ジョギングおじさんの健康を考える会

 久しぶりの積雪。虫と同じで雪がなくなると、やかましいエンジン音を轟かせる田舎特有のバカ車乗りが現れはじめ、すでに2月の下旬あたりから特に害の大きい者がこちらの静養などお構いなしに遠くからもよく聞こえる頭の悪い轟音を響かせたりしていたのだが、これで数日くらいはあの害虫どももおとなしくなるだろう。いっそ滑って大怪我でもして、一生車なんぞ運転できない身体になってしまえばいいとさえ思うのだが、都合よく連中だけが被害を被るようなアクシデントというのはなかなか起きず、大抵は無関係な人や建物まで破壊され、最悪の場合だと被害が大きいのは関係ない者ばかりで、当のバカ共は無傷なんてことにもなりかねず、いくら腹立たしい存在とはいえ、本気で事故を願ったりしてはいけない。一時の感情の爆発だけでおさめるべきである。

 そんな害虫車乗りでさえおとなしくなる積雪という自然現象のなか、家に居場所がないのか知らんが、大きな畑の多い土地ゆえに家と家の距離が遠く、近い順番に家を4軒ほど回るだけでも大変な走行距離になってしまうこの地域の住民のほぼ全員が目撃しているジョギングおじさんは今日も元気(そうにはあまり見えないのだが、それはいつものことである)に我が家の窓から見える景色の中にも紛れ込んできており、やはり馴染みのじっちゃんが言っているように「ゆるやかな自殺」なのではないかと不安にもなる。住民のほぼ全員が目撃しているにもかかわらず、誰一人としてジョギングおじさんの素性は知らない(どうやら隣町に住んでいるらしい、というくらいしか情報が届いてこない)うえ、あまり愛想の良い感じでもないため、誰も話しかけられずにいる。まあ、話しかけることが出来たとしても、ここら一帯の住民が内心感じている不安を伝える勇気などないだろう。

 目立ちたいのだったら、あの害虫たちも雪の中を薄着でジョギングすれば良い。ガソリン代もかからないし、他人を轢き殺す心配もない。心配すべきなのは自分の身体だけ。安く安全に目立つことのできる良い方法だと思うのだけれどね。

ニセ名言創作活動第1期まとめ

 「名言は好きです。でも、名言を言おうとする人は嫌いです」(タモリ

 

 1月中旬あたりからツイッターでひっそりと続けていたニセ名言創作活動。毎日考えるのは、なかなか大変でしたが、なんとか1クール約3か月はやり遂げたので、とりあえずここにまとめておきます(たまにリツイートしてくれたり、いいねを押してくれた方がいました。創作名言であることに気付いていてくれたかどうかはわかりませんが)。

 

 

 

     架空の海外の偉人・著名人による(ニセ)名言

 

「出来ないことは証明もできない。ゆえに出来ることにしたがる者の声はいつも大きい」

――セキヴンティヌス2世(B.C.190~B.C.113)

 

「過去を忘れることができればたしかに楽だろう。関わってきた全ての人々の許しを得ることができればの話だが」

――スウィフティン・バトー(1126年~1198年)

 

「苦労を強いるのが無能な働き者の病癖であり、彼らに必要なのは更なる苦労ではなく永遠の安らぎである」

――アントニー・アーリントン(1632年~1698年)

 

「“まっすぐな瞳”“澄んだ瞳”“自信に溢れた瞳”……おおむね無知の証拠です」

――アンナ・マッテゾン(1685年~1743年)

 

「死の覚悟がなければ眠ることなどできないはずなのに眠くなってしまうのは何故なのだろう」

――ジェンナーロ・スカルラッティ(1685年~1757年)

 

「常に明晰であることほど苦しいものはない。その苦しみから逃れるために意味のない苦労を呼び込んで我を忘れようとする者も多い。しかし、それは愚者の選択である」

――イシドール・アネゴサンデリ(1699年~1760年)

 

「馬鹿は好みに囚われる。賢者は好みを疑う。奇人は好みを振り回す」

――アンリ・デュルムケーム(1753年~1823年)

 

「正直者は約束などしない」

――王張庸(1766年~1834年

 

「大勢が一人を取り込もうとするのは一人に敗北するのが怖くてたまらないからである。ゆえにその一人の意見が正しいかどうかまで考えているのは、大勢の中のせいぜい二、三人でしかない。そして、その二、三人が新たな一人となる」

――マーカス・シルバーストン(1788年~1860年

 

「苦しみに意味を求めたがる者の言葉を真に受けてわざわざ苦しむ必要などない」

――テオドール・シャリクウォー(1795年~1821年)

 

「芸術家とは自分が哲学者であると信じたがる者のことだ」

――ジョン・ブルックス(1799年~1850年

 

「私はあなたが嫌いです。私はあなたのことが好きな人間も嫌いです。あなたは自分のことがお好きなようなので、私はあなたのことが倍嫌いです」

――クララ・モンテス(1819年~1896年)

 

「あらゆる宗教が様々に善悪の基準を設けるのは、人の力では基準など設けようがないからです。ゆえに、善だ悪だと簡単に口にする者は、すべての神を冒涜しているようなものなのです」

――クレマンス・オコラン(1835年~1921年

 

「もちろん、そう思うのは君だけではない。だからといって、それは正しさの証明じゃないことくらいは理解しておけ」

――サン=ザーンス(1840年1920年

 

「自覚的な努力はあなたが思っている以上に多くの他人を不幸にします」

――マイケル・ボーンハット(1866年~1925年)

 

「悪意や敵意に救われることもある。その場合、礼を言うのは失礼にあたる」

――アウグスト・マニングス(1878年~1942年)

 

「体験して理解できた者は学習の方法によっては体験せずとも理解し得た者である」

――ゲルト・フォン・ケクレ(1879年~1955年)

 

「危険なのは体験することで理解できたと思い込んでしまった者たちだ。彼らは体験しなければ理解できないと考えたがるようになる。そもそも理解できてさえいないのに」

――ゲルト・フォン・ケクレ(1879年~1955年)

 

「食器にも味覚があれば良い。そうであれば、私が料理する限り彼らが割れることはないだろう」

――ルイ=クロード・シヴィン(1887年~1956年)

 

「言い訳しないのは立派ですが言い訳が思いつかないのならただの無能です」

――ヴェラ・アルンシュタイン(1889年~1947年)

 

「他人の気持ちなど分からなくて当然だ。問題は、他人の気持ちを推察するのに充分な知識や経験を持っていないことだ」

――リンカヴィッチ・チョモスキー(1896年~1977年)

 

「悪が破滅を招くわけではない。破滅を招くのは無知である」

――ベルナルド・マクストーン(1898年~1989年)

 

「たしかに歩めば道が出来るでしょう。草木の居場所を奪うことになりますが」

――エイドリアン・ブラック(1899年~1970年)

 

「友人とは裏切らない者ではなく、時に裏切られたとしても憎めない者のことを言う」

――ガート・スウェルソン(1901年~1974年)

 

「賢い者でも間違いは犯す。だが、間違った言い訳をすることはない」

――ヘルベルト・ベッテルハイム(1903年~1990年)

 

「人間は楽をしたがる生き物だと肝に銘じておくべきだと思っていたが、それすらも楽をしたがった結果なのかもしれない」

――エドゥアルド・ベンザッティ(1907年~1981年)

 

「これだけ沢山の悲劇が歴史に刻まれていながら、いまだに逆境を味わわなければ幸福を感じられないと考えるのは、あまりにも愚かです」

――エルンスト・ヒルシュビーゲル(1915年~1997年)

 

「諦めずにいられるのは、おそらく生きている間だけだ。仮に死してなお諦めないことが可能だとしても、さすがに大半の者が諦めることに寛容になるだろう」

――モーガン・バランゾ(1915年~1980年)

 

「独り言にしては詩神の欠片も見受けられず、会話にしては伝える気のない言葉ばかりの相手には感銘を与える気にもなりません」

――マヤ・ハイレン(1916年~1971年)

 

「逆境で力を発揮しても、それはあなたが怠け者であることの証明でしかありません」

――キャロル・ギレンバーグ(1930年~1987年)

 

「無知や鈍感は強さに似た衣をまとって現れる」

――ノーマン・レナード・リトルトン(1935年~2003年)

 

「名言と呼ばれるもののなかには、すでに期限切れのものがたくさんある。もっとも、それらはそもそも名言ではなかっただけかもしれないが」

――マック・ラーケン(1940年~)

 

「両利きになった理由? 利き腕の傲慢な態度が許せなくなったからだよ」

――リチャード・ワッツ(1940年~)

 

「優れたアスリートとは筋肉に脳が宿っているかのような者のことであって、脳味噌が筋肉なのは二流どころか迷惑なだけだ」

――ロバート・ウォルター・アッシュ(1940年~1990年)

 

「私の映画を誠実な作品だと評した者がいたが、何が誠実なのかわかった気でいる者にそう評されたということは失敗作だったということだよ」

――ベルトウォーク・タベルユデ(1941年~)

 

「時代が私に追いついたのではなく、時代が私の位置まで下がったのだ」

――ワイズ・イエローバード(1941年~1989年)

 

「悪気がなかったということは、つまり頭が悪かったのですね」

――スーザン・ウィーバー(1942年~2008年)

 

「ネガティブな感情は捨てるべきだが、ネガティブな感情にさせる側の罪が消えるわけではない」

――ウィリアム・キートン(1943年~)

 

「お前の周りには良い奴しかいなかったんだろうな。お前が今日まで生きてこれたのがその証拠だ。今日までは、だけどな」

――ダグラス・ボルトン(1945年~1977年)

 

「“叶わない夢はない”なんて言葉が嘘だと全人類に思い知らせるのが俺の夢だ」

――マルコム・グリーンJr.(1946年~1989年)

 

「あなたの朝食のメニューを教えてちょうだい。あなたが臓物を晒すべき理由を20個見つけてあげる」

――メアリー・アン・ルーカス(1957年~)

 

「空を目指したクラゲがいました。彼らは今、UFOと呼ばれています」

――ユーコトス・ベテデ・マデス(?~1999年)

 

 

 

     架空の国内の偉人・著名人による(ニセ)名言

 

「感情のみによって導き出された答えで良い結果をもたらすには運を味方につける他ない」

――有澤菱明(1867年~1916年)

 

「そもそも頑張らなければいけない状態は不幸だ」

――柿木坂潤市(1913年~1973年)

 

「子供が我儘なのはその時のその気分がもう二度と訪れないことを知っているからだ」

――中岡惣三郎(1915年~1983年)

 

「“努力が足りない”以外の言葉を見つける努力をしていない者の言葉など聞く必要はない」

――汲沢瞬(1918年~1997年)

 

「人生は何にでも例えられます。だから、人生を何かに例えた言葉など気にする必要はありません」

――三代目浮世亭流楽(1922年~2007年)

 

「豆腐が包丁を受け入れるようでなければならない」

――水沢仁三郎(1923年~1997年)

 

「火のない所に煙は立たぬという言葉を好む者の半数以上は放火魔である」

――李沢友哉(1931年~2008年)

 

「共感するより驚嘆しなさい」

――神野盛尊(1943年~1971年)

 

「私が聴きたいのは音楽であって、あなたの恋愛遍歴ではありません」

――浜野昌士(1956年~2006年)

 

「言い訳の内容でだいたいの賢さが計れるはずです」

――波多野峰世(1957年~)

 

「教科書は少なくとも目の前の教師よりは役に立つ」

――新野陽一郎(1966年~)

 

 

 

     架空の創作物からの(ニセ)名言

 

「木の葉を武器に勝利を収めることも可能だ。しかし、それには木の葉だけで勝利を収めるための知恵が必要だ。結局、木の葉だけで勝つことなどできない」

――アミノサンデル・デマ『葉っぱ六銃士』より

 

「あなたが自慢げに紹介してくる“本物”とやらより、愉快な偽物のほうが私は好き」

――アリシア・バーンステイン『なまぬるい言葉とメロディで大人の音楽と評される方法』より

 

「作られた道は整備したくなるが自然に出来た道は放っておいても平気だ」

――ヴィットリオ・タヴィアルキ『しゃがんで感じるキンバリー卿の生涯と資産』より

 

玉座の上で焼くサニーサイドエッグも君たちの戦争で失われてしまったな」

――サー・グレアム・スコット著『バーバンカー』第3章「ピクルスを持ったまま溺れる兵隊への対処法」より

 

「私の罪は彼を亡き者にしたことではなく、彼を亡き者にすることが罪になる世界に生まれたことだ」

――ドメニコ・デル・オルガンティノ『もずく兵士』より

 

「次はもっと賢い人間に生まれたい、と彼は言った。それよりも賢い人間の多い世界に生まべきだ、と私は言った。」

――ブライアン・スターキー『ザルトボルトに紅茶を2杯』より

 

「そろそろ諦めないと次の試合ボロボロだよ」

――阿野下梅彦『スランプ脱出 第69話「ういっす」』より

 

「馬鹿にしてるのか?」 「やっと気づいたのか?」

――久米流充『ボケた振りしてメシを2度喰う』より

 

「あの日考えた他人の未来を僕達はやはり忘れている」

――山中ハジメ『詩集 ぼくはすぐひとをころしちゃうよ』より

 

 

 

     架空の楽曲の歌詞からの(ニセ)名言

 

「彼はなすがままに主義 悲しいくらいに自然が好き いつでも害虫がたかってる それがどうした? でも近づけないよ 彼はなすがままに主義 迷惑なくらいの無添加紳士 幸い流通しないから どうでもいいよ」

――シルヴァン・サルトブール「無添加紳士」より

 

「僕の家ではブランチにお寿司が出てくる 日本かぶれのママに感謝 健康志向のパパにも感謝 でも日本人はこんなの食べてないんじゃない? だってみんな休みなく働いているんでしょ?」

――スーパーヒラリー「ブランチ・イン・ジャポニカ」より

 

「大統領の椅子も俺が直した カーターのスーツも俺が仕立てた 脚は決して長くはない いつか全米の仕事を独占してやる」

――デッド・トルーマンズ「カリフォルニアの便利屋」より

 

「俺はちりちり髪の男になった夢を見た 類まれなちりちり具合だ 親父が泣いて言うことには いくら洗ってもハエが絡まりやすいからといって洗髪を放棄するんじゃないぞってね」

――フランク・O・ザッパ「お前の髪に絡まったハエ」より

 

「前時代的電波印 罵倒するしか能がない 古い邦画のバカ覚え かわしまゆーぞー、かとうたい アルゼンチンの赤いバカ」

――いまむらしょうへい(バンド名)「アルゼンチンの赤いバカ」より

 

「湿り狭い押入の臭み深い蒲団にくるまれズルズルと餅を啜り萎縮した父の脳曝け出さんことを…」

――スシネタ「爺ちゃんのアピャーが轟く」より

 

「テレポーテーションなんてどんと来いだ 瞬きの間に別の場所にいたってどんと来いだ いつだってそこが最悪だ どんと来いだ どんと来いだ」

――中山醜痴婦と新鮮なテレポーテーションズ「テレポーテーションなんてどんと来いだ」より

 

「マイハニーエンジェル、寝癖のついた翼が素敵だね 仰向けに寝れないからってフリードリンクなカクテルとギターをいじって撫でるの?」

――村岡マスユキ「天使にこっそり」より

 

「死にたくないから働きたい でも死ぬのがこわくて働けない」

――留年詩人K「散」より

 

 

 

 

 

 第1期はこれで終了。1、2クール休んで再び始めるかもしれない。

教科書は少なくとも目の前の教師よりは役に立つ

 中学や高校の卒業文集などに「キャラの濃いクラスでした」などと書きたがる者は私の通っていた学校でも多くいて、おおむね傍から見ればうすら寒くすら感じる内輪ノリといったもので、「それは卒業して広い社会に出た後でも言えることなのか?」なんて指摘さえも言い尽くされて手垢も溜まりきっている気がする。15年から18年ほどの期間を、ほぼ家庭と学校という狭い世界で生きてくれば、そんな思い込みも仕方ないのかもしれない。

 問題は生徒だけでなく教師にも同じようなことを書きたがる者が存在することで、ちょっとしたリップサービスみたいなものなのかもしれないが、本気でそう思い込んでしまうほど「先生」と呼ばれる人たちの世界が狭いのだとしたら、それはそれはおぞましい限りである。中学くらいの頃から気にはなっていて、検証してみたい願望もあったのだが、いかんせん自分の受け持ったクラスを「キャラが濃い」などと公言してしまうような教師とは談話したいとも思えず、「この程度の人間の集まりでキャラが濃いと思えてしまうのは、あなたの生きてきた世界が狭いからですか?」という質問を投げかけることのできた相手はいない(そんな質問をしていたら、私の人生に余計なトラブルが生じていた可能性もあるので、結果的には良いことだったのだろう)。

 私がこれまでに出会ってきた先生たちのなかには、すでに退職された方も多い。勝手な憶測だが、妙に大袈裟なことを言いたがっていた者ほど教え子のことはあまり覚えていないような気がする。先述の通り、私は大袈裟な話をしたがる教師とは距離を置いていたので、そういった教師たちが私のことを覚えている可能性も低いだろう。距離を置いていたせいでかえって記憶に残ってしまっていたら嫌だけれど。

黒猫の談合

 「黒猫が横切る」というのは不吉の象徴とされているが、いったいどれだけの人間が実際に体験しているのだろう。そういう言い伝えが生まれたからには、実際に経験した者がいるのだろうけれど、どれくらいの頻度で発生していることなのだろう。

 私は生れてこのかた、目の前を黒猫が横切った経験はない。横切るどころか、そもそも黒猫と出くわした記憶がない。やってくるのはクロネコヤマトの宅急便だけで、ひょっとしたら宅急便さえ「傍を横切った」なんてことはないかもしれない。もし、黒猫が横切るという事態が結構な頻度で発生するものなのだとすれば、私はたいへんな強運の持主なのかもしれない。その割に、ツイていると感じたことがほぼ皆無なのは何故なのだろう。

 だいたい、私は「黒猫が横切ると悪いことが起きる」なんて迷信を信じてすらいないのだから、そんな事態が起ろうが起こるまいが関係ないのである。そんなものを回避するためだけに貴重な運を消費しているのだとしたら、そのほうがよほど不幸である。いったいどれだけの幸運を犠牲にして黒猫を回避したというのか。黒猫を回避さえしなければ、1回くらい宝くじで大金が当たったかもしれないし、道端で高価な宝石を拾えたかもしれないし、タモリさんの家に呼んでもらえるような人間になっていたかもしれないし、『それでも町は廻っている』の紺先輩のような人とお知り合いくらいにはなれたかもしれないのだ。

 などという阿呆な話を、同じく黒猫との遭遇が未経験の知人に話すと、彼も同意し「俺だって黒猫を回避しなければ、ふらりと行ってみた競馬場で大金を手にしたかもしれないし、竹藪で札束の詰まったアタッシュケースを拾えたかもしれないし、所さんのベースに雇ってもらえたかもしれないし、映画館の隣の席に池田エライザが座っていたかもしれないじゃないか」と言い出した。勝手な妄言なのだが、好みの女性と「お知り合いくらいにはなれたかも」だの「映画館で隣の席になれたかも」だの、微妙に願望が小さいところに彼らの自己評価の低さが窺える。

 私は自分のことは棚にあげつつも「妄想の中でくらい付き合ってしまえば良いではないか、公言さえしなければ非難されることもないだろう」と提言してみたが、知人氏は「リアリティがなさすぎて駄目だ」と言う。そして、「せめて自分が向井理のような人間だったら良かった」と言った。たしかに私だって、もしも吉沢亮のような人間に生まれていれば、いかなる妄想でも充分なリアリティが生まれたはずである。そもそも、妄想の必要性もないかもしれないが、妄想の必要性のないほど手当り次第な男の思考回路というものは想像すらできそうにないのでどうしようもない。

 知人氏はやがて「そうだ、向井理のような人間となった自分を妄想すれば、お付き合いする妄想にもリアリティが生まれるかもしれない」と言い出したが、それはもう単に向井理池田エライザが恋人同士に扮する映画かドラマの妄想をしているに過ぎないと思った。思っただけではなく、そう指摘した。指摘しなくても良かったのかもしれないが、指摘せずにいられなかった。知人氏も「たしかに、向井理のようになった自分なんて、それはもう向井理でしかなく、とても自分とは思えない」と言った。当たり前の話である。妄想や妄言の自由くらいは認められているのだろうが、その妄想や妄言にどっぷり浸って楽しめるほどのリアリティを感じられるかどうかは別の話である。そこまでのリアリティを生じさせることが不可能な人間に育ってしまったのも、きっと我々が不必要に黒猫を回避し続けているからだろう。

黒ネコのタンゴ

黒ネコのタンゴ

タイムマシーンで風邪に気付いた3日後にいこう

 耳の奥が痒くなり、3本ほどの綿棒を消費するも、あまり気持ちよく解消されない。もっと若く経験不足だった頃であれば、執拗に耳の中をほじくりまわし、じくじくしたり出血したりということもあったが、30年以上この身体で生きてきたので、おそらくこれは熱が出る前兆、つまり風邪のひきはじめなのだろうと判断することができる。考えうるだけの風邪に効果的なあれこれを余力の限りを尽くして投じた甲斐あってか、今のところ深刻な病状には至っておらず、ちょっと熱があって身体がしんどい程度で済んでいる。しかし、これが本当に余力の限りを尽くした甲斐あってのことなのか、はたまた何もせんでも重症化しない程度の弱い風邪だったのか、専門的な知識が豊富なわけでもなければ設備を持っているわけでもない私には判断できない。余力を残したまま休んでいたほうが良かった可能性もある。タイムトラベルを可能にする技術が開発されたとしても、厳しい規制が敷かれるのだろうが、風邪のひきはじめを察知するごとに、どの程度の対策が最も効果的なのか探るのは国民の権利として保証しておいてほしい。

 風邪といえば、小学生の頃の私はプールに入りたくないがゆえに、何度も水泳の授業を仮病によって回避している。そうまでしてプールを避けていた理由は、学校でただ一人カナヅチだったから(全校児童が30名程度だったせいか、カナヅチ仲間と出会えなかった)というのもあるが、なによりプールの衛生状態が信用できなかった。頭に血ののぼりきった阪神ファンでさえ、一時の道頓堀に飛び込めば何人かは重大な健康被害を被ったらしいが、小学校の雑に管理されたプールの衛生状態なんぞは道頓堀とさほど変わるまい。「どうしても私を泳げるようにしたいのならば清潔なプールを用意しろ」と訴えたことまであるくらいだ(一笑に付されたので末代まで怨むつもりである)。今よりも貧弱だった小学生の頃の私が、回避できなかったプールの授業によって何らかの健康被害を被っていなかったのは奇跡的なことであり、もしもあれ以上プールに放り込まれていれば、きっと『蔵六の奇病』みたいなことになっていたであろう。そんな自分の姿を見るのは恐ろし過ぎるので、仮にパラレルワールドが覗ける技術が開発されたとしても確認しようなどとは思わない。ゆえに証明することもできないが、私を蔵六のような姿にさせかけた当時の教師どもは、ただちに賠償金を支払うべきなのである。

蔵六の奇病

蔵六の奇病

 

あの娘が結婚捨ててしまう

 小学校時代、私の学年には私を含めて6名の児童しかいなかった。転校してしまったり不幸があったりということもなかったが、新たな仲間が増えるということもなかったので、1年生から6年生までの間、ずっとこの6名だけだった(強いて言えば、私が一番新しい仲間だった。超病弱だったがゆえに幼稚園に入園するのが他の5人より遅れたからである)。

 最近になって、どうやらこの6名のうち、いまだに結婚をしていないのは私だけであるらしいことが判明した。当然、全員が30代に突入しているわけだから、なにも不思議なことではないのだけれども、ちょっと転んだだけでぎゃあぎゃあ泣いていた頃の事まで知っている身としては、どうにもすんなりと納得できないでいる。転ばなくともぎゃあぎゃあ泣いているだけだった赤子時代から見守ってきた親であれば尚のことかもしれないが、親の目に触れぬ場所での褒められたものではない言動に関しては私のほうが知っている可能性もあるわけで、その件も踏まえると、特にあいつとかあいつまでもが家庭を持っているらしいことには恐怖すら感じる。

  さて、ちょっとした手助けを募ったところで駆けつけてくれる知人の存在すら危ぶまれている美月雨竜氏にとっては結婚など縁のない話であるが、映画学校を除いた中学以降に知り合った同級生のうち、現在も辛うじて交流の続いている数少ない友人たちは、男女問わず全員が同様に結婚とは縁が遠そうな連中ばかりで、内1名に至っては「池田エライザから求婚されない限り結婚などしない!」などと言い出す始末。彼が池田エライザさんから求婚される確率というのは、宝くじを3回連続で大当たりさせた人の頭部に雷と隕石とカラスの糞が同時に直撃し、しかも生還する確率と同じなので、これはつまり前半部分にはほぼ意味がなく、ただ単に「結婚などしない!」と言っているにすぎない。しかし、類は友を呼び朱に交われば赤くなる、最近では私を含めた他の者までもが似たような思考に囚われはじめている。まあ、こんな連中が家庭を持ったところでろくなことにはならないと思うので、かえって世の中のためになっているのかもしれない。

あの娘が結婚してしまう

あの娘が結婚してしまう

 
あの娘が結婚してしまう パート2

あの娘が結婚してしまう パート2

 

『爆笑問題の学校VOW』はタレント本のコーナーにあった

 普段なら買わないジャンルの本や映像/音楽ソフトを安く売られている順から手当り次第に仕入れるため、定期的に地元の某中古チェーン店に足を運んでいる。大都市であれば、あてもなく歩くだけでチェーン店に限らず、結構な頻度で古書店・中古ソフト店の類を見つけることができるのだろうが、私の住む土地では自動車を駆使しても、気軽に足を運べる範囲には三軒ほどしかなく、あとはTSUTAYAやゲオのレンタル落ち商品を漁るほかない(そのTSUTAYAやゲオだって合わせて四軒ほど)。東京の湿気に嫌気がさして地元・北海道に帰ってきたわけだが、こういった点ではやはりハンデが大きい。

 ただ、田舎には田舎ならではの品揃えというものもあって、農業系の雑誌が豊富に並んでいたりするのは面白い。また、みうらじゅん先生の『正しい保健体育』が「教育」のコーナーに並んでいたり、『サウスパーク 無修正版』のDVDがディズニーやジブリ作品と一緒に「ファミリー」コーナーに置かれている、なんてことも都会の店舗より確率が高いように感じる。先日も、4~5歳くらいの女の子が母親らしき女性とDVDのファミリーコーナーの前で商品を選んでいるのが見えたので、勘違いして『サウスパーク 無修正版』を購入してしまうことを秘かに期待していた(さすがに薦めたりはしない。何の罪になるかは分からないが、たぶん罪に問われると思う)。

 さて、興味の薄いジャンルのものを値段の安さだけを基準に集めていれば、当然ハズレのものも多く、数年前に購入したどこぞの小学校校長の「朝のお話」をまとめた本などは、あまりにつまらなくてかえって読了するのに時間がかかってしまった。元の所有者も、せめて売り払って金にしてしまいたくなったのだろうが、私が購入した際の金額を考えれば、タンスの角の高さ調整とかに使ってしまったほうが良かったのではなかろうか。これ以上、犠牲者を増やすのはしのびないので、今もこの本は資料部屋の奥底に眠っている。

 上記の校長本を筆頭に、いくつかのハズレ商品のために結構な時間を無駄にしてしまったように思うが、これもまた修行である。なんのための修行なのかは自分でもわからないが。

爆笑問題の学校VOW (宝島社文庫)

爆笑問題の学校VOW (宝島社文庫)

 
正しい保健体育 (よりみちパン!セ)

正しい保健体育 (よりみちパン!セ)

 
サウスパーク 無修正映画版 [DVD]

サウスパーク 無修正映画版 [DVD]