植野「石田将也がバカなのか、直花ちゃんが合ってましたっていうのか、どっちだ? 言ってみろ」 将也「植野がバカだ」

 今回は『聲の形』に関する話のみでお送りします(注:本日のブログは少々冷静さを欠いております。ネタバレよりも、その点に注意が必要です)。

 「将硝ちゃんの幸せを願う会」というのがツイッターでイラスト付きで流れてきて、よし私も入る!と思ったが、よく考えてみれば、私は「将硝の幸せ」を願っているのではなく、硝子一人の幸せを願っているだけなので、厳密に言えばこの会の入会規定(そんなものは書いてはいなかったが、会の名前通りだとすれば)には合致していない。極端なことを言えば、もし将也の不幸が硝子の幸せであるなら、私は将也の不幸を願ってしまうわけであり、だから将也と硝子が結ばれることを必ずしも期待しているわけではないのである。ただ、本編で硝子がこちらを悶死させるような告白をしちゃうもんだから、私としても、よし全力で応援してやるぞという気になっているだけである。硝子が幸せならそれでいい。それでいい。まあ、あとは佐原さんと結弦あたりですか。うん、やーしょーもよくやったと思うので、永束君と真柴君あたりと愉快にやっていてくれ。川井は……もうあれが生態だっていうんだから、和解も拒絶もなく、必要なのはその生態を知り尽くした調教師、あるいは飼育係なわけですから、後は頼んだよ真柴君(あるいは、動物や植物など生き物の世話に携わることで、どうやら「必要とされる」ことの喜びを見出しているらしい硝子こそ適任なのかもしれない)。植野は……もう、いっそあんたが記憶喪失にでもなっててください。そうなりゃ、たぶん丸く収まる。

 と、まあ漫画の登場人物に対する私の気持ち悪い一方的な愛の話はこれくらいにして、ここからは、ある種同じくらい気持ち悪い一方的な愛(?)で暴走していた植野さんの話(以下、諸般の事情により、口調が荒れます)。



 植野が嫌いというのは散々っぱら申してきましたけどね、それでも描かれ方とか色々読み解けば、なんか一応思うところがあるというか、ああその点に関しては多少……うん、まあね、というくらいのせめてもの何かがあるんじゃないかと考え続けてきたわけですよ。たとえば、前々回のブログ(→ http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20140824)でも、ああだこうだと考えたりしましたよ。嫌いながらも、色々とね。たとえ、フィクションの中の登場人物であっても、簡単に口汚く罵るのはどうかと思っていたわけですよ。そしてこのたび、ようやく最新話(第50話「植野直花」)を読んだわけですよ。タイトルどおり、植野の内面の話です。で、結論から言いますとね。

 そんな大層なことは考えてなかった。

 ということがわかったわけですよ。ものすごく乱暴に言ってしまえば、ただの勘違いドロドロ嫉妬昼ドラクソ女状態でした。

 「石田を返してから言って」っていうのは……まあ、意識は取り戻してほしいですよ。将也を自殺に巻き込んでしまった硝子に対して、どんなにその自殺理由にいたった理由がわかるとしても、そしてそもそも巻き込むつもりなんかなかったとしても、友人ならばそう言いたくなることもわかります。ただですね、この言葉に至るまでの流れを読んでしまいますと、そういう意味にはとれんくて、小学校時代の独白にある「私の将也」の延長にしか思えんわけですよ。一度だってやーしょーがおめえさんの所有物だったことがありますか? というですよ。はっきり言いますけど、傍から見りゃ、やーしょー所有権の正当性で言えば、おめえさんは、永束君のはるか下ですからね。下っていうか、たぶん所有権ないですからね。まあ、そもそも人間に「所有権」なんてものがあってたまるかという話ですが、それにしたってですよ。

 いや、一億歩譲ってですね、恋は盲目っていうんですか? ああいう嫉妬で視野が狭くなること自体は、まあ想像できなくもないですよ。その思いに囚われすぎてやらかしたことの重さは別としてですけどね。しかし、高校生にもなってそのまんまってのは、どうなんですか、と。

 ただですね、ここまで突き抜けて間違った思い込みで、もう洒落にならんレベルの事を色々やらかしていたとなると、「キャラクター」としての植野への好感度はむしろ上がりました。現実にいたらなんとかして社会から抹殺しているところですが、フィクションであるということが幸いしました。面白いです、たしかに。物語を盛り上げてくれるという意味では、ビバ!植野!です。はい。

 逆にですね、今回の植野を見てなお、一途な思いがどうのとか、将也うらやましい(この「将也うらやましい」に関してはちょっと書きたいことがあります。まあ、バカな話なので冷めた目で見てくださって構いません。すでに冷めてるとは思いますが、より冷めると思います。というか、引くと思います)とか言えてしまう人に対しては、正直、植野以上に分かり合えることはないんだろうなと思います。いやまあ、マツコ・デラックスも言ってましたが、男女どころか個人個人が分かりあえることなんて私もないとは思っています。「人はそれぞれの形でみな孤独なのです」という『X‐ファイル』第3シーズン「執筆」での名文句にこそ、私は涙したわけですが、それにしたって、あの人たちとは……という気分になるのが正直なところです。ここで、あの言葉を再び引用します。

「あなたのことが好きだから自分のことも好きになれ、なんてのはただの脅迫ですよ。残念ながらぼくは相互主義者ではないし――情欲で他人を殺す人間なんて憎悪する」
西尾維新クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』)

 別に誰が誰を好きになっても構いません。『聲の形』にしても、私は硝子が幸せになって、そしてもっとラクに生きられるようにさえなってくれれば、誰と誰が恋仲になろうが、あるいは誰と誰に別れが訪れようが構わないのですよ。もし、将也と離れることで硝子が幸せになるのだったら、それはそれでいいわけです。ただ、植野の思いを応援する気は、ひとっつも生まれねえわけですよ。

 繰り返しますが、好きになること自体は構いません。勝手にしやがれ、です。しかしそれで、ワケのわからん嫉妬に燃えて、他人を傷つけまくってる人間を許しちゃいかんだろう、と。いや、ただの「物語」の展開として、植野が勝つ、というのが無しなわけじゃないですよ。ただ、今の状態でそういう展開にするなら、それを肯定的に描くというのは無しだと思うわけですよ。倫理的に。

 そして、「将也うらやましい」の話ですが、実際にいたわけですよ、病室での植野のアレ(あえてぼかしてみます。読んでみてのお楽しみ)に関してでしょうけど、そういう意見を持つ人が。

 まあ、内面とかどうでもよくて、好みの外見ならなんでもエエという方からしたら、そうなのかもしれませんけどね。しかし、好きでもねえ相手からもらって嬉しいものなんてのは、基本的にカネくらいのもんですよ。カネはむしろ、嫌いな相手からむしりとりたいですね。憎しみのこもったお金でも、お金はお金です。

 というわけで、寝込みを襲われた将也はちっとも羨ましくありません。まあ、硝子に指を噛まれていた小学生・将也はすげー羨ましいですけどね! 硝子になら、指の一、二本噛み千切られたってわたしゃ何の文句もありませんよ。むしろ、お望みならいつでも噛み千切ってしまってください。人間、指の一、二本噛み千切られたところで、適切な処置さえすれば、何の問題もありゃしません。それに、噛み千切ぎれらた相手が他ならぬ硝子なら、なんかプラセボ効果でほっといても傷口はキレイに塞がりそうじゃないですか。痛みにしたって、硝子がこれまで耐えてきた心の痛みに比べりゃ、宇宙に飛ばされたライカ犬がなんだって話ですよ。しかし、これが植野に指を噛み千切られたとなると、そりゃあ、もう、残酷な報復行為を決断せざるを得ませんよ。殺して解して並べて揃えて晒してやんよ、ですよ。それこそ、零崎一族の血が騒ぎ出しますよ。



 ……と、私の気持ち悪い思いの発露はこのくらいにして、別の話題へ。

 自分の苦労や努力が報われないからといって、あるいは報われてはいたとしても、それまでの苦労や努力が大変なものだったからといって、自分より苦労してない、努力してない(と思われる)人の幸せや成功は許せないというような思考の持ち主は、一生苦労して不幸でいてください。そんな心の狭い人間の幸せを認められるほど私の心は広くありません。……というのが、私の「苦労話」や「努力」に対する考えなわけです。ブラック企業肯定者なんかに対しても言いたいことです。で、なんでそんな話をしたかと言えば、硝子に対する「甘えている」とか「心が簡単に折れすぎだ」という意見に対して、なんですね。

 だいたいですね、障害を持って生まれ、そのことで散々苦労させられいじめられ、あげくわけのわからん嫉妬の対象になってさらに陰湿ないじめを受け続け、しかも高校になってからもその余波を受けて……ですよ? そんな目に遭い続けた子になら、王子様が現われて救ってくれるという話だって別にかまわんと思うわけですよ。そりゃ現実は非情ですし、そんなうまいこといかないなんてこともわかっとります。そういう、貧すれば鈍する『蠅の王』や『白い巨塔』のような物語だって有りです。しかしね、それはそれですよ。それらが創作物として優れているということと、そこで描かれた「世界」を肯定するということとは別なわけですよ。肯定させたくないから、それらの作品は重苦しい演出がなされているわけですよ。ゆえにね、創作物として硝子がもっとかわいそうなことになるのは確かに無しではないですよ。見たくないけど、それはそれで仕方ないとは思います。ですがね、じゃああんたらはそんな硝子の境遇を肯定するのかって話ですよ。現実は厳しいよなって涙するならまあわかります。でも、頑張りが足りなかったから当然だとか言うわけですか? え? そんなに人間苦労せにゃならんのですか? 「つらいのはお前だけじゃない」? 他にもっと苦しんでいる人がいるということが、なぜ「それよりは苦しんでいないけどそれなりに苦しんでいる人」が救われてはいけない理由になる? 社会を良くする方法を考えるのが面倒くせえだけだろ? そりゃ、もっと苦しい人がいるんだから、お前は我慢しろって言っておけば、何も考えなくて済むもの。ラクだもの。で、その口で苦しんでいる人に「甘え」だの「ラクするな」と言うわけですか。なんだ、おめえさんたち、自分の頑張りが報われねえからって、アレか、フィクションの登場人物に過剰な苦労を期待してるんか? 先ほども言いましたが、そんな狭い心の奴が、いくら苦労したところで、もっと苦しみやがれとしか思いませんよ、こちらは。

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

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 以下、もう少しコネタ的な話。

 この漫画は視点によってキャラの容姿に差が出ると言われていて、実際、永束や川井視点の植野なんてのは酷いツラだったわけで、植野視点の硝子はもっと可愛くなく描かれるのではと予想されていたが、ちょっと斜め上の感じになっていた。「可愛い」という概念をどうとらえるかにもよるが、悪女感を出した分、普段の硝子よりも艶めかしくなってるので、容姿だけでいえば、むしろこの硝子の方が心惹かれる奴が結構いそうなのだが、それでいいのか植野?

 まあ、やることなすこと裏目にでる植野。こんな形でも硝子をアシストするとはね。ハラグロ硝子が、あんな感じの艶めかしさならそれはそれでと思ったもの。「かわいそうで無口な子」を男が好むというのはまあそうだろうけど、艶めかしい悪女に惹かれる奴だってたくさんいるわけで。ただ、いくら相手が艶めかしい悪女でも、恋敵の靴に泥を入れたりする女が好きな男はたぶんそうそういないわけで。「見ることしかできなかった」。本当「見ること」しかしないでおいたのなら、みんなと仲良くできたかもしれないねえ、植野。

 そして、植野が病室でやらかした「アレ」に関して。将硝ファンの中には、植野が先を越しやがったことが我慢ならない、という方もいるでしょうけど、場所がどこでもいいなら佐原を探しに行った回で、将也の背中は硝子が奪ってます。事故だけど。まあ、故意ではないというなら、今回のだって寝込みを襲われた形なわけで、事件なわけだ。今回の植野は、橋本聖子みたいなもんである(ちなみに、今回の植野回が衝撃的すぎて西宮硝子botが「ぷは」と呟いたことに「これは硝子の台詞じゃないんじゃないか」と思っている方がいるようだけど、硝子は将也と再会後、ママ宮に川に捨てられてしまった筆談ノートを探してる時、水中から顔をあげてちゃんと「ぷは」と言ってます)。

 
 以下、さらに遊びネタ。


『将硝どうでしょう』(水曜どうでしょう×聲の形
 ※マガジンは水曜発売です。

植野「あたしか西宮さんかどっちか言ってみろっつってんだよ」
将也「別にさあ……西宮だってあれだぞ。捨てたもんじゃないぞ」
植野「捨てたもんとかじゃなくて、どっちがより強く思ってるかわかるだろ? あたしを選ぶのが正しいのか西宮さんを選ぶのが正しいのか。っていうか、石田将也がバカなのか、直花ちゃんが合ってましたっていうのか、どっちだ? 言ってみろ」
将也「植野がバカだ」
(『水曜どうでしょう「四国八十八カ所Ⅱ」』参照)



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709