「寝る子は育つ」と大声で叫んで寝た子を起こす

 「逆境が人間を成長させる」と述べる者が、敢えて自らを逆境に立たせようとしている姿を目にした記憶がなく、ひょっとして「逆境が人間を成長させる」のではなく「成長の止まった人間は“逆境が人間を成長させる”と言いたがるようになる」の間違いなのではないかと考えると、そもそも逆境というのは、そんな成長の止まった人間たちによる後進への嫌がらせみたいなものではないかと思えはじめ、それによって後進たちから嫌われることこそが成長の止まったように見える人間が自らに強いた逆境なのかしらとも考えたが、成長の止まったように見える人間は、やはり成長が止まっているようにしか思えず、だとすればちっとも逆境は人間を成長させていないじゃないかと怒りをぶちまけたくもなるが、あまり頻繁に怒りをぶちまけていると周りから疎まれ、結果的に逆境に立たされ、成長もままならなくなる。コロナ禍によって感染および重症化せずとも、マスク生活やその他感染対策、それにともなう社会全体のいざこざ等によって呼吸することすら一苦労となった今、仮に逆境や苦労が人間を成長させ得るのだとしても、わざわざこれ以上逆境を増やす必要はないと思うのだが、飽きもせずにむやみやたらと他人に逆境や苦労の種を植え付けようとする者の存在を目にすると、やはり怒りをぶちまけてすっきりしたくもなるのだが、先述の通り、それがまた別の逆境や苦労を発生させることになりかねないので、薄い呼吸でじっとしているのが一番だと考え直すものの、母親の神経をすり減らせたであろう赤子時代の泣き声よりも何倍もやかましいエンジン音を響かせて走り回る成長の欠片も見受けられない阿呆など目にしてしまい、窓に向かって「やかましい!」と怒りをぶちまけてしまった私もまた「成長」とやらから遠のいてしまったのだろう。

 

筋肉痛に耐えて歯医者さんに褒められる

 おそらく人口が少ないゆえに、思ったよりも早くワクチン接種券が届き、予約に関しても苦労している方々に知られれば張り倒されかねない呆気なさで完了してしまい、なんだか申し訳ない気分にもなりつつファイザー製ワクチンの1回目の接種を終えた。

 接種場所が小児科病院だったためか、やたらと優しげな女性看護師に案内され、別の病室から聞こえてくる幼児の泣き声とあやす医師・看護師・親たちの声によって、通院と入院が日常だった幼き日を思い出し、郷愁のような気分を味わいながらの接種だったが、その精神状態は特に過剰な副反応を招く結果にはならず、接種部分を中心とした軽い痛みが2日続いただけで済んだ。歯磨きのやり過ぎで頻繁に利き腕に生じる痛みによく似ており、なんならその症状よりは痛みが少ないくらいで、不安に感じることもなかった。

 厄介だったのは、注意書きにもあるように、接種部分を入浴時にこすらないようにしなければならないのだが、採血時の注射よりも傷口が小さいため、保護パッドを剥がしてしまうとどこが傷口だかわからなくなり、結局左肩から二の腕にかけては慎重に素手で洗うことにしたのだが(注射した部分は清潔に保つ必要もある)、慎重になりすぎて「長風呂は控えてください」という看護師さんからの忠告は守ることができなかった。ごめんなさい、私は不衛生によって健康を害するよりは、洗い過ぎによって健康を害する方を選ぶ人間なのです。

 さて、接種自体はこのように特に問題もなく進んだのだが、30代の私にも接種券が届く地域ではありながらも、まだ高齢者以外の接種は進んでいないようで(働いている人たちは、都合の良い日時をおさえるのも大変なので、ワクチンへの忌避などなくても、なかなか順調にはいかないはずだ)、基礎疾患の有無や何かの事情で役所へ早めの接種を頼んだのかどうかなどを少し念入りに訊かれた。実際、周りの接種者と思われる顔ぶれも高齢の方ばかりで、幸い妙な因縁をつけてくる人はいなかったものの、居心地が良かったかと言えば嘘になる。人に怯え過ぎだと言われればそれまでだが。ただ、待合所にテレビがなかったため、私としては憎しみの対象でしかなくなっているオリンピックを目にしなくて済んだのは幸いである(前日に歯科医の定期健診を受けたのだが、待合所のテレビでオリンピックの中継が流れていたのが不快だった)。この状況下で、さらに交通規制などによる市民生活への迷惑までかけて開催されている祭りに対しては、仮に個人的に応援したい選手が好成績をおさめたとしても(まあ、特に思い入れのある選手などいないけれど)、浮かれる気持ちにはならないし、浮かれている者を目にするのも気分の良いことではない。

 

 

「下げ」、燃ゆ

 あくまで私個人の話であるが、応援は全く届いている気がしないのに、怨念の方は多少届いている気がする。思い返してみても、憎い相手が不幸に見舞われているケースの方が多いように感じる。逆に、いわゆる“推し”が自分の応援によって励みを得ているようには思えない。

 まあ、憎い相手の不幸に関しては「ざまあみろ」と思うが、自分が幸せになっているわけではないので、そういう能力があるのだとしてもさほど嬉しくはない。

 

(追記)ところで、「推し」の反対の言葉は結局なにが適当なのだろう。引きずり降ろしてやりたいような対象のことだろうから、タイトルにも使った「下げ」あたりが良いと思うのだけれど、どうだろう。

 

 

暑さ寒さも彼岸まで。でも、馬鹿は死ななきゃ治らない。

 両親共に2度目のワクチン接種を無事に終え、特に目立った副反応もなかった。強いて言えば、母が軽い筋肉痛を訴えた程度で、それも1度目の時だけだった(副反応は2度目の接種時に起こり易いと聞いていたが、母には当てはまらなかったらしい)。

 程良い(?)人口のためか、私にも接種券が届き、供給量の関係でどうなるかはわからないものの、ネット予約は済ませることができた。副反応よりも、接種予定日にとんでもない暑さになるのではないかという不安のほうが大きい。

 さて、両親の接種日はともにそこそこの暑さだったのだが、「肩を出しやすい服装で来てください」という注意書きがあったにもかかわらず、わざわざ厚着でやって来る者が目に入ったらしい。寒い日ならばともかく、6月~7月は北海道も暑い。時には全国で最も暑くなる場合もある。そんな時期に、ワクチン接種の注意書きを無視してまで厚着で現れる理由はなんなのだろう。新型コロナウイルスはワクチンの普及によって抑え込めるかもしれないが、この様子では熱中症による死者の根絶はさらに遠くなりそうである。

 もちろん、気温の感じ方というのは体調や体質等による個人差があるので、それだけでとやかく言えるものではないが、暑さを感じにくい人たちによって熱中症対策が疎かにされているのならば、それはもう無理解や無神経による間接的な殺人だろう。加齢によって暑さや寒さを感じにくくなるという話はよく聞くが、ひょっとして社会全体の高齢化、特に決定権を持つタイプの人間の老齢化が温暖化以上に熱中症問題を深刻化させているのではないかとさえ思えてきてしまう。

 とりあえず、暑いのは嫌。日本全体に冷や水を。

 

国立競技場のアラン・スミシー

 小山田圭吾氏が辞任したかと思えば、別の形で絵本作家のぶみが東京オリンピックパラリンピックに関わっていることがわかり、多くの人が「次から次へとよくもまあ……」と思ったことだろう。幸いと言っていいのか判断に悩むが、小山田氏の前例を見て本人か関係者の誰かが怖気づいた(倫理観を働かせたとはちょっと思えないので敢えて嫌味な言い方にした)のか、あるいは何か別の魂胆でもあるのか、すでに辞退した模様らしい。逃げ足は速い。

 それにしても、人間性はともかく、音楽家としては高く評価されていた小山田圭吾に比べ、作品そのものへの批判も多かった絵本作家のぶみが選出されていたのは、関係者のほとんどが彼の信者なのか、はたまた恐ろしく見る目がないのか。しかし、野村萬斎小林賢太郎も選ばれていることから考えると、NHK、特にNHK Eテレの番組に関わっていたクリエイターのなかから、知名度や作品の売上程度の基準で適当に選んだのではないかと思う。小山田圭吾、のぶみの両名がEテレの番組に関わっていたことをあげ、NHK全体を揶揄するような発言も見受けられたが、色々と問題はあるにせよ、NHKだって一枚岩ではないし、出演者・関係者には、これまでのオリンピック・パラリンピックに関する一連の不祥事とは縁のない、あるいは真っ向から反対の立場であったような人も大勢いるだろう。オリンピック・パラリンピック自体には真面目に頑張っている関係者やアスリートもいるとして擁護しておきながら、他のこととなると十把一絡げに否定したり、否定に同意したりする者が自分のなかでどういう整合性を保っているのかが気になる。

 また、「小山田圭吾に比べればのぶみはマシ」という意見にも首肯しかねる。別に「小山田圭吾の方がマシ」と言いたいわけではないが、それぞれの告白内容と態度を見ると、どちらの方がマシなどと判断できるものではないと思う。強いて言えば、作品自体でも多くの人を傷つけたであろうのぶみ氏の方が悪質(実質的な被害者は多いのではないか)という指摘はあり得るだろうし、一考に値する気もする。いずれにしても、どちらの方がマシかという点を殊更強調する必要があるとは思えないし、そこに妙なこだわりを感じさせる言説には、どちらか個人、あるいはジャンル全体への贔屓のようなものがあるのではないかと邪推させられる。

 

 余談だが、佐村河内守騒動の際、作家に不祥事があっても作品そのものを封印させたくない場合、ゴーストライターが存在したことにするというやり口もあり得るのではないかと考えたことがある。そんな「仕立て上げられたゴーストライター」に関する物語も構想してみたが、才能と努力の不足によりいまだ形にできていない。さらについでだが、小山田圭吾の後任として岡崎体育近田春夫眉村ちあきといった、ゴキゲンな(死語)方々が名乗り出ているけれど、新垣隆の名前が見当たらない。

 

ジョナスは2000年に25才になり、2021年の辺境の地では一人腐っている者あり

 腐るよりは干からびたい。

 ルチオ・フルチ作品的なゾンビよりは乾いたミイラで晒されたい。

 また一歩、死に近づきました。

 

さて、東京五輪パラリンピック開会式の楽曲を担当することが発表された小山田圭吾の過去のいじめ告白記事(1995年のQuick Japanでの発言。これまでにも何度か話題にのぼってはいた。この号は我が家の資料庫にも保管されています)に関して、いろいろと騒ぎになっているようで、なかには義憤が過ぎるように感じる者もいるが、本来のオリンピック/パラリンピックの理念からすればふさわしくない人選だとは思う。あくまで、「本来の理念」からすれば、だが。

 

「過去のこと」すべてがその人の今後の人生を無価値にするとは思わない。けど、この行為の継続性と残虐性を考えると、あえてわざわざ「栄誉(及び便益)を与える」必要はどう考えてもないでしょう。別に今から法廷で裁くわけじゃない、「栄誉を与えるのはやめろ」って話。 渡邉葉@YoWatShiinaEsq(Twitterより引用)

 

 基本的には上記の意見に概ね同意するのだけれど、ここまで不祥事が続き、それでなおコロナ禍においても強行されるらしい東京五輪パラリンピックに関わることが、はたして「栄誉」と呼べるのかどうかは疑わしい気がする。このタイミングにおける小山田圭吾氏起用の発表は、ある意味で「今回の大会らしい」展開だったのではないかと思うし、なんなら人間性や過去の所業はともかく音楽家としては素晴らしい小山田圭吾という存在ですら、今回の大会には勿体ないくらいで、いっそ過去も現在も人間的にめたくそで音楽家としても誰が見ても三流以下くらいの人物が適任なのではないかと意地悪く考えてしまう(ゆえに私は、野村萬斎さんや小林賢太郎さんには、できればこんな仕事は受けて欲しくなかったと思っている)。

 もっとも、上記「適任者」のような人物が音楽家として成功しているはずもないのだが(なにしろ音楽家として誰が見ても三流以下なのだから)、言い換えれば、音楽家ですらない人格破綻者の適当な鼻唄くらいが丁度良いと感じてしまうほど、今回のオリンピック/パラリンピックを憎くおもっているのである。どうしてもやるのなら、いつの間にか終わっていたくらいのものに留めてほしい。

 

キワノらしき果物と矢崎滋に似たおじさん

 「キワノ」……正式名「ツノニガウリ」または「ツノメロン(Horned melon)」。黄色の果皮にゴツゴツとしたトゲをもつ果実。果肉はゼリー状のエメラルドグリーン。

 

 より詳しく知りたい方は各自で調べてもらうこととして、この「キワノ」に関しては、長年気になっている薄らぼんやりとした謎の個人的記憶がある。

 おそらく、幼稚園入園前、偶然目にしたテレビ番組のなかで、今思えば矢崎滋に似たおじさんが、皿の上に盛られた皮も剥かれていないキワノをフォークで刺そうとしているのだが、不器用なせいか、はたまたキワノが想像以上に転がりやすいものなのか、どうにもうまくいかず、何度も挑戦している姿が映し出された。司会者らしき声が面白がり、古舘伊知郎福澤朗的な調子で実況しはじめ、ようやくフォークを突き刺すことに成功すると、そのまま皮ごと口に放り込んだ。

 私の脳味噌の片隅に収納されているのは、上記のような映像なのだが、はたして実際に放送された番組なのかどうか。ひょっとしたら、夢かなにかなのかもしれない。似たような番組があったのだとしても、いかんせん幼稚園入園前の幼児のいい加減な記憶なので、まるで違う内容だったのかもしれない。当然、矢崎滋氏本人ではない気もするし、似ていたかどうかすら怪しい。芸能人なのか一般人なのかも定かではないし、司会者も古舘氏や福澤氏風と言えたかどうか疑わしい(時代的に福澤朗ではないと思うのだが、幼稚園入園前の記憶かどうかさえはっきりしないので、可能性がないわけでもない)。余談だが、記憶のなかでは「キワノ」ではなく「ポテト」と表現されていた。ポテトのはずはないので、幼児の聞き間違いだろう。

 たったこれだけの情報で、しかも読んでくれている人が存在するのかどうかも怪しいブログに記したところで、謎が解けるなどとは思っていないが、なにかの間違いで奇跡が舞い込んできたら面白いなと、淡い期待を脳味噌の片隅で薄らぼんやり放置しておくこととする。