『空にかたつむりを見たかい?』 第27回

「じゃあ、ゆいっぴ。あっちから好きに自分の歌を歌いながら、ゆっくり歩いてきて。カメラ前まで来たら、そのままカメラを追い越して歩いていって。それだけでいいから」

「ほんきーとんくうぃめーん!」

 そう叫んでユイは、中磯瀬の町に向かう道を走って行った。

「本当、変な奴だよねえ」

 カメラを覗きながら、ダイチが呟いた。

「僕らにそんなこと言う資格はないだろうけど、それも許されそうなくらい変な子だね」

 僕は走っていくユイの背を見て答えた。十五メートルほど先まで走って行ったユイは、そこで立ち止まり、「このへんでいーい?」と叫んでいる。

「あと五メートルくらい!」

「ほんきーとんくうぃめーん!」

 五メートルほど下がり、再びユイが「このへーん?」と叫ぶ。僕は、両手で大きく○を作ってユイに見せた。

「ほんきーとんくうぃめーん!」

「じゃあ、いいよ。スタート!」

 ユイは、僕の指示通り、ゆっくりと歩み寄って来た。

 

  ♪ばかものどもの若者論

  逃げろ、二元論、人間論

  そこのけ、追い越せ、おっとせい

  おっとー星人、誰のせい

  まこさま、まささま、さゆりさま

  しいたけ先生たべられない

 

「はい、カット」

「いえーい!」

 カットの声を聞いたユイは、なぜか僕に突進してきた。そのまま抱きつかれ、僕は転びかけた。

「はいはい。お疲れ様でした。もう帰っていいよ」

「えーっ、もう終わり? もっと遊びたーい」

「いや、遊んでるわけではないし……」

 僕はユイを引きはがしながら、そう言った。

「これからなんかあるの? ねえねえ。なんかあるの? なんかあるなら、ついていっていい?」

 何もない。強いて言えば、今日までに撮影した映像を見なおしてみようかと考えていたが、そこについて来られても困る。

「はいはい。ほら、ゆいっぴ、アユム君困ってるからおとなしくしようねー」

 車から降りてきたマリサが、ニヤニヤしながらユイをなだめはじめる。どうも、マリサは、ユイを変わった小動物か何かだと思っているらしい。

「あ……」

 突然、ダイチが声をあげた。

「どしたの?」

 マリサがダイチに訊く。

「音入ってないわ。もっかいだね」

「ほんきーとんくうぃめーん!」

 ユイは叫び、そのまま僕がさっき指定した場所まで走っていく。僕は、ユイの叫び声を聞き、今日は帰ったらすぐに風呂に入って寝ようと思った。

「あゆむん」

 再び車の窓から顔を出した塔子さんが僕に語りかけた。

「ねえ。小さな子供がどうしてワガママか分かる?」

「え?」

 急になんだろう。

「次なんてないことを知ってるからだよ。また今度、なんてないって分かってるの」

 塔子さんは笑顔だ。でも、いつもの意地悪そうな笑顔じゃない。

「ゆいっぴは、それを理解してるのかもよ」

『空にかたつむりを見たかい?』 第26回

 帰宅部というのは、学校が用意できなかったものに価値を見出した者のことで、逆に言えば、何かの部活に入っている者は、「学校が用意したもので満足している奴」だとも言える。

 詭弁だと言われることもあるけれど、土佐先生や塔子さんは納得してくれた。

 僕たちは放送委員ではあるけれど、部活動には参加していない。僕たちの通う中学校には、体育系の部活しか存在していないので、入る部活なんかないのだ。土佐先生たちがいたころは、恐ろしいことに強制参加だった。顧問がまともそうだという理由で、土佐先生はサッカー部に、塔子さんはテニス部に入部したらしい。二人がサッカーやテニスをしている姿なんて想像できない。もっとも、二年になって教頭が替わると、急に強制参加ではなくなり、二人はさっさと退部してしまった。その当時の教頭に僕も感謝したい。

 放送委員としての活動は、行事の撮影や校内放送以外には基本的にないので、僕とダイチとマリサは見事なまでの帰宅部である。僕たちは学校から用意されたものでは満足できない。

「さてぃーすふぁーくしょーん!」

 ユイの僕たちに対する挨拶は、いつもこれだ。意味を分かっているのかどうかは知らない。

「ゆいっぴと違って、二人は元気ないねえ」

 畑の入り口に車を停め、窓から顔を出して塔子さんは言った。

「暑いですからね」

「そんな思いまでして、何を企んでいるのかな? まだお姉さんにも秘密かい?」

「自分でもなぜこんなことしてるのか分からなくなりかけてるので、余計に白状するのが恥ずかしくなりました」

「じゃあ、頑張って企みを続けてちょうだい。もっと恥ずかしくなったところで、黙ってられなくさせてあげるから」

 塔子さんは、また意地悪そうな笑顔で僕に言う。助手席には、似たような表情を浮かべたマリサが座っている。涼しい車内から出るつもりはないらしい。

「ああ、僕が企んでいるのは、妖怪イヌフラシの言いだしっぺ探しです」

「あ、言っちゃうんだ」

 僕の言葉に、ダイチは「だって、隠す必要性が分からないんだもの」と答えた。イヌフラシの件に関しては、これもまた、もっともな話である。塔子さんは、笑いながら「へえー」と頷いている。すると、素っ頓狂な声が響いた。

「さてぃーすふぁーくしょーん!」

「はいはい。さてぃーすふぁくしょーん」

 ユイの挨拶を僕は適当に流す。出演を依頼しておいて、こんな態度をとるのもどうかと思うけれど、こいつとまともに長時間関わるのは困難である。ダイチにいたっては、早々にカメラ位置などを決める仕事に集中して、サティスファクションなハイテンションガールの存在を意識から飛ばしている。

 このハイテンションガールの名前は、春日唯という。中学一年の時は、僕たち三人と同じクラスだったが、二年になって別のクラスになった。別のクラスと言っても、僕たちの中学校は、三学年ともにAとBの二つしかなく、今でも頻繁にまとわりついてくる。僕たちが言うのもなんだが、妙ちきりんな女である。

 愛嬌のある顔をしているので、入学してしばらくは、思いを寄せる男子もいたようなのだけれど、すぐにそのテンションについていけなくなり、現在ではマリサとは別の意味で浮いている。

 クラスが別になってから、教室内でどんな風にしているのか分からないけれど、この変わらない姿を見ると少々不安になる。嫌な思いをしているわけではないと思うけれど、繰り返すが、他人の気持ちなど推測はできても理解できるはずがない。

 さて、教室での評判は知らないが、ユイは僕たちが『謎の湖底人シタカルト~』を投稿した某動画サイトでは、結構な有名人である。「魔法少女ゆいっぴ」という、空飛ぶかたつむりの謎を追いかけることなんかよりもよっぽど恥ずかしい名前で、自作の歌を披露している。こんな名前なのにコスプレ的な格好はしていないのが、なんだか余計に恥ずかしい。天然の強度と言うべきか。出会った当初から地下アイドルのような香りがしていたけれど、今では本当にそのような存在なのだ。

 しかし、悔しいかな、ユイの歌はたしかに面白く、今日ここに来てもらったのも、その面白ソングを披露してもらうためだった。これも、より『トゥルー・ストーリー』に近づけるための演出だ。あの映画の冒頭でも、郊外の道を歌を口ずさみながら歩いてくる不思議な少女が登場する。

「ねえねえ、アユム君、アユム君。なに歌ったらいい? なにがいい? なにがいい?」

「君が歌いたいので構わないよ」

「ほんきーとんくうぃめーん!」

 別にユイは、ローリング・ストーンズの「ホンキー・トンク・ウィメン」を歌いたがっているわけではなく、これがユイの「肯定の言葉」なのだ。

 そもそも、ユイがストーンズを知っているのかどうかすら怪しい。いや、母さんや土佐先生からの英才教育を受けた僕たちはともかく、同世代がストーンズを知らなくても、なんら不思議ではないのだろう。不思議なのは、ストーンズのことをたいして知らなそうなのに、なぜかその曲名をオリジナルの挨拶にしてしまっているユイの方なのだ。

 そういえば、ミック・ジャガーにちなんだ名前のかたつむりがいたはずだ。たしか、フランク・ザッパも。新種の生物にミュージシャンの名前がつけられることは、結構多いらしい。雌雄同体で、時には単体で受精し、なおかつ鳥に喰われても排泄されて生き残る種類までいるというかたつむりに、ミックやザッパの名がつけられるのは、なんだかとても自然なことのように思える。

『空にかたつむりを見たかい?』 第25回

「アユムはたまに弱気になるね」

 僕がうじうじと辛気臭いことを考えているのを察したのか、ダイチが言った。

「別に、普段から強気で生きているつもりはないんだけどなあ」

「いや、そうなんだろうけど、僕は素直に、アユムすげえなあって思うこといっぱいあるんだけど、なんかそれをアユムは誇れてないなあと思うのね」

「すげえなあって思うこと、あるかい?」

「妙な勘の良さがあるし、インタビューでもアユムが聞き手に回ると、みんなどんどん喋ってくれてる。これって、かなりすごいことだと思うんだよね。それに『シタカルト~』だって、今回の映像だって、基本的にアユムが考えてるじゃない」

「まあ、そうかもしれないけど……」

「僕には思いつく力があまりないから、基本的に手伝ってるだけ。まあ、それも好きでやってるんだけどね。僕はさ、自分で何か思いつけなくても、たとえ何の役にも立たなそうなわけの分からないことでも、知っていることが増えていくのがさ、それだけで楽しいんだよね。今も不謹慎ながら、僕がすげえなあって思うことの多いアユムが、そのことをやっぱり誇れてないってことが知れて楽しいもの」

 イヌフラシの調査の理由もそれだろうか。知ることがそれだけで楽しい。僕も、そんな気分になることは多い。でも、基本的な行動原理がそんな思いで固められているほどではない。結局僕は、何がいちばん自分を興奮させるか、熱中させるかが分かっていないのだろう。

「でも、暑いのは辛いけどね」

「それは、うん。どうしようもなく辛いね」

 ダイチの言葉に、僕はようやく笑って同意できた。暑いのは辛い。知ることそのものが楽しくても、知る過程が楽しいとは限らない。

「マリサのほうは、どうなのかね」

 カメラを覗きながら、ダイチが言う。

「マリサのほう?」

「うん。あの絵」

「特に手がかりなしだってさ」

「だろうねえ」

 考えてみると、ダイチの追っているイヌフラシの謎が、いちばん解決に近いのかもしれない。一九九三年以前には、その名前が出ていなかったということを考えれば、一九九二年から一九九三年の間に、知悦部小学校に在籍していた児童のうちの誰か、と考えるのが自然だろう。

「替わってもらっていい?」

「了解」

 僕はダイチからカメラを受け取った。

「ユイ、何時ごろ来るんだっけ?」

「二時ごろ」

「あと四十分くらい? それまで、こうやって?」

「移動のこともあるから、あと十五分くらいかな」

「ああ、あそこまで、また歩いていくんだったね」

「マリサが車をこっちまで寄越してくれるわけないからね」

 マリサは塔子さんの運転する車でユイを迎えに行っている。そのまま撮影場所まで向かうのだろう。マリサたちが到着する前に、僕たちは、歩いてそこに辿り着かなければならない。

「泣けてくるねえ」

 ふざけた様子でそう言うダイチだったが、よく見ると、たしかに頬を伝う水滴があった。額に汗が滲んでいるので、頬の水滴も汗だと思うが、ひょっとしたら目に汗が入ったことによる涙かもしれない。

「泣くなよ。男だろ?」

「隠れて泣くこともできないっていうなら、こんな突起物いらないよ。かといって、とられたら、また泣いちゃうね」

「痛くしないであげるから、とっちゃおうか?」

「無茶言うんじゃないよ」

 結局、かたつむりは飛ぶどころか、動くことさえなかった。

『空にかたつむりを見たかい?』 第24回

「防風林の中は大丈夫なんじゃないかな」

 確証はないが、ナントカ菌にも薄め忘れた農薬にも負けず、あそこの木々はたくましくそびえている。もしそこに「空飛ぶかたつむりらしきもの」がいるのなら、防風林にカメラを向けてさえいれば、映りこんでくれるかもしれない。

「カメラだけ置いておきたいよね。ちゃんとした調査とかテレビ局なら、そうするんだろうね」

「ちゃんとした調査でもテレビ局でもないから、そうできないけどね」

 暑さに耐え、汗をぬぐいながら二十分ほど歩いて、ようやく例の川に辿り着いた。

「久しぶりに見るけど、ひどい川だね」

 ダイチの言う通り、川の水は、水と呼んで良いものかどうか悩むような状態だった。赤黒いヘドロのようなものが溜まっているだけにしか見えない。もし、あの中でおたまじゃくしが生きているのだとしても、ここからでは確認できない。

「水たまりだね、ただの」

 僕は答える。これでもまだ良い表現を使ったつもりだ。

「あ、でも川にはいないけど、防風林の方にはいるね」

 ダイチが指差した方を見ると、道路にもっとも近い位置の木の根元部分に、大きめのかたつむりが一匹張りついていた。

「本当だ。あそこだけは、あの日の記憶とあまり変わらない」

「どうする? カメラ回しとく?」

「そのために来たんだからね。お願いするよ」

 僕がそう言うと、ダイチはカメラを回し始めた。

「でも、あれだね。いつ飛ぶかわからないものを、こうやってじーっと撮ってるのは、色々と勿体ないね」

「随時、消してくれて構わないよ。まあ、かたつむりは、ここの名物だから、いくらか残しておけば、資料映像としては使えるでしょ」

「手が疲れたら、替わってね」

「了解」

 かたつむりは動かない。動いているのかもしれないが、生物とは思えないのろさだ。『亀は意外と速く泳ぐ』というタイトルの映画を土佐先生のコレクションから借りて観たことがあるけれど、かたつむりが意外と速く動くことはない。それこそ、空でも飛ばない限りは。そういえば、『亀も空を飛ぶ』というタイトルの映画もあった。かたつむりも僕らの前で空を飛んでほしい。

「アユムが見た時も、こういう日だったんでしょ?」

「こういう日って?」

「雨あがり」

「ああ……」

 そう、雨あがり。なぜか、雨あがりでないと、かたつむりは飛ばないと僕は感じている。もちろん、雨あがりのかたつむりをじっと見つめていたからと言って、それが飛ぶとは限らない。というか、飛ぶとか飛ばないとか、そんなことを言ってること自体、一般的にみれば阿呆らしいことだろう。隣でカメラを回し続けてくれているダイチのことを思うと、その阿呆さの罪深さにいたたまれなくなってくる。

「……手が疲れたら替わってって言ったけどさ。別に、嫌になったらかたつむり調査自体やめていいから」

「ええー……。でも、もう船に乗っちゃってるし。なんなら、率先して操縦しちゃってる気分なんだけど」

「それは、本当に申し訳ないね」

「いや、好きでやってるってことだよ」

 口調こそぼわっとしていて、適当に答えたという風にもとられそうだが、なんだかんだでダイチは、本当に嫌なものはしっかり伝える奴なので、たぶん「好きでやっている」というのも嘘ではないのだろう。

 もちろん、それは僕が妙なことにダイチを巻き込んでいる後ろめたさを少しでも和らげたいから、そう思いたいだけということでもある。自分の気持ちすらよく理解できていないのに、他人の気持ちなんて分かるはずないのだ。

 実際、僕は僕で、なぜ空飛ぶかたつむりに対して引っ込みがつかなくなっているのかも分からない有様だ。

 普通に考えれば、やっぱり何かの見間違いだと思えるくせに、心のどこかでは、あの日見たものが本当に「空飛ぶかたつむり」だとも思っている。そして、もう一度、その姿を見れば、なにか自分の中で「すごい発見をした」という以上のものが芽生えることも確信しているようなのに、それが一体どういうことなのか、まったく説明できそうにないのだ。

 今の気分なら上野にこう言える。「映像制作がガキっぽいという意見には反対するけれど、僕がガキっぽいという意見なら反対できない」と。

『空にかたつむりを見たかい?』 第23回

 夏休みに入り、式典の映像も本格的な撮影を開始することになった。

 とりあえず今日は、老人会の泉水さんへのインタビューを終え、僕とダイチは、歩いて空飛ぶかたつむりを見た川まで向かった。この後、隣のクラスのユイに出演協力してもらい、オープニング用に欲しかった別の映像を撮影することになっているのだけれど、ユイが到着するまで、もうしばらくかかるので、かたつむりの撮影をしようと思ったのだ。マリサはユイを迎えに行くため、別行動だ。

「暑いね」

 額の汗をぬぐいながら、ダイチが言った。

「暑い」

 僕も首の後ろに冷やした水を入れたペットボトルを当てて答えた。北海道とは言え、七月の下旬ともなれば、暑い日があって当然だ。しかも、今日は雨上がりなので湿気も多い。

「後悔してるでしょ?」

 ダイチが僕の顔を覗き込んで訊いてくる。

「かたつむりの撮影のこと? それともオープニングの撮影のこと?」

「どっちも。っていうか、この映像制作を引き受けたこと」

「ちょっとね」

 考えてみれば、空飛ぶかたつむりの撮影ってなんだ? たしかに、僕はあの日「空飛ぶかたつむり」を見た。それがかたつむりではなくとも、ちょっと変わった空飛ぶ何かがいたことは間違いない。だが、今もいるとは限らない。いや、いない可能性の方が高い。 暑さを我慢し、ダイチやマリサを巻き込んでまでやらなきゃいけないことなのか? どうして、マリサが絵の謎を調べたいと言った時、なら自分もかたつむりの謎を、なんて思ったのだ? あの時は、たしかに胸が躍っていたのに……。

 いや、胸が躍ったとは言え、せいぜい式典用の映像の合間に、ちょっと何度か寄ってみようと思っていただけだった。しかし、暑さのことを忘れていた。こうして、実際に蒸し暑い中、見間違いの可能性の方が高い現象を観測しようとしていると、自分の阿呆さに涙が出てきそうになる。

「アユムのやりたいことが、いちばん面倒だよね」

「たしかにね。実体がないもの」

 マリサとダイチが追っている謎には、答えに辿りつけるかどうかは分からないものの、答えが存在していることは分かっている。それに対し、「空飛ぶかたつむり」には、答えがあるのかどうかも分からない。遠い日の記憶だけでは、もしあれが、たとえばちょっと大きめの虻か何かが飛び立っただけなのだとしても、それを確かめる術がない。開拓者たちがキツネの巣のそばを通ると化かされてしまうという民話を聞いたことがあるけれど、この近くにもキツネが巣を作っていて、僕はあの時からずっと化かされつづけているのかもしれない。それはそれで、またファンタジーな話だけれど。

 本当に、どうして僕は、そんなものを調べようと思ってしまったのだろう。胸が躍ったのには、何かもっと理由があったような気がするのだけれど、その時ですらはっきりしていなかったうえに、今では暑さに押されて考えることも苦痛だ。

「だいたい、あそこにまだかたつむりって出るの?」

 ダイチの疑問はもっともである。国島先生が得体の知れないナントカ菌団子を撒き散らしてから、あの川に寄りつく人は減った。人だけでなく、あの川に寄りつく生き物が減った。ナントカ菌団子のせいか、長嶺さんが薄め忘れた農薬のせいかはわからないけれど、あの大量発生したカマドウマも大量発生したわけではなく、やっぱり、あの川付近から逃げ出しただけなのだろう。

『空にかたつむりを見たかい?』 第22回

知悦部地区老人会副会長 泉水せつ   ――知悦部地区小学校と地域を語る

 

 多少のろのろでも、変な運転しないうちは、大丈夫かなとは思うけどねえ。バスも中磯瀬にしか来ないし、年寄には不便だねえ。

 この間、高齢者の自動車講習に行ったけど、自分の名前を書けなくなってる人がいてね。あれは、おっかないねえ。町に行ったら、変な運転する人多いでしょう? あたしは、もうおっかないから、なるべく町には出ないようにしてるけど、引きこもってばかりもいられないでしょう? だから、こうやって自分ちで野菜作って、動くようにしてね。最近、雨が多くて、出られないけどねえ。

 クマかい? おっきいのが出て馬が食べられちゃったのは、あたしも生まれる前だからねえ。村本さんの奥さんが見たって言ってた気がするから、昭和二、三年頃じゃないかねえ。すぐそこだよ。こないだも出たんじゃないかって話だけは聞いたねえ。亀田さんちの畑に足跡があったって。撮影、外歩いてまわるんでしょう? 気を付けないとねえ。

 学校かい? 年寄りになってからの、老人会と子供らの交流会みたいなのの方が、よく覚えてるねえ。豆腐づくりとか教えてやってね。あれのあと、なんか自分らで納豆づくりやったら、食中毒騒ぎが起きちゃってねえ。十五年くらい前だったかねえ。いや、豆腐では起きてないよ。豆腐は大丈夫だったんだけど、そのあと、先生と子供らだけで納豆つくったらねえ。やり方がダメだったんだろうねえ。

 校舎って、この後どうするんだろうねえ。立派なものこしらえちゃって、ほっかっとくの勿体ないよねえ。空いてる教員住宅は、今でも老人会で陶芸教室なんかに使ってるけどねえ。今、住んでるのって、校長さんと教頭さんと、もう一人、ああ、土佐先生ね。それだけでしょう? 四つも空いちゃってるんだからねえ。来年からは、あんなおっきい校舎もでしょう? 体育館は使うのかい? スポーツ好きな人多いものねえ、ここ。音楽室とか理科室とか、どうするのかねえ。

 そういや、浜本さんちの息子さん、俊哉君って言ったかい? その子がお嫁さんもらったんで、しばらく教員住宅に仮住まいさせてもらおうかって言ってるらしいね。あたしには、どこに許可もらえばいいのかわからないけど、もし校長さんとかに話通した方がいいんだったら、言っといてあげてくれないかい? 覚えてたらでいいけどねえ。

 ああ、晴れてきたかな? したら、そろそろ畑仕事に行こうかね。

『空にかたつむりを見たかい?』 第21回

 イヌフラシの噂が児童たちの間で流れ始めてから最初に産まれた犬は、ストーニーと名付けられ、小学校で飼われることになった。教員からは児童よりも大事にされ、児童からは教師よりも慕われた。

 このイヌフラシが産み落としたと言われる犬については、小学校五年の時、ダイチが自由研究として調べ上げている。各家庭で拾われた犬や、平成より前の時代のことまでは網羅できなかったけれど、現れた場所が小学校付近だった犬や、教員住宅や学校敷地内で飼われた犬は、妖怪が「イヌフラシ」という名前で呼ばれるより前に現れたものも含めて、ほぼ完全にリストアップされている。

 

 

ブルク……一九八九年十月、グラウンドに現れる。白と黒のぶち模様。擁護教諭・佐川光江の家で飼われ、佐川の異動に伴い、知悦部を去る。

 

じゃじゃまる……一九八九年十二月、当時五年生だった渡邊潤の家に現れ、後日学校に連れてこられる。少し太めで、茶色の長めの毛。用具小屋の傍で飼われるが、四年後に病死。

 

マホニー……一九九一年九月、校舎裏に現れる。細見で茶色く短い毛。そのまま校舎裏に作られた小屋で飼われる。一九九三年三月、異動となった佐藤和久校長と共に知悦部を去る。

 

ストーニー……一九九三年七月、グラウンドに現れる。「イヌフラシ」という名前が児童の間で囁かれはじめてから、最初に学校に現れた犬。細見で白く短い毛。教員住宅前の車庫で一九九九年五月に老衰で息を引き取るまで飼われる。

 

リンク……一九九四年五月、校門前に現れる。細見で薄い茶色の短い毛。しばらく、ストーニーと共に車庫で飼われたが、翌年三月、異動となった綾瀬隆史教頭と共に知悦部を去る。

 

トッパー……一九九四年九月、当時四年生だった福本和也が登校中に発見。たくましい印象の黒い犬。しばらく学校で飼われた後、福本家に引き取られる。二○○一年四月に息を引き取る。

 

ドレビン……一九九五年六月、校舎裏に現れる。大型で白く長い毛。当時六年生だった榊恵里菜が家に連れ帰り、老衰で二○○一年二月に息を引き取るまで飼われる。

 

コメット……一九九六年十二月、校舎玄関前に現れる。平均的な柴犬のような犬。ストーニーと共に、車庫で飼われ、二○○四年五月に息を引き取る。

 

なびき……一九九七年六月、当時四年生だった榊美里が登校中に発見。足の短い小型の白い犬。擁護教諭の藤島康代の家で飼われ、二○○二年の異動に伴い、知悦部を去る。

 

カレルレン……一九九九年七月、校舎裏に現れる。大型で長い灰色の毛。そのまま、教員住宅前の車庫で二○一二年に息を引き取るまで飼われる。

 

チロル……二○○○年五月、校門前に現れる。小型で黒と茶色のまだらの毛。大村正樹校長の家で飼われ、二○○五年の異動に伴い、知悦部を去る。

 

アクセル……二○○○年十二月、当時二年生の笹本香織が登校中に発見。大型で黒く長い毛。数日、学校で飼われた後、笹本家に引き取られ、現在も存命中。

 

ただきち……二○○二年七月、校門前に現れる。大型の白く短い毛。擁護教諭の黒沢紫の家で飼われ、二○○八年の異動に伴い、知悦部を去る。

 

ロン……二○○三年十月、グラウンドに現れる。全体的には茶色く短い毛だが、一部のみ黒い毛。しばらく教員住宅前の車庫で飼われた後、事務職員の中野秋実の実家に引き取られる。

 

ふじやん……二○○六年二月、グラウンドに現れる。太めで短いこげ茶色の毛。教員住宅前の車庫で飼われ、現在も存命中。

  

 

「昔、ふかわりょうがネタで言ってた『5時間目には犬がやってくる』っていうのも、イヌフラシかもしれないね」

 食事を終えたナスレディンを撫でながら僕が言うと、ダイチは「まさか」と言って笑った。

「で? 分かった? ナスレディンの産みの親の名づけ親」

「いいや、全然。一九九三年にイヌフラシって名前が出はじめたってことしかわからないね」

 ダイチが今回の映像制作に乗じて調べているのは、イヌフラシという名前は誰が考えたのかということだ。どうしてそれが気になるのかは分からないけれど、他人のことは言えないし、本気で調べようとまでは思わないまでも、たしかに面白い話であるので、僕も可能な限り、インタビューなどの際に犬の話を訊いている。

「ナスレディンは知ってるのかな」

「神を見たいだけの犬だから、知らないでしょう」

 撫でているうちに、ナスレディンは横になり、眠り始めた。ナスレディンが先ほどまで乗っていた犬小屋の屋根には、一匹のかたつむりが居座っている。これもまた、特別珍しいことではない、知悦部のありふれた景色だ。