東地高のオオカミ男は「髪は“永”い友達」だと言った

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

 単行本第6巻の表紙がわかりましたが、これは……。単行本派の方々は表紙見ただけで絶望に打ちひしがれそうである。連載を追いかけている自分も泣きそうだ。何だよ、このミレーの描いたオフィーリアみたいな表紙は(大今先生は、なんとなくだけどシェークスピアは早いうちに読んでいそう。『聲の形』も、ハムレットに捨てられたと思い込んだオフィーリア的悲劇がいつ起こってしまうかと、いつまでもいつまでも不安にさせやがります)。

 というわけで、『聲の形』最新話を読んで、あれこれ考えたりしてみようの回。第55話「帰宅」編(ネタバレ等に注意)。

 やはり、髪がキーワードなのでしょうか。髪は長い友達。まあ、キーワードや象徴とまではならずとも、髪関連のネタが多いのは確かで、今回も硝子のヘアメイク・イシダ後継フラグと共に、将也の毛髪終末期が「今そこにある危機」として迫っているらしいことも描かれていました(おかんの話が本当だとすると、高確率で遺伝してるってことだよなあ)。ひょっとして、永束君の髪の毛が大泉洋のようなもこもこくるくるなのは、絡まって離れないほどの強くて長くて永い友情ということの表れでしょうか。

 ところで、石田と植野がくっつけば性格的にちょうどバランスがとれそう(ダメな部分を補い合えそう)だとか、いや、やはり硝子との相性の方が素晴らしいとか、硝子との相性は永束こそが一番とか、真柴も川井の気持ち悪さを治していくにはちょうどいい性格じゃないかとか、いろいろありましたが、いちばんくっついて合わさって良い感じになるのはWママさん達だったのですね。それにしても石田ママの天衣無縫っぷりって結構すごい。マリアの天使ぶり(硝子や佐原が天使すぎる、というのは読者の指摘でしかありませんが、マリアだけは作中でしっかりと「天使」と言われてますね。将也の心のにおいてですが)は、石田姉よりも石田ママからの隔世遺伝ではないかと。

 そんなマリアが危うくなりがちな全体の和をとりもってくれたりと、今回は結弦がはじめて石田家で食事をした回(および、永束も交えての食事→銭湯の回)の反復といった感じでした。なごやかで平和で……しかし、だからこそ鬼……訂正・ラムちゃんな大今先生が何を企んでいるのかという不安や恐怖も拭えません。私は、正直、これ以上の波乱や不幸は見たくありません。せめて、石田家と西宮家はこのままの平和な形で終わらせてあげてはもらえないでしょうか。



 ここで、少し考察めいたことを。植野が心底嫌いな私は、植野に対する擁護的な意見を読む際は「どうにかして粗を探してやろう」くらいの黒い感情で臨んでいるのだが、珍しく、というかほぼ初なのだが「成程」と思えるものを読んだ。別の考察ブログのコメント欄に書き込まれていた意見で、大まかに言えば「硝子にどこまで責任があるかは別として、硝子がクラスに参加することで最も負担がかかっていたのは植野であり、ゆえに言いがかり的な面が多いものの、それ以外の部分に関してはそう感じてしまうのも仕方ない部分があるのでは?」というものである。

 たしかに、改めて読み直してみると、「笑って同調してるだけ」と言われた川井は、遊園地編で「色んなことを教えてあげた」などと言ってはいるが、実際には植野に負担がかかっていた描写の方が多い。植野の将也への恋愛感情を硝子がいつ頃から嗅ぎ取っていたのかという話題もあったが、それとは別に、硝子が植野に対して、再会後にまで攻撃されながらも「特に世話をかけてしまった」と申し訳なく思っているのは、硝子が天使だからとか、自己肯定感が低すぎるからとかではなく、本当に文字通り「特に世話をかけてしまった」からに他ならないからなのだろう。これは、学校側の対応のまずさや、植野ほど直接的な攻撃性を見せないまでも、不寛容さで言えば植野以上なクラスメイトたちが「普通の児童」として存在していることの恐ろしさといったことにも繋がってくる。この辺りがもっと描きこまれれば、わざわざ今さら硝子の「負の面」など描かなくとも、硝子いじめの加害者側の複雑な思いみたいなものを描きだせるのではなかろうか(同時に、硝子が「自分が悪い」と思わざるを得なかったことに関しても、さらに深みが増しそうである)。

 そして、上記のような面を曇らせてしまっているのって、やはり植野の将也に対する「一途な」思いという設定だと思うのだけれども、しかし、その植野の将也への「一途な思い」という設定がなければ、高校以降、植野が積極的に関わってくる必然性もほぼなくなってしまう。まあ、「加害者側の複雑な面」というものが、さらに描かれるかどうかは分からないし、「絶対にこれ以上描かなければいけない」と思っているわけでもないので、それはそれとして完結後あたりに『聲の形』の作品そのものの考察とは別の形で、足がかりとして改めて考えてみるかもしれない(これまでの私の「考察」も「感想」だって、作品そのものへの「考察」や「感想」とは呼び難い気もするが)。

 さて、余談……とも言えない、「私が考察する」という点では、とても重要なものかもしれない話だが、実は私も小学校時代に似たような状況で、かなり極端な形で負担を集中させられた経験がある(植野が憎すぎて、その経験と『聲の形』がなかなか結びつかなかった。他者の意見を軽視していたら、気づかずに終わるところであった)。小学2年の頃、クラスメイトの一人が突然の病で足が一時的に不自由になり、給食の配膳や片づけ等のサポートが必要になったのだが、どういうわけかそのサポートは私ばかりがしていた。私一人が学級会等で「そういう係」に任命されていたわけではなかったはずである。そもそも、私とそのクラスメイトは元々不仲で、彼だって私なんかに「助けられる」のは屈辱だったんじゃないかとさえ思うのだが、なんとなくの流れで私ばかりがやっていた。他の連中がやる気配なんか見せないからである。割と面倒事をやらされるタイプではあったから(小6の中ごろまでは、内心、担任や他の連中への憎悪を膨らませながらも言われるままにこなしてはいたが、最後は放棄し、中学以降は、ほぼ現在の私と同じやさぐれ者のはぐれ者が出来上がっている)、あの時もそんな「空気」になったのだろう。ただ、私は徹頭徹尾、恨んだのは他のクラスメイトと教師の方で、不仲ではあったものの病気になったクラスメイトに対しては、この件に関しての恨みや怒りは基本的にない(他のことではたくさんあるが)。その辺りは、結局クラスメイトたちの側に寄って硝子を攻撃した植野とは違う……と思いたい(硝子と植野の場合、硝子が転校生だったことも、少なからず影響はあるのだろうが)。



 さて、話を第55話の内容そのものに戻し、考察と言うよりはもっと単純なネタ的ともいえる話を。まずは、植野嫌いの植野嫌いによる植野嫌いのための話(以前も述べましたが、人物としてこれほど憎い奴もいませんし、当然「魅力」なんてものも感じないのですが、「ただの漫画に過ぎない」というドライに徹し切った状態になれば、これほど面白いキャラもいないとは思います。ただ、この漫画に関しては、一時的にさえなかなかそこまでの境地には立てない)。

 硝子は将也に「植野が看病してくれていた」と伝えたようですが、看病ねえ……襲われてただけという気もします。ベッドに勝手に坐ってやがったし。まあ、硝子どころか他の誰も病室に入れていないようだから、病室内で何をしてたかは植野自身と神のみぞ知るなわけですが。そして硝子への暴行だが、将也にそのことを伝えそうな人が、誰もあの場にはいなかった。そこが何だかモヤモヤとする。硝子は絶対言わないだろうし(まあ、「石田君、私、植野さんにリンチされたんです」なんて硝子が将也に伝えたら、それはそれで何かがっかりではあるが)。あの暴行現場に川井がいたなら、目覚めた将也にすぐ伝えていそうだが、ホントあの委員長はおらんでいいところにはしゃしゃり出てくるくせに、必要な時には絶対何もしない。

 将也の父親は、どうやら石田ママに頭髪のことを指摘されてスネて家を出て行ったらしいのだが、もし硝子と出会わず、ほぼ小学生の頃のまま身体だけ成長した将也と植野が結婚したら、植野が将也の頭髪のことをからかったりして、結局同じ運命を辿ったんじゃないかと思ったり……。



 『聲の形』のテーマ曲を選ぶなら、何が良いかという話は以前もした。このあいだ『笑う洋楽展』で久しぶりにウォーレン・ジヴォンの「ロンドンのオオカミ男」を聴いた(正確に言えば、ウォーレンがこの曲を歌う映像を久しぶりに観た)のだが、あのビッグフレンド“N”もロンリーウルフだったらしいので、永束の草案のまま映画が完成していたら、主題歌は「ロンドンのオオカミ男」で良かったんじゃないかなと思った。あるいはビリー・ジョエルの「ストレンジャー」。


Billy Joel/The Stranger (Live 1977)

Excitable Boy

Excitable Boy

ストレンジャー

ストレンジャー

ハムレット (岩波文庫)

ハムレット (岩波文庫)



以下、遊びネタ。


将硝どうでしょう(水曜どうでしょう×聲の形)第5話
 ※マガジンは水曜発売です。

将也「橋事件の前に植野から“インガオーホーなんてクソくらえ”って言われた時はうれしかったけどねぇ……あいつは味方じゃなかったな……」
(『水曜どうでしょう「ジャングル・リベンジ」』より)



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709