『空にかたつむりを見たかい?』 第6回

「塔子さんは、一度も見たことないんですか?」

「なにを?」

「ここの盛り上がってた時期の運動会です」

「あたしは知悦部小の子たちが進む中学校の出身ってだけで、知悦部小の子じゃないからね。そもそも小学校までは、札幌にいたし」

「中学になってから、知悦部の同級生とかと一緒に見に来たりってことも?」

「ないない。行った奴もいたらしいけどね。洋ちゃんは確か一回見たらしいけど、あたしはない。運動会って好きじゃないし、YOSAKOIソーランにいたっては嫌いだし」

 そうなのだ。知悦部小学校における嫌な伝統の一つが、YOSAKOIソーランだ。ブームになり始めのころに、ある先生がこの知悦部小学校でも児童にやらせはじめ、いまだにしぶとく続いている。当然、僕もやらされた。運動会だけでなく、学習発表会や、時には町内外の祭りや老人ホームへの慰問といった形で披露させられている。児童の側から「やりたい」と申し出たことは、僕の知る限り一度もない。

 もしも、YOSAKOIソーランのおかげで、児童に利益がもたらされているとすれば、たぶん組体操をやらされずに済んでいるということくらいだろう。最近は、組体操の危険性に対する批判の声が目立ちはじめているようで、僕もそれには大いに同意する。だが、YOSAKOIソーランでも、演技の最後の決めポーズとして、組体操とあまり変わらない形をとらされることが多々あるので、組体操よりも危険な時間が短いというだけでしかない。踊り疲れた流れで、そんなポーズをとらなければならないということを考えると、ひょっとしたら組体操よりも危険かもしれない。怪しげな女性と学校職員が同棲していることを批判するよりも、YOSAKOIソーランの危険性を指摘してほしい。そもそも、好きでYOSAKOIソーランをやっている人たちが、そんな危険なポーズを決めているのはあまり見たことがない。

「YOSAKOIのシーンは意図的に抜いておいたら?」

「一回くらいは使っておかないと、なんだかんだ言う人が出てきそうです」

 『謎の湖底人シタカルト~』を気に入ってくれた楠本校長なら何も言わないかもしれないけれど、飯塚教頭やPTA副会長の堀田さんあたりは怪しい。

 気が進まないが、YOSAKOIソーランの写真を一枚抜き取ると、ちょうど土佐先生が帰ってきた。右手の紙袋には、なにやらビデオテープが数本入っている。

「おかえり、洋ちゃん」

 塔子さんにそう言われた土佐先生は、少し照れくさそうにニヤッとして、紙袋からビデオテープを取り出し、机の上に並べた。

 土佐先生の名前は洋太といい、塔子さんからは「洋ちゃん」と呼ばれている。どうやら、中学の頃からそう呼ばれているらしい。

「笠井さんが、昔の行事のビデオ貸してくれたよ。九十年代頃かな」

「じゃあ、小学生だった頃のあゆむんのお母さんとかダイちゃんのお母さんも映ってるんじゃない?」

「たぶん、映ってますね」

 母さんは、あまり昔の写真を残していないので、ちょっと興味が湧いてきた。ちなみに、僕の母さんとダイチの母さんは同級生で、二人とも知悦部小学校の卒業生だ。中学校は土佐先生や塔子さんとも同じなので、二人からすれば、数年上の先輩にあたる。

 土佐先生が借りてきたビデオのラベルを三人で調べて整理してみると、一九九一年から一九九八年までの運動会や学習発表会の様子を録画したものであることがわかった。中には、スケート記録会やキャンプの様子を収めたものもあるようだ。

「これなら、かっちゃんたちの小学校六年間がばっちり見れるね」

 塔子さんが、ちょっと意地悪な笑顔を見せながら言った。かっちゃんというのは、ダイチの叔父さんである勝也さんのことで、今はダイチの家の農場主である。そして、塔子さんの口ぶりから分かるように、勝也さんも土佐先生たちの同級生だ。

「で、あゆむんたち、本当は何を企んでるのかな? お姉さんたちに白状してごらん」

 今度は僕に向かって意地悪な笑顔を見せながら、塔子さんが訊いてきた。顔をぐぐっと近づけてくるので、また緊張してしまう。

「……いや、大したことじゃないですし、結構恥ずかしいことでもあるので、まだ秘密ということでお願いします」

 ダイチとマリサが企んでいることはそうでもないけれど、僕が企んでいることは、とてもバカげた話で、それこそ飯塚教頭だとか堀田副会長なんかの耳に入ろうものなら、白い目で見られかねない。土佐先生や塔子さんが、この話を聞いて僕を軽蔑するとは思えないけれど、塔子さんから邪気なく大笑いされる可能性はありそうな気がする。そうなると少々へこんでしまいそうなので、まだ黙っておくことにした。

 ちなみに「あゆむん」というのは、僕のことだ。フルネームは高山歩。かなり恥ずかしいし、こちらから言わずとも、みんな察しているだろうから黙っていようと思ったけれど、そういうわけにもいかないような気がするので、この件に関しては、ここで白状しておく。

『空にかたつむりを見たかい?』 第5回

「手が止まってるよ、あゆむん。そんなに運動会の写真つまらない?」

 塔子さんが、ペットボトルのお茶を僕の頬に押し付けながら言った。考えごとをはじめると、手が止まるのは僕の癖だ。「僕の癖」と呼べるほど珍しい癖ではないけれど。

「向こうで知り合った連中にひとり、写真で食べてる奴がいるけど、あいつに任せれば、あゆむんの手が止まることもなかったかな。まあ、北海道までわざわざ呼ぶのもねえ。向こうの連中の中では、珍しくいい奴なんだけどね。ちょっと太っちょだけど」

 塔子さんは僕の隣に腰掛け、写真を覗きこみながら言った。距離が近くて、少し緊張する。

 今日は、六月に行われた運動会の写真の中から、式典用映像に使えそうなものを選ぶため、土佐先生の家に来ている。ダイチとマリサは、他に用事があるので来ていない。

 土佐先生の家は、小学校の傍に数軒建てられている教員住宅のうちの一軒だ。一階建ての狭い中に、これでもかと本やCDやDVD、ビデオテープなどが並んでいる。母さんも本や映画や音楽が好きで、僕の家にも結構な量のコレクションがあるのだけれど、土佐先生のものとは比較にならない。小学校の頃から、しょっちゅうこの土佐先生のコレクションを借りているけれど、ようやく三分の一ほどに達したところだ。閉校すれば、土佐先生はここから出て行くことになるのだろうから、どうやら土佐洋太コレクション完全制覇の夢は達成できそうにない。

 かつては、ほとんどの先生たちが、知悦部小学校在任中は、この教員住宅に住んでいた。けれど、年々教員住宅を利用する先生は減り、現在は楠本校長と飯塚教頭と土佐先生だけで、他の先生たちは自宅から車で通って来ている。

「土佐先生はどこ行ったんですか?」

 僕は塔子さんから頬に押し付けられたお茶を受け取り、コップに中身を注ぎながら訊いた。

「ん? 学校で古い写真とか漁ってるんじゃない?」

 土佐先生の家に来ているのに、どうして僕が塔子さんと話しているのかというと、塔子さんと土佐先生が同棲しているからである。

 夫婦でも恋人でもないらしいけれど、塔子さんは、六年前に土佐先生が知悦部小学校に赴任してきた時から、ずっと一緒に住んでいる。

 二人は僕たちと同じ中学校出身の同級生同士で、もう十五年以上の付き合いになる。いわく、腐れ縁というやつだとか。

 ちなみに土佐先生は、「先生」と呼んではいるけれど、正確には事務職員だ。だから、保護者からの電話対応や教員に電気やコピーの節約を訴えるなんてこともしている。仕事中の土佐先生は、塔子さんに言わせれば「死人のようで機械のような仕事ぶり」で、それがかえって妙な迫力を伴うのか、保護者も教員も、土佐先生に対しては、あまり強い態度に出れないようだ。

 さて、塔子さんが何者かというと、はっきり言って僕にもよくわからない。わかっているのは、先述の通り土佐先生の同級生であり同棲相手であること、大学時代は神奈川に住んでいたこと、そして、美人だけれどかなり変わり者であるということだけだ。

 中学二年の男子が、美人のお姉さんと親しくしているというのは、他の男どもから羨ましがられそうなものだけれど、あまりそうはなっていない。どうも塔子さんは、憧れよりも「畏怖」の対象となっているようだ。その状況について、塔子さん本人は「ラベンダーは害虫を寄せ付けないの」と言っている。

 職業は、どうやらフリーライターらしいのだけれど、他にも色々やっているらしく、本人に言わせれば「どれも、広い意味でサービス業」らしい。「らしい」ばかりで、どうにも実体が掴めない。

 当然、事務職員とは言え、小学校の関係者が、そんな悪く言えば怪しげな女性と同棲していることに対して批判的な人もいたけれど、特に明確な問題があるわけでもなく、本人たちもそんな批判などまったく気にしていない。それに、先述の秀行さんだけでなく、他にも土佐先生や塔子さんを古くから知る人が知悦部地区にはいたので、結局批判的な人たちも黙認するようになった。塔子さんが批判的な人たちの弱みを握ったりして黙らせたという噂もあるけれど、真偽のほどは定かでない。

「昔はもっと派手だったんだってね、ここの運動会」

「そうみたいですね」

「うるさかったんだろうね」

「コンバインの方がうるさいです」

「あゆむん、ここの生まれなのに、まだ慣れてないんだね」

 知悦部小学校の運動会は、正確には「知悦部地区大運動会」という。最盛期は、地域の人々のほとんどが仕事を休んで集まり、夜店も並び、お祭りそのものだったらしい。

 近年も、集落対抗競技や小学校の隣にある知悦部僻地保育所の競技などが同時に行われ、夜になってもグラウンドで慰労会が開かれ、焼肉を囲みながら、地元バンドの演奏などで盛り上がっていた。

 全体的に、子供よりも大人が盛り上がっていて、地区の人口の減少がより目立ちはじめた八十年代から九十年代にかけても、親世代や老人会に活気というか無鉄砲な人が多かったらしく、集落対抗競技には、トラクター用の巨大なタイヤを用いたタイヤ転がしや、農業用の収穫コンテナを身長よりもはるかに高く積み上げ、それを手押し車に乗せて全速力で走る競走、さらには軽トラックを手で押して走るといった危険な競技が増え、当然のように怪我人も出た。だが、基本的に危険な競技を行うのは大人たちで、大きな怪我をするのも大人ばかりだった。そのため、特に大きな問題にはならなかったらしい。土佐先生が掘り出してきた写真からも、その異様な熱気は伝わってきた。

 僕やダイチの小学校時代では、さすがにそこまでの熱気はなかった。最後の開催となった今年の運動会の写真を見ても、あまり興味を引かれないのは、そういった過去の盛り上がりを知ってしまったせいかもしれない。

『空にかたつむりを見たかい?』 第4回

 かたつむりは、わずかな土地を這いまわるだけで一生を終える。土佐先生から借りた吉村昭の『羆嵐』に書いてあったことだ。この地に永住することを妙に誇りに思っている人たちは、この本を読んだわけでもないのに、似たような考えを持っているらしい。いや、かたつむりの生態的には、たしかに正しいのかもしれないが、僕はそんな考えには反対したい。

 知悦部地区には、かたつむりが多い。元々、湿地帯であったことが影響しているのかもしれないけれど、詳しい理由は分からない。

 多いといっても、道路を走る車が、かたつむりに滑って事故を起こしてしまうような大量発生状態ではない。知悦部地区で自動車事故が起こるとすれば、原因は酒好きのおっちゃんたちの酔っぱらい運転か、もしくは車好きな青年部の連中のスピードの出し過ぎだろう。

 実際、十年ほど前に嶋田さんちの秀行さんが、成人祝いに親から車を買ってもらったその日の夜中、調子に乗ってぶっ飛ばした挙げ句、畑に突っ込んで六回転の大クラッシュを起こし、車は大破。当然、大怪我を負い、今でもその後遺症で右足をひきずっている。

「買ってもらってすぐに事故って、他に誰も巻き込まなかったんだから、あいつにしては珍しく褒めてやってもいい。そのまま乗り続けてたら、騒音垂れ流したり、誰か巻き添えにしたり、えらいことになってたんじゃないの」

 秀行さんの事故に対する塔子さんのコメントは辛辣だった。中学時代の同級生だったらしいけれど、この発言から、塔子さんが秀行さんをどんな風に思っているのか、だいたい察しがつく。だが、そんな秀行さんの悲劇を知ってなお、何人かの車好きが、不愉快なエンジン音をたまに撒き散らしている。

 かたつむりの話だった。とにかく、衝撃映像などで紹介される生き物の大量発生ほどではないけれど、この知悦部地区では、頻繁にかたつむりを目にする。大きいもので、だいたい二、三センチほど。まれに、もっと巨大なやつもいて、遭遇すると、さすがにどきっとする。小さいものなら、雨が降ると窓に一匹くらいは張り付いているのが普通で、目にしない時の方が珍しい。

 ただし、観光名所になるほどの多さではない。もっとも、かたつむりがもっとたくさん、それこそ交通事故を引き起こしてしまうほどにうじゃうじゃと生息していたからといって、観光名所にはならない気もする。むしろ、敬遠されるだろう。

 いずれにしても、他の場所よりは目につくというだけで、都会の人からすれば、雨の日にちょっと目立つだけのかたつむりよりも、牧場で草を食む牛や馬の方が魅力的に映るだろう。ただし、この地区の酪農家の戸数は、畑作農家以上に減少傾向にあり、もう少し車を走らせれば、実際に観光名所にもなっている大きな牧場もあり、わざわざここへ牛や馬を見に来る人はいない。

 けれど、長年この知悦部に住む人は、そんなかたつむりたちに愛着を持っている。作物によっては害虫でもあるのだけれど、見た目のせいか、なめくじほど嫌われにくいかたつむりは、一種の地区のシンボルにもなっている。「わずかな土地を這いまわるだけで一生を終える」という話も、この土地からほぼ離れることなく生きる人からすれば、運命共同体のようなシンパシーを感じるのかもしれない。

 そういえば、ベルリンの壁とウサギにまつわるドキュメンタリーをちょっと前に見た。二つの壁の間の敷地に取り残されたものの、外敵からも隔絶されたため、大繁殖したウサギたち。壁を作った人間たちは、それを面白がり、あるいは誇りに思った。しかし、一部のウサギたちが穴を掘り、その楽園から脱走していることが知られると、途端にウサギは粛清の対象となった。そんな寓話のような現実。もし、かたつむりが「わずかな土地を這いまわるだけで一生を終える」わけではないと言われたら、あの人たちは、どんな反応をするのだろう。

『空にかたつむりを見たかい?』 第3回

 そんな『謎の湖底人シタカルト~』を、土佐先生や塔子さんが面白がってくれたのは、まだ理解の範囲内だったのだけれど、僕たちが卒業した後に知悦部小学校に赴任してきた楠本校長までもが気に入ってくれたのは、かなり意外だった。土佐先生と塔子さんからの評価だけでは、僕たちに閉校記念式典の映像制作の依頼がくることはなかっただろう。

 今回の閉校記念式典用映像のオープニングも、土佐先生からDVDを借りて観た『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』のパロディで始まる。監督のデヴィッド・バーン自身が扮する謎の案内人が、テキサス州の架空の町ヴァージルを紹介していくという風変わりな映画で、この映画が制作された一九八六年当時の「変わりゆくアメリカ」を描いたものでもあるらしい。テキサスの歴史書学術書、そして、タブロイド新聞や雑誌から集めた珍妙な話などを基にして構築されたヴァージルの町には、ベッドから出ず、ひたすらテレビを見て過ごす金持ちの女、プレスリーの曲を書き、ランボーケネディと寝たと吹聴するほら吹き女、三年間も子供を通してしか口をきいていない町の実力者夫婦といった奇妙な人々が、郊外の美しい自然の景色と人工的で非現実的な街の景色の中で暮らしていた。デヴィッド・バーンは映画監督ではなくミュージシャンで、、土佐先生の好きなバンド、トーキング・ヘッズのリーダーだ。純粋な映画監督の作品では味わえない不思議な魅力に溢れていて、今では僕のお気に入り映画の筆頭でもある。閉校記念式典の映像制作を決めた時、すぐにこの映画を下敷きにしたいと思った。

 制作体制は、カメラはいつも通りダイチが担当し、僕は構成、そして案内役として出演もすることになった。マリサは、その他諸々の仕事を一任していることになっているけれど、それはあくまで名目上のことであって、それほど本格的な映像ではないので、実際はカメラ一台あれば事足りている。

 僕やダイチと違って、知悦部小学校の卒業生というわけでもないマリサがそれでも参加しているのは、もちろん同級生で唯一の放送委員仲間だということもあるけれど、マリサにはマリサの目的があってのことだった。その目的については後で説明する。

 ここで、改めて閉校記念式典用映像の全体の構成を説明しておこう。まず、先述の通り『トゥルー・ストーリー』を模して、知悦部地区のもっとも象徴的な出入口と言える中磯瀬の町から続く道の画をバックに、この地域と知悦部小学校の歴史を簡単に説明していく。ナレーションは、案内役である僕が務める。説明に沿って、過去の写真や映像をインサートしていき、現在の校舎の画からは、案内役として僕が実際にカメラの前で校舎を背に語る。ちょっと恥ずかしいけれど、こうしないとあの映画のパロディとしては物足りない。

 カメラを前にして、べらべらしゃべっている僕の姿を見て、マリサがなにやらニヤニヤしているのが気になるが、問い詰めたり文句を言ったりできる相手ではないので、我慢するしかない。

 あとは、小学校の関係者や地域の人たちへのインタビューと、これまでの学校行事や地域にまつわるイベントなどの写真や映像を挟み込んでいく。式典では三○分程の長さの映像として公開し、その後、完全版のDVDを式典の様子も含めて記録される予定の記念誌と共に各家庭へ配る予定だ。

 当初、僕とダイチは、この映像制作にそれほど乗り気ではなかった。映像制作自体は好きでやっていることだけれど、閉校記念式典用の映像となると、正直に言って気が重い。現在のPTAの中には、あまり関わりたくない人も何人かいるし、悪いけれど楠本校長からの依頼というだけなら、きっぱり断っていた。土佐先生から「やってみたらどうか」と言われてからも、しばらくは悩んでいた。だけど、マリサが「内申点稼ぎにいいかもしれない」と言いだし、半ば強引に引き受けた。そして、マリサがこの依頼を受けようと思ったのには、すでに触れたように別の理由があり、その理由を聞いた僕とダイチも、今回の映像制作に便乗して、それぞれある計画を企んだ。それは、この地域に関する、ある謎を追うことだった。

『空にかたつむりを見たかい?』 第2回

 知悦部小学校の閉校記念式典で流す映像の制作を頼まれたのは、中学二年になってすぐのことだった。

 小学生の頃から現在まで、ずっと放送委員であること。そして、僕の代が知悦部小学校の最後の卒業生(僕たちが入学した後の二年間は新入生が入学しなかったため、現在の知悦部小学校に六年生はいない)であることが直接の理由だが、中学一年の夏休みに友人たちと作った、ちょっとした映像作品のことも関係している。「作品」なんて呼ぶのは、おこがましい気もするけれど、他に言いようがない。

 その映像作品は、夏休みの自由作品として制作した。この辺りの学校は、児童に農家の子供が多かったせいか、小学校も中学校も夏休みの宿題はあまり多くない。農家の子供は、家の手伝いをすることが多かったからだと思う。機械に頼ることの多い現在は、手伝いに駆り出される子供もそうそういないので、時代に沿っているとは言えないのかもしれないが、そのままで一向に構わない。

 中学一年の時の宿題は、担任の北条先生が作った数学の問題集と自由作品だけだった。自由作品は、その名の通り工作でも自由研究でも何でもいいので、夏休み中に何か一つ「作品」を制作すればいい。

 隣町の大きな湖には、地底人ならぬ湖底人が住んでいるという噂というか伝説というか、とにかくそんな話があるのだけれど、その話を『川口浩探検隊』風に描いたフェイク・ドキュメンタリーというのが、僕たちの作品の内容だ。

 タイトルもそれらしく『謎の湖底人シタカルトは実在した! 志太狩(しかたり)湖に白い水棲人を追え!』とした。本当は『湖の底の音楽家』というタイトルのドラマだったのだけれど、ドラマとしての演技をするのが恥ずかしくてやめにした。スタッフや出演者は、幼馴染のダイチと中学での放送委員仲間であるマリサ以外は、自分で作品を作りたくなかったものぐさな連中で、もし演技することが恥ずかしくなかったとしても、見ている側が恥ずかしくてたまらなくなるような演技しかできなかったことだろう。ゆえに、元々やらせ感満載な点が見どころでもあった『川口浩探検隊』のパロディというのは、賢い選択だったと思う。

 この場合、演技はクサい方が効果的だった。もっとも、ダイチとマリサ以外は、当然のようにこの往年のテレビ番組を知らなかったので、撮影前にDVDの鑑賞会を行った。僕だって、小学生の時に土佐先生から教えてもらっていなければ、ずっと知らないままだっただろう。

 この『謎の湖底人シタカルト~』は、一部の物好きな教師と生徒たちからの評価は受けたものの、基本的には陰で嘲笑されただけだった。お叱りを受けなかっただけ幸いだと思う。だが、なんとなく某動画サイトに投稿してみたところ、思いのほか評判となり、画面に沢山の草が生えた。僕は草、つまりネットにおける「www」というやつが、「(笑)」同様あまり好きではなかったのだけれど、自分が作った映像の狙った笑いどころに草が生えてくるのは、たしかにいい気分だった。狙っていないところでも草は生えていたが、それはそれで興味深かった。ちなみに当初は、本家『川口浩探検隊』に登場した猿人バーゴンがフランク・ザッパに似ていたことにちなんで、エンドクレジットにザッパの『バカヤロばかり』を流していたのだけれど、投稿にあたって何かと面倒なことになると嫌だったので削除しておいた。残念と言えば残念だ。

『空にかたつむりを見たかい?』 第1回

「らんちゃん、そんなバカな話、誰が真面目に聞いてくれるの?」

「事実だってことにしちゃえば、案外信じる奴が出てくるんだよ」

「それって、いいことなの?」

「いいことかどうかは、時と場合によるね」

 

 ○○○   ○○○   ○○○

 

知悦部(しりえっぷ)小学校閉校記念

 ――映画『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』を模して知悦部小学校と地域の人々を描く

 

 知悦部地区はここからです。北海道の中でも町に住む人からすれば、この辺りはとても自然豊かに見えるかもしれません。しかし、畑が広がっているだけでは、自然豊かとは言えません。

 ここも随分変わりました。未開の地だった頃のことまでは知らずとも、荒野と呼んで差し支えない風景を覚えている人が、まだ何人もいます。もっとも、これから先も変わっていくかどうかは怪しいところです。

 大昔、この辺りは海でした。貝の化石が出土することもあります。そして恐竜時代。以前、大型のティラノサウルスの歯の化石が、国内で初めて長崎市で発見されたと新聞に載っていたのを読みました。子供の頃、恐竜に夢中になった人もいるのでは? 僕は現在進行形で大好きです。恐竜よりも、むしろもっと古いカンブリアの海に夢中です。アノマロカリスピカイアは、はたして本当にアニメやドキュメンタリーで見るような姿形をしていたのでしょうか。考えるだけでわくわくします。残念ながら知悦部地区ではありませんが、近隣の市町村ではデスモスチルスの化石が発見されています。第三紀後期ごろの哺乳類です。ナウマン象の化石が見つかった町もあります。いずれ、知悦部でも見つかるかも。

 知悦部という地名は「アシリウェンペ」からきています。アイヌの人々が、この土地をそう呼んでいたのです。アイヌの言葉で、アシリとは「新しい」という意味。ウェンペは「愚かな者」「悪い者」「怠け者」。つまり、「新しい愚かな者」「新しい悪い者」「新しい怠け者」……。そんな名前で呼ばれていた理由は、アイヌのとある伝説で語られていますが――あまり良い伝説ではないので省略しましょう。

 今では、「知るを悦ぶ部」と書いて「知悦部」。かつて、「知」の部分は「尻」でした。「臀部」の「尻」です。古代アイヌの人々は、川を人間と同じ生き物、それも女性と考えていました。ゆえに川は人の体と同じ部位を持っていたといいます。「知る」ではなく「尻」という文字が使われていた理由は、ただの当て字だと言われていますが、ひょっとしたら、そんなアイヌの人々の考えが少なからず影響していたのかもしれません。

 知悦部地区は、一九○一年、明治で言えば三四年、国有地の貸付け申請がなされ、本格的な入植と開拓が始まりました。しばらくは、食料も満足にとれず、丸太と雑草で作った掘立て小屋での過酷な生活。何度も冷害に見舞われ、離農する者も後を絶ちませんでした。しかし、現在では、全盛期から比べれば農家戸数こそ減っているものの、小麦、ビート、豆類などが畑に広がる、北海道でも有数の穀倉地帯です。農耕技術の発達により、人口の減少と農業地帯としての強度は、あまり比例しなくなっているようです。人よりも作物が栄えています。いずれ作物に支配されるかも。

 昔は映画館まであった最寄の「町」である中磯瀬(なかいそせ)も、店らしい店は、今やコンビニが一軒あるだけです。もっと町らしい町へ行くには、車で三十分はかかります。週に一度や二度は、そこまで出かけて買い物をする人がほとんど。ゆえに、知悦部小学校の児童たちには、登下校中に寄り道ができる場所などありません。それが良いことなのかどうかはわかりませんが。

 知悦部小学校の話をしましょう。一九二九年、昭和で言えば二年、中磯瀬尋常小学校と、かつては西中磯瀬尋常小学校頃厚居(ころあつい)特別教授場だった頃厚居尋常小学校が統合し、知悦部尋常小学校が発足。戦後の学制改正で一九四七年に知悦部小中学校となり、一九五二年に中学校を豊和(ほうわ)中学校へ統合、知悦部小学校が生まれました。

 最大児童数は一九三三年の二二二人。しかし、農家戸数の減少で児童数も減り、一九六五年から一九七五年の十年間で、一一一人から四七人へと大幅に減少。昭和の終わりから平成にかけては、多くても三十名前後、ここ数年は十名前後の状態が続き、新入生のいない年もしばしばで、二○一四年の春ごろから閉校に向けた議論が始まりました。そして昨年、ついに今年度での閉校が決定しました。

 これが知悦部小学校です。一九九三年に現在の校舎が建てられました。ご覧ください。立派でしょう? 外観はまるで古びていません。もったいない限りです。でも、中はどうなっているか? 卒業して何年も訪れていなかった人は、がっかりするかも。特に真新しい校舎で学んだ、九十年代半ば頃に児童だった皆さんはね。

ネット環境整備のため

 ネット環境の整備のため、しばらくブログの更新をスムーズに行うことができそうにありません。しかし、たとえどんなに無益な駄文であろうと、日曜日と水曜日に必ず更新するスタイルを2、3年ほどは欠かさず続けてきたので、急に途絶えさせるのも気持ち悪く、以前書いて箸にも棒にもかからなかった小説(実際、穴だらけの出来なのは自分でも分かっている。言い訳をすれば、鬱状態の酷かった時期に書いたものなので、これが限界なのだろう。回復しても似たようなものかもしれないけれど)を、どうにか半年分くらいに分けて予約投稿しておこうと思います。