なんとなく「良い風」に思ってもらえるだろうと考えていそうなからっぽのなにか

 紅白歌合戦の出場歌手が発表されると「待ってました」とばかりに不満の声が次々と上がってくる様子は、恒例行事とさえ感じられるようになって久しく、自分も不満があったとしても「ああはなりたくない」という気持ちの方が勝ってしまうほどに見飽きた光景となってしまった。おそらく、紅白がどれだけ私自身の理想的な番組の形から遠ざかってしまったとしても、不満の声の大合唱より見苦しいものにはならない気がする。

 そもそも、私は一度も紅白を最初から最後まで観た経験はなく、私の誕生年である1986年には既に“家族みんなで一緒に眺める”といった番組が理想としている形は成立しなくなっていただろうし(1980年代の新聞の投書欄には、高齢者による紅白プログラムへの苦言がすでに珍しくなくなっている。アイドルグループと思われる出演者のパフォーマンスを「飛んだり跳ねたり」と表現している投書には、さすがに時代を感じさせられるが)、一年の間に発表される楽曲の数も種類も圧倒的に増え、必然的に聴く側の嗜好も多様化した現在において、大多数の国民が納得できるプログラムなど有り得ると考える方がどうかしている。もし、私と同世代以下で「おおむね自分の好きな出演者だった」と言える回を観た経験があるとすれば、それは相当に音楽の趣味が最大公約数的だったのだろう。

 ところで、見る必要などないと考えていても目に入ってきてしまう見飽きた不満の声の中に「他に真面目に頑張っている歌手はたくさんいるのに」といった意見がある。大抵、具体例は挙げられておらず、挙がっている場合は個人的な好みや本人にとって可能な限りの批評的評価が理由となっており、「真面目」や「頑張っている」といったフレーズは見受けられないことが多い。ここで言われる「真面目に頑張っている歌手」というのは、どういった人たちのことなのだろう。このように意見するからには、出演の決まったアーティストには「不真面目で頑張っていない者」が多く含まれていると考えているのだろうが、自分にはそれを判断することができるという自信はどこからくるのだろう(これは、それぞれが考える「歌のうまさ」の基準にも当てはまりそうだ)。そのくせ具体例を挙げられないのは、反論できない否定の声が投げかけられるのが怖いからではないのかと邪推してしまう。もちろん、確信できるほど自分の分析力に自信など持てないので、あくまでも邪推ではあると言い訳しておくが、このような言い訳をしたくなる気持ちは大いに理解できるがゆえの推測でもある。