、映像化作品を知ろうが知るまいが、おそらく原作に触れることはないだろう(原作があることを知らずに、原作の方を「パクリだ!」などと騒ぎ立てる者もいるが、それはまた別の話である)。

 原作ファンが手放しで喜べない気持ちになるのもわからないではないが、なかなか批評と呼べるほど読むに値する反論もなく、傍から見ていても鬱陶しく感じることも多い。実際、ブログにこんなことを書いていることからも察しがつくように、私はいわゆる「原作厨」的な声に辟易するようになって久しい。その指摘に一目置けるほど、あらゆるジャンルを網羅しているような人なんてそうそういないし。いや、視野が狭いからこその「原作厨」だろうか。

 さらに言えば、原作ファンが褒めている映像化作品が、原作に忠実というよりは「原作をくどくしているだけ」に感じる例がいくつかあって、根本的な鑑賞能力に疑問を持ちたくなることも多い。もっとも、審美眼がどうのという話を好き勝手にはじめてしまうと、原作厨以上の厭らしいスノビズムに発展しやすいので、なるべく気持ちを抑え込む努力だけはしている。

 結局、辟易してしまうのは、自分自身の言動にも思い当たるふしがあって、それによる自己嫌悪も誘発されるからというのもあるだろう。みうらじゅん先生は「映画は修行」と語り、まったく興味のないような作品をわざわざ初日に観に行くという熱心なシネフィルですらやらない(いや、シネフィルだからこそやらないと言うべきか。なにしろ『ハダカの美奈子』を公開初日に観に行くような偉大な御方である)過酷な映画鑑賞をおこなっているらしいが、この「修行」は、ひょっとしたら原作厨的偏狭さを矯正するのに役立つかもしれない。自己嫌悪の無限ループに陥って身も心もズタボロになってしまう前に、ゆっくりではあっても修行をはじめるべきだろう。

 というわけで、修行の第一歩として、レンタル落ちの格安DVD等から、自分からなるべく遠い位置にありそうな作品を片っ端から収集し始めている。ピラティスの教則DVDなんかも混じっているが、いずれ何かの役に立つかもしれないし、雑多なタイトルが棚に並んでゆくこと自体が面白く感じてきてもいる。結局、鑑賞はせずに集めるだけになる可能性もあるが、「持っている」というだけでも多少の修行効果があるかもしれないので、このまま進み続けてみることとする。

ハダカの美奈子(PG-12)

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  • 発売日: 2014/03/28
  • メディア: Prime Video
 

 

サンジェルマン伯爵のはじめての長すぎる生涯

 「輪廻転生を繰り返すのと不老不死の力を得るのとでは、どちらがより人間として成長できるのだろう」などと確かめようもないことをだらだらと考えたりしていたのだが、考え事ができるくらいには落ち着いてきたと捉えるべきか、またわけのわからんことを考えて相変わらず病んでいると捉えるべきか。後者の可能性が高いように思えるが、精神の安定のためには、何事もなるべく前向きに捉える必要性があるので、無理矢理にでも前者であると言い張ることにする。

 さて、生まれ変わり云々を主張する人たちについては、なんだか信じてしまいそうになる者もいれば、鼻で笑って済ませておけば良い類の輩もいるけれど、概ねどちらも「前世の記憶は断片的にしか残っていない」という点では共通している。少なくとも、「強くてニューゲーム」というわけにはいかないようだ(これが可能であれば、生まれた途端に3ヶ国語くらいを流暢に喋りだす赤ん坊や、微分積分を理解している赤ん坊が続出するはずである)。

 もっとも、認知症というわけでもないのに、前世どころか数時間前の記憶すらあやふやな人も少なくないので、輪廻転生の仕組みとして記憶がほぼリセットされるのではなく、単純に人間というものは、それほど記憶を維持できないだけなのかもしれない。だとすれば、微分積分のできる赤ん坊もいずれ誕生する可能性も低くはあれどゼロではないのだろう。しかし、いずれにせよ、輪廻転生による人間的成長というのは、非常にゆっくりとしたものになりそうだ(以前、『グータンヌーボ2』で玉城ティナさんが「自分は人間3回目か4回目」という話をしていたけれど、自己申告する回数としては多過ぎず少な過ぎず良い具合の予想だと思う)。

 では、不老不死が可能だったとして、それが輪廻転生の繰り返し以上の早さでの成長をもたらすかと言えば、どうもそういう気がしない。不老不死(だと噂される)サンジェルマン伯爵は、確かに博学ではあったようだが、その後の目撃情報を眺めてみても、長く生きているわりには、良くも悪くも存在が確実視されていた時期と大して変化はないように思える。少なくとも、今も伯爵が生きているのだとしても、世界から戦争や差別をなくせるほどの人物にはなっていないのは確かだ。

「馬鹿は死ななきゃ治らない」とも言われるわけであるし、同じ人間として長く生きても、あまり意味はないのだろうか。西尾維新の『物語シリーズ』に登場する、約600歳の吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード(この長いフルネーム大好き)なんて、生きれば生きるほどアホになっているフシがあるけれど、案外そんなものなのかもしれない。まあ、苦悩だけが長引いている『グリーン・マイル』の主人公よりは楽しそうではある。

業物語 (講談社BOX)

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グリーン・マイル (上) (小学館文庫)

グリーン・マイル (上) (小学館文庫)

 
グリーン・マイル (下) (小学館文庫)

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『男はつらいよ』を知り尽くすのはつらいよ

 寅さんのアップだけを一場面だけ切り取って、それが第何作目の『男はつらいよ』なのか当てられる人というのは存在するのだろうか。おそらく、『釣りバカ日誌』で釣れた魚だけを見て第何作目か当てられる人よりは希少な存在だと思う。

 しかし、世の中にはどんなジャンルにもマニアが存在するので、想像以上の人数が名乗り出てくるのかもしれない。とは言っても、わざわざ「寅さんアップクイズ」なんてものを主催する気は毛頭ない。そのために、『男はつらいよ』全作を観直すのは酷である。正直、それほど思い入れもなければ好きでもないので、日本映画学校に入学するほど映画自体に興味を持ったりしなければ「勉強のために一応全作観ておくか」とも思わなかっただろう(日本映画学校も卒業して久しいので、昨年末に公開された『男はつらいよ お帰り 寅さん』は未見である。ゆえに「ジェイソンは生きていた!」的な内容だと言われても、否定できる材料はない)。

 余談だが、高校時代によく通っていたCDショップに『男はつらいよ』全49作をまとめたDVD-BOXが置かれていた。当時の店長によると、前任の店長が仕入れたものらしいのだが、当然相応の金額であり、たまたま店に入った客が衝動買いするとは考えにくく、扱いに困っている様子だった。映画学校への進学によってしばらく地元を離れているうちに、顔見知りの店員もすっかりいなくなってしまい、足を運ぶこともなくなってしまったが、あの『男はつらいよ』DVD-BOXがどうなったのかは今でも気になっている(更に余談だが、同じ系列の別の店舗には、北海道の田舎町には似つかわしくない裸のラリーズのコレクターズBOXが置かれていて、ひょっとしたら売れそうにない高値の商品を仕入れる癖のある店員が存在しているのかもしれない)。

男はつらいよ お帰り 寅さん [DVD]

男はつらいよ お帰り 寅さん [DVD]

  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: DVD
 
COLLECTORS BOX

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「危険ごみ」の出し方と心の平穏について

 私の出した危険ごみが回収されていなかったので、なにか出し方に間違いがあったのだと思い、いったん持ち帰って調べてみたのだけれど何が間違っていたのかわからず、悩んだ末にとりあえず新しいごみ袋に入れ替えただけでもう一度持っていったら、今度は何の問題もなく回収されていった。結局、どんな問題があって回収されなかったのかわからずじまいで、今後はなんとなくびくびくしながらごみを出さなければならない。

 ゆえに、無用のストレスを避けるためには、なるべく危険ごみを出す機会を減らすようにしなくてはならず、当然、家で使えなくなった刃物や割れ物なんかを保管しておく期間が長くなってしまうし、量も増える。それはそれでストレスである。

 今はまだ大丈夫そうだが、そのうちストレスに押しつぶされて、衝動的に回収されなかった刃物で収集車を襲撃なんてことになれば人生終了であるし、作業員も同じ悲劇を恐れて過度のストレスにさらされながらの仕事となり、結果としてミスが増え、また同じ惨劇が……ということも考えられる。じわじわと日本を破滅させようとする謎の勢力による陰謀なのかもしれない。

 破滅を防ぐのに大事なのは余裕のある心であり、それは平和な暮らしによってもたらされるはずである。景気などの大きな問題に関しては与野党問わず政治家の皆さんに頑張ってもらうとして、私個人が穏やかな心を持つために今できることといえば、とりあえずここまでだらだらと書き散らかしてきたような無駄な妄想を控えることかもしれない。

 

アナベルリイはキャロライン・ノバクの予知夢を見たか

 「アナベルリイ」という音楽グループを知ったのは、『1971~1976年の日本のロック、フォークなどのバンドグループ』という名前通りの内容のサイトだった。音楽雑誌に一度紹介されただけのようなグループも掲載されているのだが、さすがに詳細な情報が不明だったらしいものも多く、画像がないものや、グループ名くらいしか表記されていないものもある。アナベルリイも2名のメンバーの名前以外の情報はない。デュオなのか、2名しか名前がわからなかったのかさえ定かではない。しかも、そのうちの一人の名前は「謎の女の子」である。

 名前のわからないメンバーがいた場合は「他」とだけ表記されるか、何も書かれていないかなので、おそらく「謎の女の子」という名前で活動していたのだろう。我が愛しのキャロライン・ノバク的な架空の少女なのか、あるいは少女M的な匿名性の強い芸名なのか。

 まあ、時代から考えて後者である可能性が高いだろう。なにしろ、1971~1976年となれば、キャロライン・ノバクどころか、その雛形とされるアンドロイド・シスターズさえ誕生していない。それに、もう一人のメンバーは「山口容稀子」となっており、画像がないのではっきりしたことは言えないが、おそらく実体のある女性であろう。70年代の日本に実在の女性と架空の女性によるデュオが存在したのであれば、多少の情報が残っていそうなものだが、とにかくこのアナベルリイ、上記のサイト以外に情報が見当たらない。「山口容稀子」という名前を単体で検索してみたりもしたが、アナベルリイと繋がりそうなものは見つけられなかった。

 おそらく、レコードも発売されていないのではないかと思う。もしも、さよならポニーテールのように、メンバーのイメージイラストだけが描かれたジャケットだったりすれば、それはそれでカルトなマニアがコレクションしていそうな気がするが、これだけ情報がないということから考えれば、そういったマニアの琴線に触れるような作品が残っていないということなのだろう。

 しかし、情報がないがゆえに探究心をくすぐられるというのもマニアの性である。こっそりとアナベルリイの謎を探り続けている者はどこかに存在しているかもしれない。というより、わざわざブログにこうして書き散らかしている私がそのうちの一人であるし、「アナベルリイが気になる」というだけの内容であれば、数年前に更新されたとあるブログでも確認できる。その数年の間に進展が見られないあたり、相当につかみどころのない謎なのだろうけれど。

DOOITS!

DOOITS!

  • アーティスト:DOOPEES
  • 発売日: 1996/05/17
  • メディア: CD
 
ROM

ROM

 

公開した後悔

 未来の見えない、というよりは未来を見たくない身分であるため、どうしても過去へ過去へと思いを馳せがちなのであるが、残念ながら過去にも特に晴れやかな気分になる記憶など見当たらず、ただでさえ不健康がちな精神状態を余計に悪化させたりもする。

 しかし、無理矢理前向きに考えれば、未来に苛まれるであろう後悔は、未来であるがゆえに無限の後悔の可能性をあれこれ想像してしまうだけだが、過去の後悔であれば、やっちまったことへの反省だけで済む。どちらかといえば、過去の後悔に悩むほうが、まだ精神を痛めつける度合いは低いのではないかと考えられるのである。

 よって、前向きに生きるために、未来に後悔してしまいそうなあれこれを想像して陰鬱とした気分になるのをやめ、せめて過去の後悔を思い返して陰鬱な気分になろうとしたのだが、あれこれ反省しているうちに、ではこうしたら良かったのではないかと思い立ったパターンの先に別の後悔のパターンを見つけてしまったりして、「いや、私は反省しようとしているのだ、絶望しようとしているわけではない!」と叫びたくなる気持ちにもなったが、それもまた実際に叫んだりした場合に考えうる後悔のパターンが無限に溢れ出てきて、危うく舌を噛み切りそうな衝動に駆られたりもしたが、舌を噛み切ってしまった場合のあらゆる後悔のパターンが怒濤のようの押し寄せてきたために、なんとか思いとどまることができた。

 前向きに考えれば、まだ自分は舌を噛み切る時ではない、生きていくべき存在なのだと捉えることもできるが、いささか窮屈である。目の醒めるようなアドバイスを求めたいところではるが、求められる相手も見当たらないので、こっそりここに書き散らかしておく。

([し]4-1)カレンダーボーイ (ポプラ文庫)

([し]4-1)カレンダーボーイ (ポプラ文庫)

  • 作者:小路 幸也
  • 発売日: 2010/12/07
  • メディア: 文庫
 

 

ピクニック・ノット・ハンティングウォーク

 「神隠し」と呼ばれる事例の大半は子供か女性である。成人男性が突然いなくなっても原因が何であれ「失踪」としか捉えられない気がする。どうも「神隠し」という言葉の持つ神秘性というかオカルト的ロマンとは結びつけられにくい印象がある。オカルト的想像力に接近しても、せいぜいUFOによるアブダクトくらいだろう。

 このことから、日本における子供や女性の置かれていた境遇などをあれこれ考察することも可能だろうけれど、「神は成人男性には見向きもしない」と考えられていたのであれば、それはそれで男というものに対するぞんざいな視線というのも感じられて、なんだか侘しくもなってくる。「男なんてどいつもケダモノ以下」的な価値観の持主にとってみれば、UFOによる誘拐さえ、アブダクトではなくキャトルミューティレーションと呼ぶべき事象なのかもしれない。

 現代においては、よほど不可解な点が目立たなければ、失踪者がどんな人物であれ、基本的には事件か事故として捉えられ、「神隠し」とはなかなか呼ばれない。オカルト的想像力に頼らずとも、この世界は恐怖だらけである。

 さて、もし私が突然姿を消したとなると、おそらく知人のうちの少なくない者たちが、犯罪に巻き込まれたわけでも事故に遭ったわけでもなく、つげ義春の漫画のような蒸発譚を思い浮かべてしまう気がする。もっとも、現代は天狗や狐にさらわれるのと同じくらい、こういった蒸発も成し遂げることが困難になっているとは思うが、正しいサバイバルの知識を得るのは比較的容易になっているはずだ。たくましい人ならば、その知識を駆使して山や森に籠って生きることも不可能ではないだろう。

 しかし、たくましさの欠片もない私の貧弱さを知る知人たちが、山や森で狩猟生活を送る私の姿を想像できるとは思えないし、なにより私自身が想像できない。おそらく、住居からそう遠くない場所で早々に力尽きているだろうから、せめて埋葬していただければ幸いである。