東京には空がないという でも、地元には空しかないともいう

 いやあ、しかし、私のツイッターのタイムラインにおいても『聲の形』の感想より先に『風夏』に関する話題が飛び込んできたのは驚いた。そして「もしも、『太陽にほえろ!』が放送されていた時代にネットがあったら」という話を思い出す。ラガーの殉職回で「もうギャグじゃん。さすがに離脱するわ」とかいう書き込みがきっと……。

 そんな話は正直どうでもよく、日曜恒例『聲の形』最新話を読んで、あれこれ考えたりしたことを書き散らかしてみようの回。第59話「進路」編。連載も残りわずかで、寂しいやらホッとするやら(次回どうなってしまうのか……という不安に耐えられなくなっているものでね)。

聲の形(6) (講談社コミックス)

聲の形(6) (講談社コミックス)

 「東京へは もう何度も行きましたね」な東京。「いい時は最高、悪い時は最低」でお馴染みの東京。そう、東京ですよ、おっかさん。ワッショイワッショイ……というわけで、硝子も自らの夢のために上京することを考えているようです。佐原&植野に至っては、「来年の東京行き決定!!」と宣言(それにしても、植野はいつの間に佐原さんのオマケみたいなポジションになったのだろう。牙を抜かれたどころか、佐原さんのおもちゃにさえ思えてくる。表情の描かれ方も、全コマやたらと情けないというかおぼこいというか……)。しかし更生後は、やたらと格好良い言動を見せる反面、駄目な時は哀しいくらい残念な将也は、「だめだよ東京なんか!」「東京は怖いよ!」などと言って硝子の希望に反対(直前に「自分のやりたい方を選ぶべき」と言ってるくせに……)。硝子は怒って去っていってしまった(去っていく姿は、怒りよりもがっかりしている感が強い)。硝子にとって今回の進路希望を伝えることは、ほぼ告白と同義だったのでは? といった読み解きは、私がしなくても既に多くの読者が語っているのでそれは置いておき、まず単純に一つ思ったことを。

 「東京は怖い」。まあ、たしかに私だって北海道から神奈川に出ていった時は結構な不安を持っていた。ただ、石をぶつけられ、補聴器を壊され、観覧車でビンタされ、病院の駐車場でリンチまでされた硝子の痛々しい境遇を思えば、どうしても「あんたたちの地元のほうが怖いだろ!」と思ってしまう(将也は上記事件の犯人の一人でもあるわけだし)。硝子だけでなく、将也だって絵に描いたような「地方のDQN」感丸出しのげんき君から、みぞおちに強烈な一撃を食らっているわけだし、少なくとも私には将也たちの「地元」のほうがはるかに恐ろしく感じるのだ。

 それにしても、現在の東京は本当に将也が言うほど「怖い」のだろうか。2014年現在、「東京」で「地方出身者」に対する排他性、暴力性がそれほどあるのだろうか。北海道の片隅で18年間育ち、1年だけ札幌生活を経験した後、6年ほど神奈川/東京で過ごした私個人の経験からすれば、最初の18年のほうがはるかに「排他的」な空気にさらされていたように感じるし、「街」(家から遠いのだが)の治安もよろしくなかったため、どうにも将也の言う「東京は怖い」が、現代的な感覚と思えないところがある。もちろん、将也の心情を考えてみれば、単純に硝子に傍にいてほしいという思いの表れなのだろうし、「東京は怖い」という理由は、硝子を引き留めるための一種の方便的なものでもあろう。しかし、そこで真っ先にその「理由」が選ばれたことに対して、想像以上に「うん。東京は怖い」と反応している読者もいて、正直驚いている。また、今回のこの展開(佐原と植野の東京行きが決定し、硝子も東京行きを希望していることが示される)は、「大今先生の出身地である岐阜を舞台(のモデル)にしているにも関わらず、結局東京一極集中を謳い、地方が良いという価値観には至らなかったのか」とする意見があるのだが、別にそんな話ではない気がする。ちょっと、この辺りについて、あの大ヒットドラマ『あまちゃん』と絡めて考えてみたい。

 『あまちゃん』のアキは、後にGMT48という「地元」をコンセプトとしたアイドルグループに入り、最終的に岩手県三陸ローカルアイドル潮騒のメモリーズになるわけだが、よく思い出してみてほしい。アキの地元は東京なのである。粗く『あまちゃん』のストーリーを整理すると、アキは東京では地味で、硝子が受けたものほど苛烈ではないもののいじめられる側の子で、変なポエムをノートに書きつづってしまいそうな少女だったのだが、母の故郷である岩手に越してから、なぜか激しい訛に象徴されるように「地元民化」する。祖母に憧れ海女になり、「かっけえ」先輩に憧れ潜水士になり、アイドルが夢である親友・ユイに感化され、自らもアイドルになるために再び東京に行く(逆輸入みたいなものである)。ユイが主に家庭面の問題で上京できなかったり、母とプロデューサーの因縁といった問題を乗り越えつつ、東京でアイドルとしての人気を徐々に得てゆくが、東日本大震災を受け、再度岩手に戻る。そこで、ローカルアイドルとして活動していく決心を固めたユイと共に潮騒のメモリーズを復活させ……という形になる。これは、はたして「地方>東京」あるいは「地元>外部」という物語なのだろうか。おそらくNOである。まず、アキの本来の地元が東京である時点で、「地元賛歌」でないことは明白だ。そして、特にユイを取り巻く状況の描かれ方に、「地方の負の面/排他性」みたいなものが(あくまで笑いをベースにしつつ)描かれている。具体的に言えば、失踪したユイの母に対する噂で盛り上がる下世話な感じ、東京に行こうとするユイを阻止しようとする北三陸組のある種の傲慢さ……などである(逆に、ユイはなぜか塩見三省演じる勉さんには懐いているのだが、勉さんは基本的に、「地方/田舎の負の面」を持たない者として描かれている。ちなみに、宮藤官九郎は、『あまちゃん』について、「がんばってる子供の足を大人が引っ張っている話」だと述べたことがある)。

 『あまちゃん』が謳ったのは、東京か地方かという価値観ではなく、アマチュアイズムとプロフェッショナルなものの幸福な融合みたいなものだったのかもしれない(アキには、おそらくタモリさん的な「なりすまし」の才がある)。後にして思えば、アキにとっては、北三陸という土地も、東京での荒巻プロデューサーによる「プロの世界」も、すべて足がかりであり、ネットの力を誰もが利用できる現在においては、どんな場所でも特別な場所に読み替えることが可能であり、「東京か地方か」という価値観にそもそも意味がない。大今先生は、この「東京/地方」に関して、どのような考え方を持っているかは分からないが、少なくとも、この第59話の時点で、「東京一極化に抗えなかったのか」という感想を私が持つことはない。

 さて、『あまちゃん』のアキにとって、岩手は「地方」ではあったかもしれないが、「地元」ではない。私は、この「地元」というやつが、「東京」などよりもはるかに怖いもののように思えてならない。より詳しく言えば「地元的な繋がり」とでも言おうか。

 この「地元的繋がり」というのは、『あまちゃん』においては、アイドルを目指して東京に再度足を踏み入れたアキが偶然出会った、かつてのクラスメイトたちであり、『聲の形』で言えば、植野と広瀬のLINE(もどき)的な繋がりである(島田に関しては少々微妙。島田は何か別の繋がりを他に持っていそうな雰囲気があるので、そういった閉鎖性はあまり感じられない。ただ、広瀬からは結構濃厚にそれを感じる)。アキが、自分を輝かせるためにやったことは、この「地元的繋がり」と「地元的繋がりの中での自分のキャラクター」を排除/消去することだったと言えなくもない。

 「LINE」がやり玉に挙げられるような事件は、大抵、「LINE」そのものよりも、「LINE」の中で形成されたコミュニティの閉鎖性の方が問題なのだと思う。ツイッターでも「ウチら」で検索すると、一種異様な世界を垣間見ることになるという話があったが、この「ウチら」の世界こそ「地元的繋がり」である。広島のLINE殺人事件などは、「LINE殺人事件」と呼ばれてはいるが、実際のところは「ウチら」の世界/地元的繋がりの負の面が最悪の形で「一般社会」にその姿を見せつけた極端な例ではないかと思う。何も、こういった地元的繋がりの負の面というのは、今にはじまったことではなく、文学や映画や漫画等で繰り返し描かれてきた、地方の閉鎖性の一端でもある(戯画的な例で遡ってみれば、横溝正史あたりの系統でもあるが……)。硝子や佐原、そして植野にとっての東京行きは、おそらく、地元の(良い意味での)関係をすべて断ち切るわけではなく、単に世界を拡げ、別のコミュニティ“にも”目を向ける/その中に入ってみる、というだけだと思うから、彼女たちが東京行きを決めたところで、それは別に東京一極賛歌でもなければ、地方/地元を卑下しているわけでもないだろう。ただ、閉鎖性の強い「地元的/ウチら的」世界のみに生きることから抜け出すことではある。

 もっとも、大今先生が当初から描こうとしていたテーマは「嫌いあっていた者同士の関係」らしいので、ここまでうだうだと書き散らかしてきた「東京/地方/地元」の問題など、そもそも本筋とはまったく関係ないのかもしれない。硝子の東京行きにしても、描かれ方が唐突過ぎやしないかといった批判はともかく、将也が硝子と物理的に離れたとしても、その関係性を保つことができるか(それを可能にできるだけの成長/変化があるか)を描くための設定と考えた方が自然な気はする。

 しかし、硝子は本当に東京へ行くのか、将也はそれを追うのか、はたまた地元に留まるのか、そういったことは次回以降にならなければ分からないが、確かに結構な距離だとは言え、進学/進路の関係で岐阜と東京に分かれることを、今生の別れのように捉えている読者が割といることにも少々驚いた。2ちゃんねるのネタバレスレッドもかなりの勢いで更新されていたようだが、将也の狼狽ぶりや、硝子が怒ってしまったことなどはあっても、これまでの展開と比べて、なぜそんなにスレが荒れる必要があるのか、正直分からない。中には、「なんで硝子は将也を置いて勝手に行こうとしてるんだ? ひどい女だ」みたいな意見まである。だいたい、それほど怒りを露わにするほど将也と硝子の恋愛的な発展を望んでいながら、LINEやメールどころか電話すら困難な時代ならともかく、なぜ現在の将也と硝子の関係が、岐阜と東京に分かれただけで消えてしまう程度の絆だと考えているのだろう。将也は絶対に硝子を追うべきだという意見もあるが、追わなければ絶対に消えてしまうような関係のまま物語が終結することを望んでいるのだろうか?(いや、それならそれで、一意見として賛同はせずとも、納得はできるのだが)。



 もうひとつ、ちょっと気にかかる件。自殺未遂から、あまり時間が経っていないのに、硝子の一人立ちを将也以外の周囲が心配しなさ過ぎだという意見があったが、自殺未遂した人が、割と早い時期に何か前向きになっている場合、多少先走っている感を持ったとしても、強硬に否定するのはそれはそれで危険である。硝子の場合、自己肯定感の低さが自殺の遠因でもあるわけで、なおさらである。そのあたりを考えれば、周囲があまり強く反対していないことに関しても理解できる。むしろ、物語的にちょっと不安なのは、将也がこの「強硬な否定」をしてしまったことで、去ってゆく硝子は先述の通り、怒りよりも落ち込みの方が強く感じられ、まさかもうそんなことは……とは思いながらも、また次回が怖い。

あまちゃん 完全版 Blu-rayBOX1

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東京

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東京ワッショイ

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風夏(1) (講談社コミックス)

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太陽にほえろ!1985 DVD-BOX

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 最後にちょっとした余談。初めて『聲の形』を読んだ時、スザンヌ・ヴェガの「ルカ」を思い出した。「ルカ」は児童虐待に関する歌だが、小学生時代の硝子のことを思うと、この詞はやっぱり痛切に響いてくる。


Suzanne Vega – Luka

Solitude Standing

Solitude Standing



聲の形』に関することをメインにしたエントリの目次ページ。
 http://d.hatena.ne.jp/uryuu1969/20150208/1423380709

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呟き散らかしたこと。


「普通ってなんだろうね」
「“通”ぶってる人が好まないものってことじゃない?」
「ああ“不通”に別の意味をつけるわけね」
「学がないことも“不通”だから、良い感じになるじゃない」

という会話をしたことがある。

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http://blog.over-lap.co.jp/bunko/?p=6545

 映画学校同期の真子晃一君、……いや、真子君改め「真子先生」の小説が刊行されます。『コズミックアライブ』12月25日、オーバーラップ文庫から。アイドルのお話です。「潮騒のメモリーズ」ならぬ「銀河のメモリーズ」というグループが登場する模様。ゆえに『あまちゃん』を真っ先に想起しましたが、よくあらすじを読むと、さよならポニーテールの香りもしてくるような気がするポニ。


きみのことば

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