『空にかたつむりを見たかい?』 第20回

 ナスレディンは、桑窪家で飼われている犬だ。少し大きめの雑種犬である。ダイチや僕が小学校二年のころ、ふらりと桑窪家の庭に現れ、それ以来家族の一員になった。名前は塔子さんがつけてくれた。

 ナスレディンには、奇妙な癖がある。

 それは高い所に登り、空を見上げることだ。

 幼犬だったころから、ナスレディンは高い所に登りたがった。大きくなるにつれ、器用に小屋などをつたって家の屋根に登り、空を見上げる。散歩に連れて行っても、時折、木に登ろうとすることがある。

「『神を見た犬』ならぬ、『神を見たい犬』ってところかな」

 以前、散歩途中にたまたま出会った塔子さんは、そんなナスレディンの姿を見て言った。ナスレディンが実際に何を見ているのかは分からない。

「ナスレディン」

 犬小屋の屋根に登って夜空を見ていたナスレディンだったが、僕が名前を呼ぶと、屋根から降りてきた。夕食の皿を置くと、空腹だったのか、がつがつと食べはじめた。

 ナスレディンは滅多に吠えることがない。賢い証拠なのかもしれない。

 阪市さんの話にも出てきたとおり、桑窪家では、代々犬が飼われ続けている。二、三匹同時に飼っていた時期もあるくらいで、犬がいなかった時期はないらしい。ナスレディンが桑窪家にやってきた時も、シャリオンという別の犬が既に飼われていて、しばらくはナスレディンと仲良く暮らしていた。だが、そんなシャリオンは三年前に寿命を全うした。

「ナスレディンもイヌフラシが産んだ犬なのかな」

 いつの間にか僕の後ろに来ていたダイチが言った。

 イヌフラシ。これもまた、阪市さんの話に出てきた名前だ。

 イヌフラシとは、九十年代のはじめ頃から、知悦部小学校の児童たちの間で噂になった妖怪の名前である。

 この知悦部地区は、小学校を中心に、野良犬が多く現れる。生まれつきの野良なのか、捨て犬なのかは分からないが、とにかく多くの犬が現れては、知悦部の民家、あるいは小学校で飼われることになった。拾う者が多いから捨てる者も多いのでは、と考える人もいたけれど、真相は分からない。

 そこで囁かれはじめたのが、妖怪・イヌフラシの存在だ。

 最初は、次々に現れる犬は妖怪が生み出しているというだけの噂だった。だが、そのうち誰かが、妖怪を「イヌフラシ」と名付けた。以後、いろいろと勝手なストーリーが付属しはじめる。

 妖怪イヌフラシは、各地の小・中学校近辺に出没し、次から次に犬を発生させる。姿は中年男性のような時もあれば、老人のような時もある。時には、若い女性の姿にも化ける。しかし真の姿は、顔はブルドッグ、胴体はドーベルマンで、二足歩行をする体長三メートルの化物だ。そんな化物が、この知悦部地区には古くから棲みついている。

 これが、イヌフラシにまつわる噂の大まかな内容だ。

『空にかたつむりを見たかい?』 第19回

「親父は、ダイチくらい眠そうであってくれたほうが助かるんだけどな」

 ビールを飲みながら勝也さんが言い、阪市さんが「うるせえよ、バカ野郎」と笑う。

 現在の桑窪家は、阪市さんと勝也さん、勝也さんの奥さんの綾乃さん、ダイチの母さんとダイチ、そこに僕や、今日はまだ帰ってきていないけれど、母さんが加われば七人になる。大家族というほどのものではないけれど、にぎやかで結構楽しい。まあ、僕と母さんは、桑窪家の一員というわけではないのだけれど。

「そこがいいんだよ。その、なんていうんだ、疑似家族っぽいところがな」

 僕たちと桑窪家の関係について、誰かから何か言われると、阪市さんは決まってそう答える。

アメリカのドラマとかでよくあるだろ? 友達とか隣人とかが、家族同然で同じ家に住んでたり、あがりこんでたりするの。『フルハウス』とか、そうだったろ? 家族を重視するっていうのは、家族じゃない者を軽視するってことだからな。その辺の閉鎖性が気に食わない。もっと、ゆるくてもいいじゃねえか」

 阪市さんは一度、地域の会合かなにかで、僕たちの件で大喧嘩したことがあるらしい。相手は堀田氏だったらしく、止めに入ったという勝也さんも「どさくさに紛れて、二、三発蹴っておいた」と言っていた。

「あの人、綾乃の悪口も言ってたからな」

 離婚した夫をどん底に突き落とすほどの強さを持った僕の母さんやダイチの母さん、そして見るからに体も心も強靭な阪市さんや勝也さんと違って、綾乃さんはいつも優しそうに微笑んでいるけれど、とても無口で滅多にしゃべらない。たまにしゃべっても、とても声がか細く、がやがやとした場所では、まず聞こえない。そんな綾乃さんのことを、堀田さんは陰で「ちょっと頭が弱いんじゃないか」と話していたらしい。勝也さんは、堀田氏の名前を聞くと、今でも殺意に近い感情が湧き上がってくるという。

「昔だったら、やりすぎて俺が刑務所に入ってたかもな」

 阪市さんはその昔、車から燃料を盗もうとしていた不良少年たちを捕まえてボコボコにし、逆に書類送検されてしまったことがある。勝也さんは、そんな父親のエピソードを語り、「血筋的に危ねえんだよなあ」と呟いていた。ちなみに、阪市さんの書類送検は、勝也さんたちが生まれる前の話で、当然、阪市さんがPTA会長になるのは、その後のことである。いかに当時の知悦部地区が、アナーキーな土地であったかを物語っている。なにせ、前科持ちがPTA会長に推薦されているのだから。

「まあ、俺がイライラしてると綾乃が悲しむからなあ。考えないようにしてるんだ」

 勝也さんは以前、そう僕に話してくれた。

「ああ、勝也。今度、また飛ぼうと思ってるんだが、いいか?」

「飛ぶって、また飛行機かよ?」

 阪市さんは、ウルトラライトプレーンを所有している。「ベサメ・ムーチョ号」と名付けられたその機体は、農薬散布に利用することもあったけれど、基本的には阪市さんの趣味のものだ。最初の頃は、わずかに飛んだかと思えばすぐ地面に戻り、そしてまた浮かび、そしてまた……というような動きを繰り返し、地域の人たちは、そのまま家に突っ込んでこないかと不安に思っていた。しばらくすると、もっと飛行機らしい姿で空を飛びまわりはじめ、今度は墜落してこないだろうかと不安に思った。

 実際、一度墜落したことがある。幸い、墜落場所は桑窪家の畑で、仕事をしている人もいなかった。本人の怪我もかすり傷程度で済んだ。

「親父、死ぬんなら先に言えよ。じーちゃんに伝えてほしいことがあるんだから」

「今、言えばいいじゃねえか」

「親父、俺が言ったことすぐに忘れるじゃねえか。死ぬ間際じゃないと、信用できねえ」

 事故当時の、阪市さんと勝也さんの会話だ。懲りない性格の阪市さんだったが、さすがに墜落という経験には懲りたのか、それ以来、飛行機はトラクターなどをしまう倉庫に吊るされたままだ。

「アユムたちに撮影してもらおうかと思ってな。なんなら、俺がカメラ借りて、空から撮影してやってもいいぞ」

「やめとけ。カメラがもったいない」

 阪市さんの体よりもカメラを心配するあたりが勝也さんらしい。

「でも、空撮は魅力的だよね」

 食事を終えたダイチが言った。

「だろ? 俺が手に持って飛ぶのが危ないっていうんなら、翼にカメラつけておいたらどうだ? あ、ドローンだったか? あれ買うか? 高いんだっけか?」

「父さんが操縦するなら、飛行機でもドローンでも、全部危ないの」

 洗い物をしながら、ダイチの母さんが言った。洗い物にうるさいダイチの母さんは、決して他の人に洗い物を任せない。

「でも、映像全体として、空撮は浮いてしまうかも」

 僕が食器をダイチの母さんに渡しながら言うと、阪市さんは「なるほど! 飛行機だけに浮くってか!」と言って笑った。どうやら、少し酔っているらしい。普段は、そういう駄洒落はあまり言わない。僕は酔っぱらいは嫌いだが、なぜか阪市さんにを不快に思うことはない。

「あ、アユム君。これ、ナスレディンに」

 ダイチの母さんが、残りものの米やおかずを乗せた皿を僕に渡した。

『空にかたつむりを見たかい?』 第18回

「家族でも親戚でもないからいいんだ」

 阪市さんは、僕にそう言った。

 桑窪阪市さんは、勝也おじさんの父親。つまり、ダイチのおじいさんだ。もう、六十代後半になるのに、「おじいさん」という感じはまったくしない。

 桑窪家は、知悦部地区で代々とても力のある一族として有名だ。別に、知悦部の主というわけではないけれど、なんとなく、みんなが一目置く存在だった。知悦部小学校の歴史を見ても、校内のリーダー的存在は大抵、桑窪家の子供だったらしい。残念ながら、ダイチはその血を受け継がなかったようだ。

「なあ、ダイチ。なんでアユムよりも食ってるのに、お前の方がいつも眠そうなんだ?」

 夕食中、阪市さんは、いつも通りぼんやりした顔のダイチにそう言った。ダイチは、「原因が分かればなんとかしてる」と言って笑う。

 僕は幼い頃から、桑窪家で過ごす時間のほうが長い。

 母さんは、僕が生まれてすぐに父と離婚した。僕の父は漁師の息子で、体は丈夫だったらしいけれど、何か悪さをした時は、親からボコボコに殴られたり、海に投げ落とされたりという荒っぽい育て方をされ、自分自身もそういう考えに染まっていたという。そのまま結婚生活を続けていたら、僕もそんな育てられ方をしたのだろうか。そう考えると、ゾッとする。

「だからね。つきあってる間に、そういうダメな部分をしっかり記録して、丈夫なDNAだけもらって、アユムが生まれてすぐに別れたわけ。弁護士も有能だったから、離婚するのすごいスムーズだった」

 六歳になったころ、母さんからそう言われた。たしかに僕は、小食のわりには軽い風邪程度の病気しかしたことがない。そこまで計算して父と結婚したのだとしたら、我が母ながら恐ろしい人だと思う。ただし、これは特殊なケースなのだから、あまり他人に勧めてはダメだとも言われている。勧めるつもりなんて、当然ない。

 僕の母さんとダイチの母さんである夏美さんは、小学校の頃からの親友同士だ。荒っぽい父が別人のように凹むほどの養育費をふんだくったとは言え、シングルマザーとして働かなければいけないと考えた母さんに、なら働いている間は、僕をうちで一緒に過ごさせようとダイチの母さんが提案した。

 ダイチの母さんも、同じ時期、つまりダイチが生まれてすぐに離婚していて、子供のために阪市さんや弟の勝也さんたちが住む実家へ戻ってきたところだった。なら僕の母さんも、と考えたらしい。阪市さんたちも快く賛成してくれて今に至っている。もちろん、母さんは、食費などの一部生活費を桑窪家に払っているけれど、阪市さんは当初、別にかまわないと言ってくれていた。今でも、母さんが無理矢理押し付けているような形だとか。ちなみに、ダイチの母さんの離婚原因は「夫が大の犬嫌いだったから」だ。

 母さんは、ドライブインでのバイトもしているが、本業は地元ラジオ局のパーソナリティだ。なかなか人気もあって、夜おそくなることも多い。空飛ぶかたつむりを見た、あの日の記憶が印象深いのは、そんな母さんと一日中一緒にいた数少ない思い出だということもある。

『空にかたつむりを見たかい?』 第17回

元PTA会長(第二十代) 桑窪阪市   ――知悦部地区小学校と地域を語る

 

 見てみろ、この麦畑。

 俺がここの主だったころはな、毎晩ここに来てあいつらに話しかけてたんだよ。「大きく育てよ」ってな。そしたら、こう、あいつらも語りかけてくるわけだよ。「ザワザワーッ、ザワザワーッ」てな。

 洋太は真面目にやってるけど、ちょっとそういう愛が足りないんじゃねえかな。俺が麦に話しかけてる時も、「親父、酔ってんのか」ってバカにされたもんだよ。かわいくねえ奴だよな。

 知悦部の昔話?

 そうだな。ほら、あそこ。いつ崩れるんだかわからねえ家があるだろ? まあ、当然空き家なんだけどな。

 俺がまだ子供の頃、うちで飼っていた犬があの家で吊るされてたんだ。

 何でかって? 食うんだよ。いや、慌てたな。親父と一緒に走っていって助けたよ。なんとか食われずに済んだんだ。親父は怒って、あそこの家の爺さんをボコボコにしてたな。

 まあ、だからな。昔は良かったなんて言う奴は信用するなってことだ。俺の親父と仲の良かった杉谷さんって人がいてな。その人は、タコ部屋の監視人だったんだ。逃げ出した労働者が、杉谷さんの足にしがみついてきたって話を聞いたことがある。その労働者、追ってきた奴から背中につるはしを食らわされて死んだらしい。昔がいいわけねえよな。

 ああ、犬は減ったな。洋太たちが小学生のころは、まだ結構いたな。妖怪イヌフラシだったか。昔がいいわけねえとは言ったけど、洋太たちが小学生の頃は、今より楽しかったな。その親である俺らの世代が好きにできたってだけかもしれないけどな。

 犬の話? 野良は案外、みんなおとなしかったんだ。今でもたまに見るけど、野良の方がおとなしい。今じゃ、飼い犬の方が凶暴だ。俺の友達で、郵便局員だった奴がいるけど、郵便受けに犬を繋いでるバカ飼い主ってのが結構いたらしいな。うちの犬は噛みません、とか言ってな。でも、噛むんだよ。だって、他人だもんな、郵便屋なんて。なのに、野良を恐れるんだよ。そういう飼い主に限ってな。

 お? 飛行機の話か? まあ、最近は知っての通り、全然乗ってないんだけどな。うるさくてな、堀田あたりが。

 飛行機に乗る時は、身だしなみはしっかりしないとな。農薬散布の時だろうが、趣味で飛ぶ時だろうがな。言われたんだよ、昔。飛行機仲間にな。「飛行機乗りとして、万が一事故が起きた時のため、パンツだけは新しいのにしとけ」って。だから、一回落っこちた時も、すげえ綺麗な格好してたんだぞ。

『空にかたつむりを見たかい?』 第16回

「うわ。ほんっと、うっとうしい」

 急に塔子さんが、心底不愉快そうに叫んだ。

「え?」

 マリサが珍しく不安そうな顔になる。こういう表情のマリサは、なかなか見れない。

「ああ、ごめん。こっちの話。っていうか、こいつの話」

 塔子さんはそう言って、スマホの画面をこちらに見せてくる。

ツイッターですか?」

 ダイチがスマホの画面を見て言った。

「そう。ツイッター。ムササビの」

「ムササビ?」

 マリサの問いに、塔子さんは「堀田信一のアカウント名」と答えた。堀田信一。僕らの中での知悦部地区のめんどくさそうな人ナンバーワンであるPTA副会長だ。会長に推されないのも頷ける。それでいて、副会長の座には入り込む。会長は上野の父さんが務めているけれど、堀田氏との仲は悪いらしい。

「語尾が基本的に『ッス』ばっかり」

「ス?」

「思うッス。わかるッス。難しいんス。文字で見ると余計腹立つ」

「ああ……」

 スマホ画面に映る文章を見て、マリサは塔子さんの感じた不快感を共有したらしい。

「昔やったゲームにも、こういう口調のキャラがいて、腹立ったから、出てくるたびに弓矢で殺してた」

「なら、なんで見るんですか?」

 僕が訊くと、塔子さんは「炎上してれば、ざまみろと思って、ついつい見ちゃう」と言った。しかし、どんなに炎上しそうなつぶやきがあっても、そもそも注目度が低いようなので、結果、塔子さんの気分が悪くなるだけのようだ。

「この口調で、たまに真面目な話をつぶやいてるんだけど、それがまた内容的にもアレで……」

 堀田氏のツイッターを追っているわけではないし、追いたくもないので、その辺のことはよく分からない。しかし、塔子さんのスマホに映る堀田氏のつぶやきをよく見ると、「こと」が「コト」だったり、「いいのかな」が「イイのかな」だったり「普通」が「フツー」だったり、随分と軽薄な印象がある。本人はフランクな人柄を演出しているつもりなのかもしれないけれど、それも含めて確かに良い印象は持てない。

「ほら、このつぶやき見てよ。苦しい思いをしたものが、本当の幸せをわかるだってさ。苦労なんて人格曲げるだけ。つらい思いをした方が幸せを感じられるとか言う奴って、本当気持ち悪い。狭い仲間内の間では、なんか共感し合ってるみたいで、そこがまた……ねえ。こういうのにとっての仲間って、お互いのクズな面に鈍感な者同士のことを言うのかな」

 たしかに、二、三件の「お気に入り登録」が見られる。

「こいつ、自分には学がないからよく分からないが、なんて言い訳っぽいこと言ってるくせに、納得しやすい意見にはすぐ正論だってほざいてる。バカが正論かどうか判断できるわけないじゃない」

 塔子さんはそこまで言うと、「まあ、いいや。切っとこ」と呟き、スマホの電源を切った。

「あ、また」

 塔子さんの堀田氏に対する不快感表明にはあまり興味を持たず、運動会の映像に集中していたダイチだったが、またノイズを発見したらしい。

スカイフィッシュかな」

 僕たちの後ろから画面を覗きこんで、土佐先生が言った。

スカイフィッシュ?」

 マリサが訊ねる。

「知らない? 目に見えないほどの速さで、そこら中を飛び回る謎の生物。一時期、話題になったんだよ。まあ、正体に関しては諸説あるけど。ここにはたくさんいるんじゃない?」

「その、スカイフィッシュがですか?」

 僕の言葉に土佐先生は、「まあね」と言ってにやりと笑った。死人でも機械でもない笑い方だったが、死人のような機械のような時の土佐先生以上に妙な迫力のある笑顔だった。

『空にかたつむりを見たかい?』 第15回

 校舎内での楠本校長のインタビューをを終えた僕たちは、土佐先生の家に来ていた。楠本校長がえらく感動していた昔のビデオを見るためだ。マリサだけは写真を撮るために、まだ校舎に残っている。写真撮影に乗じて、「絵」の手がかりが校舎にもないか調べるのも目的だ。どうやらマリサは、犯人は知悦部地区の出身だとにらんでいるらしい。

「あ、いた。かっちゃん」

「ああ……当たり前の話ですけど、子供ですねえ」

 塔子さんが指差す画面の人物を見て、ダイチがしみじみと呟いた。僕も親しくしている勝也おじさんの小学生時代の姿を興味深く眺める。

「勝也おじさん、走るの速いですね」

「桑窪は、運動神経良かったからね」

 僕の言葉に、ベッドそばのパソコンで作業していた土佐先生が答える。

「マリりんも見ればいいのにね。何やってるのマリりん」

マリサのことを「マリりん」なんて呼べるのは塔子さんだけだろう。僕がそんな風に呼んだら、残酷な方法で処刑されかねない。マリサは塔子さんに心酔しているフシがあるので、塔子さんからどんな風に呼ばれても構わないようだけれど。

 塔子さんを見ていると、なんだかマリサの将来を見ているような気分になることがある。だけど、マリサが塔子さんに心酔していることを考えると、僕の憶測は誤りであるとも思えてくる。塔子さんは、誰かを面白がって好きになることはあっても、たぶん心酔するということはない。

「校舎の写真を撮りたいそうです」

 僕は、「絵」のことは、まだ黙っておいた。

「母さんたちも、しっかり子供だったねえ」

 ダイチがそうつぶやく。今見ているのは一九九五年の運動会の様子だが、もっと古いビデオは既に見終えている。僕やダイチの母さんがしっかり映っていた。もちろん、普通に見ていたのでは、いつまで経っても終わらないので、早送りしつつではある。要所要所、気になる点があればじっくり見て、チェックをつける。

「それにしても、本当に危ないことやってるね」

 話に聞いていた通り、この時期の運動会は活気がある。いや、荒っぽいと言ったほうがいいかもしれない。

「老人がずいぶんな勢いで走ってる」

 ダイチも、少々驚いた様子で眺めている。たしかに、明らかに六十代以上と思われる人が、三十代か四十代くらいの人たちに交じってリレーに参加している。しかも、かなり速い。農民の底力なのだろうか。あるいは、北海道民が持つアメリカ人のようなフロンティア・スピリットか。

「お待たせ」

 写真を撮り終えたマリサが戻ってきた。僕に顔を向け、バレない程度に顔を左右に振る。「ダメだった」ということだろう。どうやら、校舎の中に「絵」に関する手がかりはなかったらしい。

「おかえり、マリりん。ここ座っていいよ。あたしは、あとで見るから」

 塔子さんは立ち上がり、台所にある椅子へ移動した。

「ありがとうございます」

 マリサが塔子さんの座っていた場所に腰掛け、運動会の映像を見はじめる。

「あれ? ノイズ?」

 マリサがいつも以上に眉間に皺を寄せて、映像を見た。

「何?」

 僕が訊くと、マリサはテープを巻き戻し、「この辺り」と画面の右上あたりを指差した。注意して見てみると、たしかに何か細い黒い影のようなものが、そこを横切るように映りこんだ。

「古いビデオテープだからねえ。ノイズくらいあるでしょ」

 ダイチの言葉に、マリサは「まあ、そっか」と言ってテープを通常再生しはじめる。早送りしないのは、マリサも勝也さんたちの子供時代を見てみたいのだろう。

『空にかたつむりを見たかい?』 第14回

知悦部小学校校長 楠本正一   ――知悦部小学校と地域を語る

 

 校長の楠本です。赴任してきて二年で閉校というのは、寂しい限りですね。

 ……あ、ちょっと固いかい? 固いのは式典の時の挨拶とか記念誌に書く文章だけで充分かな。

 そうかそうか。好きにしゃべっていいんだったね。編集点とか大丈夫? そっちでうまいことやる? じゃあ、よろしく頼むよ。なんか、まずい発言があったらカットしといてね。

 いや、噂で聞いてたんだよ。すごく、にぎやかな地域だって。酒に強くないと、地域の人とうまくやっていけないとか、そんな話まであってね。まあ、今はそうでもないみたいだったね。

 でも、昔はすごかったみたいだね。運動会とかね。昔のビデオ、ちょっと見せてもらったけど、ホントすごいね。コンテナあんなに積んじゃって危ないよねえ。でも大怪我は、ああいう危なそうな競技よりも、リレーとか、どこでもやってる競技の方で出たらしいね。真剣だったんだろうね、みんな。

 あと、昔の運動会のビデオで面白かったのは、あれだね、輪回し。鉄の、なんか、あれ、直径六十センチくらいあるのかな。あれを、またこれも鉄製なのかな、細い棒みたいなのでシャーって転がしてくのね。お年寄りの人たちが子供の頃にやってたらしいよね。だから、あの競技だけ、老人会の人たちが圧勝するんだよね。なんか、ちょっと痛快だったねえ。僕も、そろそろ老人と呼ばれる年齢だからね。あ、もう充分呼ばれてるかな。

 あの、子供たちよりも自分が楽しむんだっていう大人たちの真剣さがね、なんか素敵だと思うよ。楽しい姿を見せるっていうのは、とっても大事なことだと思うね。僕もいろいろ考えてはいるんだけど、なかなかうまくはいかなくて。いやあ、うらやましかったよ。

 ああ、学校の中ね。これも、ビデオ見ていて思ったんだけど、昔の方が綺麗だったかな。いや、そりゃ出来たばっかりだから、綺麗なのは当たり前なんだけど、草取りとか色々丁寧にされてたのかな。まあ、どんどん人も少なくなって、手も回らなくなったんだろうけど、ちょっとそこは寂しいね。

 玄関は……さほど変わらないかな。まあ、二年しかいない僕が言うのも、おかしいかもしれないけど。

 廊下……いや、ワークスペースだったね。広くとってあるよね。吹き抜けになってて、開放感がある。床は……ちょっと汚れただろうね。この校舎になって、もう二十年以上経つんだものね。そりゃ、ある程度は仕方ない。これもまた、風情っていうものとして愛でてほしいね。

 あ、プールかい? うん。プールはいいんじゃないかな。ちょっと校長として、恥ずかしいかな。もちろん、最低限のことはしているつもりだけど……うん、周りがちょっとひどいね。撮影しないでおこうか。まあ、グラウンドや体育館と違って、閉校したら使うこともないだろうからね。

 どうなのかな。卒業してから、もっと時間の経ってる人なんかは、結構うるうるきたりするのかな。嫌な思い出が多かったら、そうでもないかな。高山君はどう? どちらにしても、まだそんなに感傷的になるほどの時間でもないかな。

 なんか、とりとめもなくしゃべっちゃってるけど、本当に大丈夫かな? なんとかする? あ、なんとかなる? すごいね。むしろ、こういう方がいい? そりゃ、よかった。