『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(31)

 騒がしいテーマパークの前日は沖縄に居て、私は食べ物がどうにも合わず、ドラゴンフルーツだけを食べて飢えと渇きを癒やしていた。ゆえにテーマパークでもひどい空腹状態のはずだったが、周囲に溢れるうるさいほどの明るさは私の食欲をすっかり失わせており、残りの数日はお茶だけで過ごすことになった。

 最終日も同じ部屋の者たちは別室へ遊びに行った為、一人でテレビを眺めていると、塩辛さで有名な国が反逆者の処刑法を猿で実践してみせる映像が流れていた。尻から口へ粗末な細い杭で串刺しにされた猿に電気が流されると、映像加工じみた嘘臭い火花が画面を覆い、猿は背中の肉がべろりと剥けて惨死した。テレビの裏の壁紙には僅かな隙間があり、そこには前年に泊まった生徒が書いたと思われる走り書きのメモ用紙が押し込まれていた。

「お前の眼球に画鋲をぶすり 破傷風 破傷風 錆錆錆錆」

 メモ用紙は財布にしまい、私はこれまでの憎い相手を猿と同じ目に遭わせるのを想像しながら誰かが戻るまで目を閉じた。眠れるほど無防備にはなれないが、目を閉じているだけでも多少の休息にはなる。しかし、外でなにやら騒ぎが起きているのがわかってしまうと、意識が釣り寄せられてしまうので休んでもいられない。窓から通りを見下ろすと、巨大なミミズが女性教師の足に噛みついて激しく振り回しているのが見えた。女性教師は幾度となく頭部を地面に擦り付けられ、徐々に身体が削り取られていく。脳も半分程に減ってしまっているが、苦しそうにしていておぞましい。テレビをつけると、ちょうど従兄弟がベースを担当するバンド「ケータローステップ」が新曲を演奏していたので、イヤホンを繋ぎ外の騒ぎを遮断した。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(30)

 すでに小学校は廃校になっていて、かつての青年団の連中は誰も綺麗な靴など履いていない。共闘隊たちもわざわざ狙い撃ちする必要を感じていないようで、呆けた顔が品揃えの悪い下磯瀬の小さなスーパーの前に棒立ちしているだけだった。数少ない子供たちは新商品のスナック菓子を手に笑っていた。笑顔の子供のうちの一人が「朝ドラのナレーション、つぶやきシローがやるんだって」と言っているのを聞き、ヤスヒロは大滝詠一の間違いだと笑ったが、後に子供たちの正しさが証明されることになった。罰としてヤスヒロはナゴヤ一家の芋を一箱買うはめになり、汚れた土壌の栄養に舌を痺れさせていた。

 その日の夜に部屋で投票結果と人々の反応を調べていると、なにやら外が騒がしく、姿を見られぬよう腰をかがめながら窓に近づくと、聞き覚えのない声が「あんたのカミサマが撃たれる姿はジョージ・ウォーレスそっくりだった!」と叫んでいた。共闘隊が撃ち損ねたうちの誰かなのだろうが迷惑極まりない。イヤホンから最大近い音量でボブ・ディランを流し、外の騒がしさから逃れていたが、この行為もまた覗き見されでもしたら誤解を招くはずで、実家の壁の厚さだけには感謝しておこうと思った。不安を和らげる頓服薬を飲み、枕元にはレモンを置いて眠ろうとしたものの、右顎がきしんで寝付けなくなった。

 顎のきしみが始まったのは高校の修学旅行からで、騒がしいテーマパークに5分と居れず、すぐに一人バスへ戻って時間を潰していたのだが、さすがに睡魔と闘い続けるはめになってしまい、堪えつつも耐え切れず不完全な準備のままに生じたあくびによって、しばらく耳の付け根を外したままの暮らしになった。前年はマンモスのぬいぐるみを万引きして強制退去となった男子がいたらしいが、どんな形であれ旅行から抜け出すことができた名も顔も知らぬ上級生を羨ましくさえ思った。地元の空港で悪名高い教頭が慌てて止めに入るほど激しく父親から殴られていたと聞くが、彼も私と同じ理由だったなら涙を流せる。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(29)

 公民館の裏には川が流れていて、それは小学校にも続いていた。流れ出た黄色い液体が土地に染み込み、グラウンドも腐らせてくれれば、青年団をはじめとするスポーツファシストたちの身体も期限切れのまま長いこと放置されたチョコレートのようにぼろぼろと崩れていくのではないかと期待していた。しかし、残念ながら思うようにはいかず、まったく無関係のヨソイリさん家の爺さんの頬にあった石鹸の泡らしきものが、悪い腐敗に冒された頬肉の末期症状であることが発覚しただけだった。爺さんは身体のあちこちに石鹸泡のような腐敗の証を患いながらも98歳まで意識を保って生活しつづけた。

 ヨソイリの爺さんが生活を終えた頃には、私も選挙権を得る年齢になっていて、枯れた血管が古い蔦に覆われたようになった公民館で投票が行われた。2度目の投票ではリトマス試験紙共闘隊を名乗る後輩たちが拳銃を乱射しはじめたが、どうやら新品の靴でない者を狙って撃っているように思えた。撃たれて困るような者が巻き添えになる心配はなさそうだったが、RMGのような対抗勢力がないため、共闘隊は一方的に撃ちまくっていた。念の為、私たちもなるべく姿勢を低くし、古い靴の者たちもどさくさに紛れようとする。経験の浅い共闘隊たちには有効な手段で、彼らの名が他所に届くことはなかった。

 久しぶりに会ったヤスヒロが「朝ドラに大滝詠一が役者として出演するらしいよ」と教えてくれた。また、明治小のメグロの店で行われたジャイアントコーンの早食い大会で新記録が出たことも伝えられたが、ヤスヒロは私がメグロを知らないことに気づいていないようで、地元の閉鎖性を痛感させられた。すっかり変わってしまった幼稚園では、ちょうど焼却炉に誤って転落した新任の先生がそのまま焼かれてしまっていた。ヤスヒロと共に眺めていると、別の先生が燃えカスを掘り起しはじめ、やがて中から園児には直視できないような先生の遺体がモザイクに包まれて現れた。誰かの大泣きする声が聞こえた。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(28)

 公民館の駐車場まで来るとエイの気配もなくなり、鍵がかかっていないことも知っていた私は堂々と入口から中へ入った。祖母が民謡の練習に使っていた大広間の壁には気になる隙間があり、ちょうど良いと思ったので、たまたま持参していたシャンプーを流し込むことにした。乾けば香りも良い部屋になる。

 畳にシャンプーをこぼさないよう気をつけていると、玄関前にシルバーの四駆が停まった。額の広いコムラガワ教諭が降りてきたので、慌ててトイレへ逃げ込んだ。トイレの窓は15センチほどしか開かない構造だったが、私には充分にすりぬけることができたので、脱出することはたやすいものだった。コムラガワ教諭が私の姿を見ていたかどうかは今もわからないが、隙間が乾いたシャンプーで埋められていたことは話題にすらならなかった。大広間はそれ以来、程よい香りが漂うようになったが、そもそも隙間を気にしていた者がいなかったのだ。私は利用者を軽蔑し、公民館の裏に虫を埋めるようになった。

 小学校3年の秋まで虫は埋め続け、そのほとんどはカメムシ型の小さなテントウムシだった。埋めた後で土の上から圧力をかけても、すぐに掘り返すと虫たちは生きていることが多かったが、結局はまた埋め直していた。翌日に掘り返しても死骸はなかったが、建物の壁は順調に血管が浮き出し始めていた。近くの畑で拾った黒曜石をとがらせ、壁の血管を裂いてみると、思った以上に黄色い液体がどろりと流れ出た。利用者の意識がぬるいので、建物も肥え太っているのだとイタダキ校長の話を聞いて判断した。黒曜石の欠片は血管の切れ目に押し込んでおいたが、巡り終えて傷口から流れ出るものはなかった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(27)

 飲み屋通りは湿度も高く、近づくのも不快だったが、その先に崩れかけた木造の中古ビデオ屋があるので我慢して頻繁に足を運んだ。どう調べても素性がつかめない怪し気な販売元のビデオばかりの並んでいる店で、初めて行った際には『奇習!悪習!猟奇奇人地帯』というタイトルのビデオを購入した。ビデオの内容は事件や事故のニュース映像らしきものを集めたものだった。フェイクではないようだったが、見たことのない映像ばかりで、パッケージの裏に小さく写真が印刷されていたカースタント事故の映像は特に惨く、さすがの私も数日間は麺類や焦げ目のある食品を口にすることができなくなった。

 幼稚園の倉庫に保管されていた食品人形は、私が卒園する頃には黴と虫の混合人形になっていたが、園児へのお仕置きとして混合人形をちぎって食べさせた職員が高校を卒業して少しした頃に逮捕された。私はその職員の顔も名前も知らなかったが、当時の同級生たちが卒園後も顔を出していたと知り驚いた。遠足と称して海辺でアカエイを銛で突く練習をさせられたのは当時の園長の趣味によるもので、刺せば良いと言われたが、暴れたエイの体が回転して尾の毒針がこちらに向かってくるのを恐れた私は途中で投げ出していた。だが、たしかに思い返してみれば、私以外の者は恐れることもなく海を楽しんでいた。幸い園長は離れて見学することを許してくれたが、しばらくするとアカエイたちは一斉に空へ飛び立ちはじめた。上空を大量のエイたちが飛んで行き、どこに落下するかもわからないなか、私は公民館の方向へ走り続けた。エイの飛距離はかなりのもので、ぶつかることはなかったが、振り返る余裕はなかった。

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『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(26)

 モガリはニエトの孫で、我が家とは少なからず因縁があった。父や伯母が子供の頃、飼っていた猫が行方不明になり、祖父が探すとニエトの家で吊るされているのを発見した。温厚な祖父が他人を殴るのを初めて見たと父は言った。幸い父の猫は無事だったが、喰われたらしい猫の骨が大量に見つかった。喰われた猫たちの呪いなのか、モガリの家では猫にまつわるトラブルが多く、檻から出してはいけない猫をモガリの母が勝手な判断で錠を外してしまい、猫は暴れまわって風呂に飛び込んだ挙句に台所へ向かい、火のついたガスコンロと壁の間で動けなくなった。結局、猫は無事だったが家の焼失の原因となった。

 療養所でのモガリはすっかりおとなしくなっており、遠戚のしがらみから見舞いに行ったマサ君によると、モガリは両目玉ともに取り出して右手に持って歩き回っており、あとで戻すつもりらしいが不安なのだと述べたらしい。イタチ汁のついた手で汚した眼球は洗いつづけただけでは回復しないようだった。父が真夜中に自分の車の前で首のない大男が立っている夢を見たのは、私がニエトについての話を訊いた日のことだったので、マサ君から聞かされたモガリの様子を父に伝えるのはやめておくことにした。首のない大男の肩幅は、あきらかに人間のそれを逸脱していたので、深掘りするのも危険と考えた。首のない大男は父の夢の中にしか現れなかったが、1997年の運動会の後夜祭で右手に丸太、左手に竹槍を持った味方が敵に特攻をしかけた時、急に戻ってきたかと思うと裏切ってこちらを攻撃してきた姿は大男そのもので、ヨソイリさんのトラクターまで追い詰め、耳を切り落としてからゆっくり首を切断した。ナイトウセイイチ氏が姿を消した汚い飲み屋通りで、落ちていた嫌いな人間の耳を踏み潰したのは、東京に来て5年目のことだったが、もちろんそれは丸太と竹槍の男とは無関係の耳である。お嬢は「鼻が落ちていたら拾って冷凍しておく。笑えそう」と言った。実際、お嬢は直後に高額の鼻を拾うことになる。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(25)

 その翌日、無理矢理参加させられた合コンで、お嬢は「好きなタイプは身体に良さそうな人。でも恋愛沙汰は身体に悪そう」とだけ答え、皺だらけの五千円札を置いてすぐに店を出たという。後に「恥じらいの四戦士」と呼ばれた関東での私の友人たちにこの話をすると、K氏だけがやけに興味を持ってくれた。専門学校の理事会が学生たちの乾いた身体を栄養にして「へいま様」を蘇えらせようとしているとK氏は語った。濃いめコーヒーを飲み過ぎたK氏の妄想だと初めは私も思ったが、山上と共に退学者の下北昇平が資料室から借りっぱなしにしていたビデオテープを部屋から回収した日にそれが真実だと知った。

 専門学校一年目の冬に実家へ帰省すると、庭に積もった雪のなかに下半身の埋まった子猫がいるので助けてやってくれと母に頼まれた。雪をかき分ける最中、猫の頭に手が当たり、その拍子に猫のまぶたは片方だけ開いたままになった。どうやら死んでしまったらしいが、それが「へいま様」の影響だとは後に知った。

 猫の遺体は小学校のイタダキ校長に頼んで埋葬してもらった。小学6年の冬、大嫌いだったスケート大会を終えた私にイタダキ校長は涙を浮かべながら「よかったな。もう二度とやらなくて済む」と言って称えてくれた。青年団のモガリは眉を顰めたが、イタチの絞り汁を飲んでカップク山の療養所に運ばれた。モガリがイタチの絞り汁を飲んだのはカップク山のスケート場で、休憩所のタンクにはイタチ以外にも様々な動物の死骸が腐り果てて液状化しており酷い悪臭もした。横着して近くの井戸水で頭を洗った従業員の女は長いこと臭いがとれなくなった。不謹慎ながら連中が不幸に見舞われたのは嬉しく思った。