「終わりがない」という怖さ

 素数の謎を解明しようとする数学者の原動力は、いわゆる「怖いもの見たさ」である場合もあるのではないかと時折思う。数学に限らず、世界の理そのものを宗教ではない形で探っていくというのは、なにか途轍もない、人間が踏み込んではいけない領域に呑みこまれていくような、恐ろしくも抗い難い、蠱惑的なものなのではないか。もちろん、どうにも数字を認識するのが苦手で、算数でも数学でもあまり良い成績を収められなかった私だからこその幼稚な想像かもしれない。

 しかし、日本の義務教育程度の基礎教養だけで世界の理、つまり時間の始まりや終わり、宇宙の始まりや終わり、全てが始まる前の何かしら、そういった問題をある程度真剣に考え続けて発狂も卒倒もしない自信があるとすれば、それは単に真剣の度合が著しく低いだけであろうし、仮に何かの拍子に真理に近いなんらかへと小指の先程度が触れただけで、一般的な強度の精神では耐えられるとも思えない。そもそも、自分なりの心構えでもってホーキング博士などの書籍に何度も挑んではいるのだが、現在地よりは深い所へ潜っている感覚はあるものの、実感を伴った理解が出来る気配は訪れない。そして、もし気配が訪れたとしても、それはそれで怖くてたまらない。いや、理解し得そうにもないものの上で生きているということを再認識させられるだけで、とんでもない恐怖なのだ。

 どうせ理解できないのであれば、目を逸らし続けるか、あるいは最初から興味すら持たずにいるのが楽ではあるのだろうが、分かりもしないくせに、いやあるいは「分からないがゆえ」に、ふとした瞬間、その恐ろしい問いが一斉に襲いかかってきて、五感が受信過多に陥るような感覚になる。この時の焦りに似た気分は、どうにも形容し難いのだが、不意打ちで精神を削られるくらいなら、自ら気持ちを整えたうえで挑んでみようと考える者がいるのは納得できる。納得はできるが、少なくとも今の自分には実践できないのである。