短くて恐ろしい不要な記載

 たぶん、結構な数の者がなんとなく不信感を持ちつつも、油断すれば自ら使ってしまいがちな言葉の代表例が「個人の意見(見解)」というものだろう。

 そもそも「個人ではない意見」とは何か。団体や企業全体としての発言、あるいは何かを代表した意見であることを明示していない限り、大抵の意見とは真っ当であろうと凡庸であろうと的外れであろうと個人の意見に違いない。そうでない場合は、単純に意見表明自体に失敗しているか、あるいは不適当な言い訳として後付けされたものだろうか。

 いずれにせよ、発信者が個人であることが明確な場合、わざわざ但し書きする必要のない言葉に思えるが、どんな不安に駆られて明記しておきたくなってしまうのだろう。もちろん、曲解しかできない者は少なくないし、ちょっとした誤解はどこでも起こり得るため、そういった事態への予防の効果は多少あるのだろうけれど、私自身が「個人の意見です」とついつい述べておきたくなる場合のことを思い返すと、やはり少しでも責任を軽くしておきたいからなのだと思う。予防的な言い訳である。

 しかし、問題のある発言と呼ばれるものの多くは、「個人の意見」だったとしても、やはり問題のある発言なわけで、発信者の地位によっては「個人の意見」とすることによって組織や団体を守ることはできても、発言そのものの罪が軽くなるわけではない。ならば、どうして明らかな個人発信の場であっても、この予防的言い訳を但し書きしたくなるのか。言い換えれば、罪が軽くなるわけではないのに、軽くなるように錯覚してしまうのはなぜなのか。

 仮に同じような立場の者が同じ失言をしてしまった時、「個人の意見」という但し書きの有無によって投げつけられる石の量に明確な差が生じるのだとすれば、それはもう愚かな共同幻想のようなものを私たちが抱いていることになるだろう。もちろん、これも「個人の意見」だけれど。