馬に跨り鹿を討ち、馬から転げ角を刺す

 馬鹿を馬鹿にしても馬鹿にされたことくらいは余程の馬鹿でない限り理解でき、しかし馬鹿なので反省や訂正や謝罪などはできず、ひたすら態度を硬化させ馬鹿みたいに反発してくることが多いのは多少の馬鹿でも想像できるはずなのだが、馬鹿を馬鹿だと馬鹿にする者たちは馬鹿を改めさせようとする馬鹿ではない者たちのはずなのに、どういうわけか効果的な解決方法を模索している様子もなく、ただひたすら馬鹿を馬鹿だと馬鹿にして馬鹿の多い馬鹿な世の中を嘆くポーズばかりを馬鹿みたいに見せつけるばかりで、ひょっとして馬鹿なのではないかと感じることもあるのだが、馬鹿ではないはずの者たちまでもが馬鹿であっては、私自身馬鹿であろうと馬鹿でなかろうと馬鹿みたいに嘆くほかなくなるし、仮に本当に馬鹿でないはずの者たちまでもが馬鹿だとしても、それを指摘してみせたところで馬鹿だから馬鹿みたいに態度を硬化させ馬鹿みたいな言葉でこちらを馬鹿にしてくるだけであろうことは馬鹿であろうと馬鹿でなかろうと容易に想像することができ、馬鹿に馬鹿にされることほど腹立たしいことはなく、そうなってしまえば怒りに囚われたこちらも馬鹿に引きずり込まれ、馬鹿ではなかったとしても馬鹿に足を踏み入れ、馬鹿だったとすれば馬鹿を悪化させてしまうことになり、結局は馬鹿と呼ばれようと語り得ぬことには沈黙すべしを徹底するほかなくなるわけだが、もちろんそれで馬鹿が馬鹿でなくなることも馬鹿の馬鹿な言動をやり過ごすこともできるわけではないのだが、馬鹿みたいに何度も書いているように、下手に馬鹿にした態度で馬鹿を馬鹿だと嘆くポーズだけ見せても馬鹿にされていることくらい馬鹿でも理解し、馬鹿な反発で周りを馬鹿にしてくるはずなので、それは世界全体の馬鹿さを悪化させることにつながり、ならばどうすれば良いのかと考えても考えているポーズだけに映ってしまえば馬鹿が馬鹿にされたと馬鹿みたいに反発してくるとも考えられ、とりあえずなるべく馬鹿にした態度をとってしまわぬよう、この場で一生分の「馬鹿」という言葉を出しきるつもりで馬鹿みたいに何度も馬鹿と書いてみるという馬鹿みたいな荒技を実行してみたのだが、どうにも一生分はおろか一日分の「馬鹿」を出し切ったようにすら思えず、馬鹿を馬鹿にすれば馬鹿な反発をしてくることだけは想像できる程度の頭では一日分の「馬鹿」すら使い切れず、ああ馬鹿なことをしたものだと嘆いてみせようかと思ったが馬鹿にされそうなので思うに留めた。