なかった時代とは、あれば救えたものが“当たり前に”救えなかった時代

 予告もなしにツイッターの閲覧制限措置(一時的とは言うものの、はたして……)を強行したイーロン・マスクに対しては、ツイッター依存者が特に多そうな日本だけでなく、世界中から非難の声が寄せられているようだが、少なくともツイッター上においてはマスク自身も制限がかかっているという話もあり、どれだけ声が大きくなろうと1万件以上の訴えがマスク氏本人の目に届くことはないのだろう。もっとも、ああいったタイプの人間はそもそも批判的な意見などほぼ気にしないようにも思えるが。

 ツイッターのいわゆる「改悪」に関しては、イーロン・マスクツイッターに手を出す前から顕著になり始めてはいて、それゆえか、マスク氏がツイッターを買収するというニュースが流れた当初は期待を寄せる声も目にした。しかし、実際には改悪が加速し混乱も悪化したため、期待の声は徐々に見当たらなくなっていった。これもまた、ツイッターが閲覧制限される前から顕著になり始めていたことである。制限されているはずなのに、非難の声だけは沢山目にする。

 閲覧制限も厄介だが、副次的に嫌な気分になるのが、ツイッター依存度の低い人たちによる嘲りの声である。確かにツイッターだけが楽しみというのはどうかと思うし、他者への誹謗中傷のためだけにログインしているようなユーザーのアカウントが停止されるのは仕方ないだろうが、災害等の緊急時に公的機関からのものも含め、リアルタイムな情報を容易に得られるインフラ的な面すら想定せずに意見を口にするのは、あまりに短絡的だと感じる。そういった短絡的な声が、ほれ見ろと言わんばかりに、ツイッター関連のニュースへのコメントに現れるものだから、どうせならこちらも閲覧制限してほしいとすら思う。さすがに、そろそろ上記の点を踏まえた記事や言説も浸透したとは思うのだが、踏まえたうえで説得力のあるツイッター不要論を探すとなると、それこそ閲覧制限状態では容易でない。

 とりあえず、ただでさえ諸事情でストレスに弱くなっているため、しばらくはひっそりしていよう。幸か不幸か、ネット上でも実生活上でも、さほど私の消息など気にされていないのだから。