『東京腸女むすび』(17)

「克仁さん」
 わたしは、自分の頭がこれまでの人生でいちばん冴えわたっているような感覚になっていました。
 名前を呼ばれた克仁さんは、そんなわたしの気分を、なんとなく察したようでした。ですが、それが自分にとってどんな未来を意味するのかは、分かっていないようでした。
 わたしはすっきりした気分でいました。自然と笑顔になります。しかし、その笑顔はきっと克仁さんにとって、少々こわくもあったことでしょう。
 実際、克仁さんのお顔からうかがえるのは、ただのとまどいです。
 わたしは、そんな克仁さんに、しっかり声が伝わるように告げました。
「わたしが、そんなことを気にする女に見えますか?」
 なにしろ、腸が飛び出ても気にしない女ですよ。わたしより気持ち悪い存在なんて、なかなかあり得ないですよ。
 わたしは笑顔のまま言葉を続けます。
「うぬぼれと言われるかもしれませんが、これでもわたしは、もしあなたから告白されたらどうお答えしようと悩んだりもしていたのです。あまりくわしくは言えませんが、わたしにもいろいろありまして、良い返事はできないだろうなと思っていました。それでも、悩んではいたのです」
 それが、今となっては、ちょっとでもあなたに好意を持ったことが恥ずかしいくらいです。あのデートでのわたしの振る舞いなんて目じゃないくらいの恥ずかしさです。今なら、『トム・ソーヤーの冒険』も、しっかり最後まで読み切れそうですよ。
 なんだか、目の前の男性を振るのが、とても面白く感じてきました。自分が塔子さんに近づけたような、そんな誇らしい気分になります。塔子さんに見てほしかったです。いまのわたしの晴れ姿。
 克仁さんは、ちょっと泣きそうな顔にも見えますけれど、ここはこのまま、はっきり言ってしまいましょう。
「今、あなたに対する答えが、しっかりとみつかりました。ごめんなさい。あなたとお付き合いすることはできません」
 最後まで笑顔で言い切りました。おめでとう、わたし。
 茫然とした様子の克仁さんを置いて、わたしは自分の部屋の方角へ歩き出します。背中に克仁さんの悲しい視線が刺さりますが、もう痛くもかゆくもありません。腸が飛び出たって痛くもかゆくもなかった女ですからね。視線なんて痛いはずがありません。
 おっと、そうでした。ひとつ、言い忘れたことがありました。
 わたしは振り返って克仁さんに叫びます。
「ああ、克仁さん。仰光堂は、今後ともご贔屓にお願いしますね。わたしに振られた理由を考えていただければ、当然、仰光堂に来ないなんて選択肢を選ぶことはないと思いますけれどね。でも、もし、わたしに会いたくないからお店にも行かない、なんてことをお考えなのでしたら、それはあまりにみっともないと思いますよ。もし、そんな選択肢をあなたが選んだら、わたしがあなたの愛のないストーカーになって、あなたのお部屋でお腹をかっさばいて、中身を全部お見せしてさしあげますからね!」
 きゅんきゅんきゅんきゅん!
 腸がわたしを祝福してくれているようでした。

      ○      ○      ○

 わたしはこれまで、いろんなことを塔子さんに相談させてもらってきました。
 ですが、サトウさんに関して彼女に相談させてもらったのは、二回だけでした。
 相談しなければいけないことが、ほとんどなかったからです。
 わたしはサトウさんに対して、なんの不満も疑念も抱いていなかったのです。それは、腸が飛び出た今も変わりません。
 最初に塔子さんに相談させてもらったサトウさんに関する悩みは、周りのお友達が、なんだかサトウさんのことを怪しんでいるようで気になるのです、というものでした。
 塔子さんは、「なんでもかんでも不純交友みたいに考えるような所有欲の強すぎる連中のことは、ほっときなさい」とおっしゃりました。
 なので、わたしもそういった方々のことは、ほっとかせていただきました。
 そのせいで、塔子さん以外のお友達がほとんどいなくなりましたが、まったく後悔していません。
 さて、次に相談させてもらったのは、サトウさんとお別れした後のお話です。
「どうしてもサトウさんとお別れしなくてはいけなくなったのですが、本当の理由を告げることが不可能だったので、将来性がどうのという心にもないことを理由にしてしまいました」
 これは、相談というより、ただお話ししたかっただけです。
 慰めてほしかったのか、あるいは叱ってほしかったのか。いずれにしても、なにか解決策を示してほしいわけではありませんでした。
 典型的な「面倒な女の相談」というやつかもしれません。
 そんな面倒くさいわたしに、塔子さんは言いました。
「将来的に誤解を解けるチャンスがあるってことなんだから、そこまで悲観的にならなくてもいいんじゃない?」
 ああ、なんて素敵な人なのでしょう。

      ○      ○      ○

なっちゃん、今回はしっかり振ってあげたんだね」
「塔子さんのおかげです」
 三度目のロケハンの最中、わたしは塔子さんに、克仁さんとお別れするまでの顛末をお話しました。彼女はおかしそうに笑いながら聞いてくれました。実際、わたしの人生の中でも、おそらく最大級におもしろい事件だったと思います。しかも、克仁さんにとってはどうだか分かりませんが、わたしにとってはハッピーエンドそのものでしたからね。
 予定とは少々違ってしまいましたが、克仁さんも、ちゃんと諦めてくれたようです。
最後のわたしの決め台詞のあと、「分かりました。なんだか、いろいろご迷惑かけてすみません」と頭を下げてくれました。サトウさんが謝ってくれたときと比べて、ちょっと悲愴感が濃く、あまり可愛らしさは感じませんでした。もっと可愛らしければ、わたしの中の克仁さんへの好意も、ほんの少しは回復したかもしれません。
 それでも、克仁さんは、しょんぼりとした様子ではありましたが、わたしをナイフ片手に付け狙ったりはしないと思います。もし、そんな気配を察すれば、わたしは、いま目の前にいらっしゃる長身美麗なお友達に助けを求めます。鎌田店長にも来てもらいましょう。なんなら、茅原主任や岡田主任、それにボギーさんや山上さんも呼んでもらいましょうか。
「どうしてそんなに結婚したがるんだろうねえ」
 自分の車のボンネットに腰をあずけて、塔子さんが言います。この車に対する愛のない姿勢がかっこいいですね。わたしも真似してみたいものですけれど、さすがに塔子さんの車に腰掛ける勇気はありません。彼女は気にしなさそうですけれど。
「しかも、自分の大好きなものを犠牲にしないと結婚ができないと思ってしまうのは、なんなのでしょうね」
 わたしの言葉に、塔子さんは「なんか勘違いしてるんだろうね」と言って笑います。
 それにしても、思っていたことを口に出すというのは、ずいぶんと気持ちの良いものなのですね。別の穴からなにも出せなくなったぶん、わたしはいろいろ溜まってしまっていたのかもしれません。
 わたしが晴れ晴れとした気持ちで北海道の高い空を見上げていると、塔子さんが思い出したように言いました。
「そうだ。来月あたりを予定してるんだけどね。同居人たちとキャンピングカーで北海道内をあちこち廻る旅をしてみようかなって思ってるの。良かったら、なっちゃんも参加しない?」
 塔子さんといっしょに、同じキャンピングカーですか!
 きゅんきゅんきゅんきゅん。
 腸が飛び出ていることも忘れて、心の内で浮かれてしまうわたしです。こらこら、わたしも腸も落ち着いて。
 それに、塔子さんと二人きりというわけではないですよ。
「同居人ってどんな方なんですか?」
 わたしは、お名前も聞いたことのない、塔子さんの同居人について尋ねてみました。
「あたしともう十五年以上友達やってるんだから、ドMなんだろうね」
 それはそれは。
「塔子さん。いっしょにキャンピングカーで旅行ということは、あの……いわゆる裸のお付き合いというのもあるのでしょうか?」
「え? いや、そんなのはないよ。したいっていうんだったら、あたしはかまわないけど」
「ああ、いえいえ。わたしもしたいわけではないです」
 むしろ、したくないのです。
「それならいいんだけど。お風呂も食事も、みんな好きなタイミングで、お互い余計な干渉はなし。ただ、ひとつのキャンピングカーで移動するだけの旅だよ。でも、急に裸のお付き合いとか言うから、ちょっとびっくりした。なっちゃん、そういうの嫌いそうだもんね」
 ええ、嫌いなんです。というか、腸が飛び出てからは、死活問題ですらあるのです。
「旅行のことは、ちょっと心ひかれる部分もあるので、少し考えておきます。ただ、その前にお願いしたいことがあるんです」
「なあに? なんかおもしろいこと?」
 塔子さんが、ぐいっとわたしに顔を近づけてきます。傍から見れば、背の低い後輩の女を脅している姿に映ったかもしれません。でも、わたしは悪くない意味でどきどきしてしまいます。
 きゅんきゅんきゅんきゅん。
 いえいえ、ときめいていてはいけません。ちゃんと、お願いしたいことをお伝えしなければ。
「いえ、塔子さんにとっては、さほどおもしろくないかもしれませんけど……」
 わたしは、すこし躊躇しながらも、しっかりお願いしました。
「キャンピングカーでなくてもいいので、今から、わたしを祖母のお墓まで車で送っていただけますか?」