そのままでいいよ

 チーズとマヨネーズは調子に乗り過ぎだという話は前にもした。別に好きな人がいるのは構わないし、ブームになるのも構わない。しかし、「俺たちのこと嫌いな人なんているわけないじゃん」とばかりに、断りもせずあちこちに割り込んで来るのは不愉快である。抹殺してやろうかとさえ思う。権限があるのなら抹殺している。

 この2つのいけすかない奴らは少々極端な例だとしても、考えてみれば私は基本的に食品における「ちょい足し」と呼ばれる文化が苦手で、もちろんそれが好きなら好きで構わないのだが、もし勝手に「ちょい足し」などされれば、感情に任せて法を破りかねない。今まで法を破っていないのは、単に私が他人と食事を共にすること自体が苦手なうえに、頻繁に食事に誘われるほどの人望がないからである。

 人望のなさゆえに食事の席で揉め事を起こす心配は低そうだが、食品に限らず様々な場で見受けられる「コラボ」というものも苦手な場合が多く、こちらの精神状態が切羽詰まっていた際、楽しみにしていたものが余計な「コラボ」で台無しになりでもすれば、ヤケになって何かとんでもないことをしでかすのではないかと若干の不安を持っている。

 不思議なもので、「ハイブリッド」や「ミックス」、あるいは「融合」などと評されるものには感心することも多い気がするのだが、どうも「コラボ」と称されるものとは相性が悪い。別のもの同士の掛け合わせという意味では同じことのはずなのだが、「夢のコラボ」が夢だった試しがない。悪夢だったことはあるが。

 今後も「コラボ」という単語には、なるべく近づかないよう心掛けたいのだが、同じ「かけあわせ」的な意味の言葉でも、「コラボ」の奴は特に巷に溢れているような気がして、油断するとチーズやマヨネーズと共に私に喧嘩を売ってくるのである。しびれを切らして買ってしまないよう注意したい。

成り立つかな?

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荒野と化したザナドゥにて父はジャガーと遭遇した。

 デイヴ・ディー・グループが1968年に発表した「キサナドゥーの伝説(The Legend of Xanadu)」。私が初めてタイトルを目にした時は原題が添えられていなかったうえに本格的な英語の学習も始まっていない小学生時代だったため、「キサナドゥー」という言葉が既に知っていたビデオゲームの『ザナドゥ』と同義であると気づいたのは随分後になってからのことだった。

 父はジャガーズによる日本語カバーを先に聴いてしまい、それがあまりにも肌に合わず、オリジナルを知ってから半世紀以上経った今なおこの曲が好きになれずにいるらしい。私が最初に聴いたのは幸いにもオリジナルの方だったので、大好きとまではいかないものの、それなりに心地良く聴くことのできる楽曲である(逆に「好きさ好きさ好きさ(I Love You)」は、カーナビーツの日本語カバーを先に聴いてしまったため、ゾンビーズのオリジナルを知った今なお苦手な曲である。そして、羨ましいことに父はオリジナルを先に聴けている)。

 「Xanaduザナドゥ/キサナドゥー)」は、おおむね幻想的な理想郷といった意味で用いられる語だが、「キサナドゥーの伝説」の歌詞からは幻想的ではあっても理想郷といった風情は感じられない。意味もわからず「Xanadu=理想郷」という知識のみで聴けばそれっぽく聞こえないこともないが、わかったうえで聴けばマカロニ・ウエスタン的とも言えるハイブリッドなメロディとアレンジは荒野を想起させる気もする。はたして、ジャガーズはどこまでオリジナルの世界観を理解していたのだろう。

 1960年代は、ロックやポップスの世界でアルバム文化が盛んになりはじめた頃だった。シングルでは表現し切れなかったものを追及するアーティストが増え、西洋的なものと東洋的なものの融合も多く試みられた。ロックが「芸術」になった時代と言えるのだろう。2005年にNHKで放送された『ロック誕生50年』において、司会を務めた萩原健太氏はこれを「ロックのアンパン化現象」と呼んでいた。ジャガーズはともかく、「キサナドゥーの伝説」もその一端なのだろうと思う。

キサナドゥの伝説

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秋茄子に嫁を食わすな

 「秋茄子は嫁に食わすな」を「秋茄子に嫁を食わすな」と言い間違えた小学校時代の同級生をたまたま薬局で見かけたのだが、そういえば茄子をモデルにした怪獣を見かけた記憶がない。RPGのモンスターにまで範囲を拡げれば『ドラゴンクエスト7』に初登場したナスビナーラがいるが、ドラクエのモンスターのほとんどがそうであるように、こいつは怪物というよりは「ゆるキャラ」に近い。嫁を食ってしまいそうな(卑猥な意味ではなく)ほど恐ろしい怪物のモデルとして茄子はふさわしくないのだろう(「茄子/妖怪」で検索してみると「茄子婆」という妖怪がヒットしたが、これは茄子のような顔色をした老婆の妖怪であって、妖怪化した茄子というわけではないらしい)。まあ、野菜をモデルにした怪獣自体が多くはないのだろうけれど、なんとなく茄子には、たとえ食品として苦手だったとしても悪者として描くのを躊躇ってしまうような愛嬌があるように思う。

 かつて『ポンキッキーズ』で「なぞのやさい星人あらわる」というミニコーナーがあった。動揺作家かねこひろゆき氏の歌をバックに、着ぐるみの「やさい星人」たちが特に意味もなく街中などに現れるだけのシュールなコーナーである。『ポンキッキーズ』で放送されていたことからも分かるとおり、「星人」と言いつつ彼らもまた「ゆるキャラ」的な存在であり、なかでもナス星人はひときわ間抜けな風貌に感じた(ニンジン星人の右腕だけは、なんだかウルトラマンあたりが戦った怪獣のパーツに見えないこともなかった)。

 スティーヴン・キングの短編『灰色のかたまり』には、腐ったビールを飲んでゼリー状の怪物となった男が登場するが、これに倣って姑に腐敗した茄子を食わされた嫁がルチオ・フルチ的な容貌の怪人となって家族を襲うような映画を制作すれば、さすがの茄子も恐怖度満天となるかもしれない。

 しかし、ナス農家の皆さんに迷惑をかけるわけにもいかないし、そもそも怖いのは茄子ではなく「ルチオ・フルチ的容貌」の方である気もするので、やはり茄子は怪物に向かないと結論づけておこう。

なぞのやさい星人あらわる

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野性の証明

 「同性愛に対する差別や偏見は繁殖という生物の根源的目的(と言い切ってしまえるのも充分に短絡的に思えるが)に反していると感じるがゆえに起こるのではないか」といった旨の意見を目にすることがあるが、同性愛であることと繁殖能力がないこととは無関係であるし、同性愛でも子供を持ちたいと願う人も当然存在し、実際に子供を持つ方法はいくらでもある。繁殖/繁栄に反するという理由から差別や偏見が生じるとするのならば、その対象は「同性愛」ではなく「子供を持つことを望まぬ者」になるはずで、事実そういった人たちに対する差別や偏見も根強く、これもまた考えていかなければならない問題なのだけれど、どうにも「同性愛というだけで繁殖/繁栄に反するとは言えない」とは微塵も考えないらしい人たちの思考回路の方が気になってしまう。

 生物の根源的目的(だと発言者が信じるもの)に反しているのが差別や偏見を生む理由だとしたがる者たちの「そう考える理由」とは何だろう。差別する側からの意見としては、根源的目的に反するとしてしまえば大議論的正当性が得られるからだと容易に推察することができるのだが、差別や偏見そのものには反対しつつも、差別者がそのような感情を抱く理由を同じような主旨の意見で説明しようとする者たちは、どのような思考のプロセスを経たのだろう。

 あくまでも推察だが、「根源的目的に反するという理由で差別や偏見を正当化している」と考えれば、すなわち差別する側は「原始的な思考に留まっている」とも言い換えられる。逆に言えば、差別する側を批判的に見ることのできる自分たちは「高度な文明を生きる者」と捉えることもできるだろう。「どっちもどっち」と問題を有耶無耶にするのもまた短絡的な振る舞いだが、少なくとも「根源的目的(とされるもの)に捕われている者たちを批判対象にする」といった思考を邪推されるようなやり口が問題解決の近道だとは思えない。

 人間が文明を発達させてきたのは、単純な弱肉強食の世界(人間以外の生物世界だってそれほど単純ではないはずだが)よりも、そうした方が繁殖/繁栄、そして生存に適していると判断したからだろう。とすれば、文明の発達自体も「根源的目的」とやらに則したものになる。ならば、差別や偏見が生じる理由は、差別する側が原始的であるからというよりは「文明を都合よく解釈した際に生じる副産物のようなもの」と捉えたほうが納得できる気がする(そもそも、単純な捉え方による単純な弱肉強食の世界においては、おそらく弱いものは自然に淘汰されてゆくだけであり、生き残った側が必要以上に弱者を相手にすることもないだろう)。もちろん、これは差別する側とそれを批判する側がそれほど遠い位置にいるわけではないということでもあり、だとすれば批判する側がそういった点から目を逸らしたくなるとしても気持ちはわからないでもない。なにしろ、自分の醜い面と向き合うというのは当然しんどい行為なわけで寿命をも縮めかねない。それは生物の根源的目的とされるものの代表例の一つである「生存」とやらに反する行為といえるだろう。


Every Sperm is Sacred - Monty Python's The Meaning of Life

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親愛なるフルバヤシスギノスケ氏(仮名)の近況について

 フルバヤシスギノスケ氏(仮名)は、御年七十四歳となる。コロナ禍に置かれてもいまだ身も心も健康で、しかし丈夫さを過信して不要不急の外出に明け暮れるなどということもしない。分別のある立派な人生の先輩である。

 そんなフルバヤシスギノスケ氏(仮名)から、私は少々変わった依頼を受けた。氏いわく「自分も今日までは運良く健康でいられたが、この先どうなるかわからない。首から下の病や老いであれば、自分の意志を伝えることもできるが、問題は首から上のことだ。たとえば認知症になってしまった時、自分に良くしてくれた知人たちに余計な気苦労をさせたくない。今のうちに、少しでも笑い飛ばせてしまえるような“その時のための挨拶文”を用意しておきたい」ということだった。

 モンティ・パイソンのファンであるフルバヤシスギノスケ氏(仮名)から「パイソンズが書きそうな文章で頼む」と依頼されてしまった私は、氏の監修のもと、“その時のための挨拶文”を書くこととなった。氏は「俺の知り合いは冗談が通じるから大丈夫だ」と言うが、“その時”が来て文章が公開され、あまりにも不謹慎だとの声が挙がった場合、非難されるのは私なのである。フルバヤシスギノスケ氏(仮名)の言葉を疑うのも気がひけるが、私としてもいくつかの予防策は立てておきたい。よって、氏の承諾を得たうえで、出来上がった“挨拶文”をここに公開する。実際の文章よりさらに毒気を盛ってあるので、これが炎上せずに済むのなら、然るべき時に実際の文章を公開しても大丈夫ということだろう。読者がいるのかどうかもわからないブログに事前公開したところで、どれだけの予防効果が得られるのかは甚だ疑わしいところだが、数ある予防策のうちの一つとして実施することとする。以下が、その“挨拶文”である。

 

 

親愛なるフルバヤシスギノスケ氏(仮名)の近況について

 

 我らが偉大なる老いぼれ、フルバヤシスギノスケ氏(仮名)はついに一人で靴下を履くこともままならない身となった。もはや彼が真面目なことを語ろうとふざけたことをぬかそうと、周りの者たちはただ暖かく見守るほかない。彼を愛する我々は食事の作法も忘れてしまった彼のため、一日三度彼の口に適当な食物を突っ込んで黙らせることに尽力している。しかし、やや時間はかかるものの苦手だったはずのチーズケーキを飲み込めるようになったのは吉報である。好物だったはずの白身魚も同じくらい時間がかかっているのが少々気になるが、これを成長と呼ばずしてなんと言おう。彼はもうじき言語すら放棄するだろうが、それは彼が高次元の存在になったことの証であり、諸君が悲しむ必要はない。残された我々も「明日は我が身」と心に刻み、より一層ケツの穴を固く引き締めることをここに誓おう。


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シンジ君も見ていない信じなくていい話

「なんか頭がブシャーッて爆発して、気持ち悪いって終わる」

 

 『スキャナーズ』の話ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の話である。「気持ち悪い」はともかく、ご覧になった方なら「頭がブシャーッて爆発」というのは間違いだと理解してくれるはずである。しかし、小学6年生の頃、レンタルビデオで鑑賞したばかりらしい『エヴァ』のことをクラスメイト達に話していたソガノスケウマタロウ君(仮名)の説明は上記の通りのものであった。解釈の違いなどではなく、描かれている事象を間違えている。

 小6時代のソガノスケウマタロウ君(仮名)に人類補完計画は少々難しかったのかもしれないが、このような「内容を間違えているネタバレ」は、その後も幾度となく目にすることになった。

 私は「ネタバレされて面白さが激減してしまうのなら、それは作品がその程度のものであるか、受け手の鑑賞能力が低いかのどちらか」と考えている節があるため、ネタバレされることに関しては基本的に抵抗がない(もちろん、わざわざ自分からネタバレを口にして無用の争いを誘い込むような真似もしない)。他人の感想どころか、詳細にも触れた本格的な批評を先に読むなんてこともあるため、必然的に「内容を間違えているネタバレ」を目にする機会も多くなるのだろう。

 しかし、一般の感想だけでなく、書籍化された批評家による文章にも解釈違いでは済まされないレベルの事実誤認が稀に見受けられる。まあ、このように「間違いが結構ある」という点も私がネタバレに触れることを恐れない理由かもしれない。

 ゆえに、現在公開中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』も未見であるが、感想や批評は何も恐れずに読みまくっている。そして、『バトル・ロワイアル』でも『アルマゲドン』でも事実誤認な感想を述べていたソガノスケウマタロウ君(仮名)は、きっと『シン・エヴァ』でも描かれてもいないことを友人に語っているのではないかと思う。

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に

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スキャナーズ DVD-BOX デジタルニューマスター版

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バトル・ロワイアル

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僕らが石を拾う理由

 『よつばと!』の最新巻(15巻)を読んでいたら、ふと映画学校卒業直後に結婚し、お子もできた同期生が「よつばみたいな娘ができたらいいなあ」と今や懐かしきmixiで綴っていたのを思い出した。しかし、その同期生はそれから2年ほど経った頃、風香の便り……ではなく風の便りによって「離婚したらしい」と聞かされた。お子さんがよつばのように育っているのかはわからない。

 さて、15巻に収録されている記念すべき第100話「よつばといし」(表紙に描かれているのも、この回の風景だろう)は、よつばたちが遠征までして石拾いに行く回だが、同じ「石を集める漫画の主人公」でも悲愴感溢れる『無能の人』の助川助三と違い、なんと幸せそうなことか。私も幼少期より石を集める癖があるが、どうしたわけか当時から既に『無能の人』的悲愴感が漂っていたという説がある。残念ながら、子供であれば無邪気に見えるというわけでもないようである。

 現在の私は、いよいよ掘立小屋に籠って「銘石フェア」などと謳い価値のなさそうな石を売るくらいしか道がないのではないかと指摘する声もあり、着々とつげ義春世界の住人になりつつある。今日も「赤色エレジー」など口ずさみながら、昔のガロの匂いを漂わせる。

よつばと!(15) (電撃コミックス)

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つげ義春: 「ガロ」時代

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  • 作者:勉, 正津
  • 発売日: 2020/11/25
  • メディア: 単行本