「話せばわかる」は生きた人間相手ですらなかなか難しい

 都市伝説や実話怪談といったものは、どれだけ荒唐無稽であろうと、もっと言えば実は虚構であったにせよ、「事実である/事実であるらしい」という点に大きな意味があるのだと思う。ゆえに「事実である(らしい)」という前提を壊しかねない要素は避けられるべきだろう。

 しかし、まれに語られる内容の人物が体験を他者に伝えることなく命を落としているはずなのに、細かな行動や心情が語られているものに出くわすことがある。小説や漫画、劇映画といった創作物であれば、たとえ事実を基にしていても、知り得ぬ部分を調査や想像によって補い描くことはむしろ必要なことであるし、ドキュメンタリーさえ捏造に値するほど酷いものは別にしても、編集や演出と無縁でいられないということは、現代人にとってもはや不可欠なリテラシーに思える。だが、事実であるらしいことが重要な都市伝説や実話怪談の場合、語り部の演出はあくまでも語り口や文体、あるいは照明演出といったものになるはずで、知り得ぬ行動や心情の描写は艶消しになりかねない。実際、私はそういった話に出くわすたびに、ただでさえ胡散臭くなりがちな都市伝説や怪談の語り部に対する不信感が何倍にも増幅する(逆に、名人とすら呼ばれる語り部の方々の多くは、そのあたりの表現がやはり上手)。

 更に厄介なのは、霊や怪異といったものは理不尽なほど問答無用な存在として描かれることも多く、それが本当であるのなら、語り部の勝手な演出によって話そのものへの不信感を増幅させてしまった聞き手にさえ呪いや祟りが降りかかりそうな気がすることである。もちろん「信じるか信じないかはあなた次第」であり、どちらかと言えば信じない側なのだが、仮に事実だとするなら語り部たちの余計な演出に疑問を持ってしまった者たちに怪異的被害があった場合、あんたたちはどう責任をとるつもりなのだと問いたくなってしまうのである。ゆえに、創作であろうと事実であろうと、都市伝説や実話怪談といったタイプの話を語る場合、「事実であること」を重視するのは、演出テクニック以上に語り部のマナーなのではないかと思う。