努力の必要性を説くための努力が不充分であるらしい人たち

 努力できるのは幸福である。

 努力が必要なのは不幸である。

 努力を強要されるのは被害である。

 

 充分な努力というものは、基本的に健康体でなければ難しいし、身体だけが健康であっても、その恵まれた身体を活かすことができないほど悪い環境に置かれていては意味がない。そのような状況を「充分な努力が可能な環境」へと変えることは、個人の努力でそうそうどうにかできるものではないはずだ。

 「逆境が人を成長させる」だの「結果が出ていないのは努力が不十分な証拠」だのといった言葉は、どうにも環境を整えるために知恵を絞るのが面倒な人間の言い逃れにしか思えず、特に逆境云々に関しては、逆境がなかった場合に本当に成長できなかったのか証明してからにしてほしい。まあ、ドラえもんの道具でも存在しない限り、不可能な証明であるけれど。

 健康で文化的な最低限度の生活が成立して、はじめて「充分な努力」も可能になる。それを整備するのが、政治家をはじめとする社会の仕組みを整える役割を担った者たちなのだろうが、これがまた「充分な努力」が難しそうな環境で蠢いているように見える(そもそも、そんなことを考える気がはなからなさそうな方々もいるが)。逆境によって真価が発揮されるのであれば、とっくに世界は桃源郷になっていても良いと思うのだが、そうはなっていない。空気の悪いところだらけである。

 “努力厨”などと呼ばれるタイプの者が、他人に努力を強要するわりに、充分な努力を可能にする環境を整えるための努力をしようとしないのは不可解だが、こういった方々は努力家ではなく、単に悪質な個人主義者なのかもしれない。

 

「降霊ドライバー」という不穏な誤変換

 通院先までの道のりは、やたらと免許を返納したほうが良いのではないかと思わせられる高齢ドライバーに遭遇する。ゴールドペーパードライバーな私では対応する自信がなく、バスやタクシー、あるいは同日に用事のある身内などに乗せてもらっている。

 しかし、いくら自分が運転せずとも、不安を感じる事態がこうも多発しては、せっかく心のケアのために通院しているのに、その道のりで精神を削られまくりで、ひょっとしていつも主治医に身体の状態を満足に伝えることができずにいるのは、そのせいなのではないかと、「あまり考え過ぎないように」と忠告されているのに、余計なことをあれこれ考え出してしまう。

 幸い、多少診察予約時間に遅れるのは、システム上特に問題はないらしく、そのことで気を揉む必要はないそうだ。だが、身の危険に関する不安は拭えない。かといって、通院をやめるわけにはいかない。

 それにしても、自分の運転技術に自信があったところで、これほど危険な運転手が氾濫しているのならば、よほどの必要性がない限り、自動車の運転など遠慮したいと感じるのが自然な感覚のように思うのだが、なぜ世間はそうでもなさそうなのだろう。この危険地帯でも、喜んでハンドルを握りたがれるような神経の図太さ(図太いのか、そもそも“無い”のかはわからないけれど)があれば、そもそも通院の必要性もなかったのだろうが、“死に易さ”と“死なせ易さ”が過剰に添加された状態の“生き易さ”が羨ましいかと問われれば、それは全く理想的とは言えない。ならば、たとえ生き辛かろうと、せめて“死なせ易さ”だけは回避しておきたい。それを(間違いであろうと)「優しさ」だと捉えてくれる人がいれば幸いである。

 

車は“悪魔”でも快適に暮らす道具(狭い日本を急ぎ過ぎた悲劇)

 煽り運転に関する報道が話題になるたびに、被害者側の過失を指摘する声もあがり、たしかに非があるように思えるものも少なくないのだが、わざわざ「煽らせ運転」などという言葉を使いたがる者を見ると、「あんたはきっと頻繁に煽っているのだろうな」と邪推したくもなる。しかし、いずれにしても感じるのは、悪質な煽りを行う者はもちろんのこと、煽り運転を誘発させかねない過失を起こし易い者、相手に非があったからといって煽り行為をする者、そして煽り被害に遭った際に冷静な対処ができない者、こういった者全てが、本来なら自動車の運転免許を持ってはいけないタイプの人間だろうということだ。

 悪質な煽り行為の被害に遭っても冷静さを失わずにいられる者は多くないとは思うが、しかし、自動車の運転というのは、その程度の技術と心構えの者に任せて良いものではないはずである。旅客機のパイロットが客より先に大パニックに陥っていたら、きっと非難されるだろう。無意味なほどの重低音を響かせながら、目立つことばかりに気をとられているような馬鹿が、ジープやらスポーツカーで我が家の前を通り過ぎているような日常はそもそもおかしいと思うのだ。

 何度も述べていることだが、やはりこの国は自動車(あとは酒)に毒され過ぎだと思う。上記したような者たちが運転免許を取得していること自体に問題があるし、そうならざるを得ないほど自家用車に依存させた社会こそ諸悪の根源だろう。公共交通機関が充実していない地方では、自家用車がないと不便なのは確かで、そういった事情から車嫌いの私でさえ周囲の圧力に屈して運転免許を取得してはいるものの、いまだに何故自分程度の技術で取得できてしまったのか理解に苦しみ、ゴールドペーパードライバーを貫いている。

 自動車の危険性に無頓着なまま、いきがって走り回るような連中に対する憎悪は、私のなかでスポーツ至上主義者たちへの憎悪と同等に長年煮えたぎっている。ヨーロッパのラリーで沿道の観客が粉塵のごとく撥ね飛ばされる様を衝撃映像特番などでよく見たが、自動車運転の危険性を軽視する者たちにも是非体験させてやりたいとすら思っている。

 

酷暑と汚水とカイワレ大根

 コロナ禍の収束は、まだ先のことになりそうだが、好きな作家やアーティスト、芸能人などが2度目のワクチン接種を終えた報告も耳にするようになり、個人的な不安材料は少しずつ解消されている。妙な話を信じて頑なにワクチンを拒否するような者も多いなか、そんな連中が撒き散らす飛沫によって応援している方々が重症化してしまうリスクが下がるのだから、ありがたい話である。やむを得ない事情もないのに拒否する連中自身の安全などもう知らん。

 さて、東京五輪開催直前のことだが、元競泳日本代表選手の松田丈志が、リオオリンピックに参加する前に数種類のワクチンを接種したと話していた。2021年の段階で松田氏が元気に話せているのだから、問題のあるワクチンでなかったことは確かであろう。しかし、参加するために数種類のワクチンを接種しなければならないような場所でオリンピックを開催すること自体どうかしていると今更ながらに感じる。東京五輪の中止を訴える声がひろがるなか(私も中止すべきだと考えていた。今でも中止すべきだったと考えている。そして、嘘でも「複雑な思い」を前面に出さず、開催を望んでばかりいたタイプのアスリートに対する憎悪も解消されていない)「リオでさえ開催されたのだから東京も開催されるだろう」という諦念のような意見は、たしかに的を射ていたのかもしれない。

 ところで、1996年のO157騒動の際、当初感染源とされたカイワレ大根の安全性アピールのために菅直人(当時は厚生大臣)がカメラの前で大量のカイワレ大根を食べてみせ、今でも時折話のネタにされてもいるのだが、東京五輪に関して推進する政治家やIOCJOC関係者が、クソ暑いマラソン会場を走ってみせたり、道頓堀レベルといわれたトライアスロン会場で泳いでみせたりしたという話は聞かない。狂牛病騒動の際にも、坂口力厚生大臣が牛肉の安全性アピールを行っていたはずだし(菅直人のカイワレと比べ、役得感もあったが)、1995年のフランス核実験でも政治家がタヒチの海を泳いでみせた映像を観た記憶がある。これらの政治家よりも「根性」がありそうなスポーツ大好き人間たちが、率先してこのようなパフォーマンスをしなかったのは何故なのだろう。

 もちろん、そんなパフォーマンスに効果があるとも思えないけれど、暑さ対策にしてもコロナ対策にしても、効果がないどころか逆効果のような案まで出していた方々が、ある意味「手っ取り早そう」なパフォーマンスに踏み切らなかった理由に関しては、なるべく陰謀論とやらには首を突っ込まないよう気を付けている私も、意地悪くあれこれ邪推してみたくもなったりする。

 

本日の星に願いを

 「こんなこと言うと嫌われるかもしれないけれど」だの「嫌われるのを覚悟で言うけど」だの、わざわざ嫌われるかもしれないと前置きして、自分は嫌われたことに気づけないほど無神経ではないよとアピールし、実のところ嫌わないでほしいことも匂わせ、なんなら嫌う奴が間違っているのだとさえ思っていそうな言い回しを多用する人間が世界中から嫌われますように(欲を言えば、嫌われたくない相手から真っ先に嫌われますように。むしろ、憎まれますように)。

 

バックドロップ中にドロップを舐めるのは当然危険である

 龍角散が「こっそりなめられる」を売り文句に「のどすっきりタブレット」のCMを放送し始めたのは、2018年の熊本市議会における「のど飴騒動」(質疑中にのど飴をなめていた議員が退席を命じられた騒動)がきっかけだったはずで、この騒動に関しては「日本社会の融通のきかなさの象徴」といった声があがり、私もそれに同意する。品位というのなら、居眠りや野次のほうがみっともないとも感じる。コロナ禍の現在からすれば、もはや忘れられた騒動のようにも思えるけれど。

 もっとも、飴をなめながら会話することが良いことではないと考えられはじめた原因は、おそらく不意に喉に流れ込んで窒息するといった危険が高そうだからではないかとも思われ、だとすれば何故「品位」だの「行儀」だのといった、わざわざ理屈から遠のきたがるような言い方をするのだろう。これは、なにも「のど飴騒動」に限ったことではなく、規則と呼ばれるものには、本来それが定められた理由があるはずなのに、それを説明することもなく、いつの間にか「規則を守る」ことだけが求められ、しまいには必要性のない規則が乱立し始めたりもする。ブラック校則などは、その典型例と思われる。「校則ではなく拘束」などという駄洒落も、おそらくすでに手垢のついた言い回しになっているだろう。それにしても、理屈や説明を放棄したがるのはなぜなのだろう。

 さて、のど飴といえば、私はビートルズがファーストアルバムのレコーディング中、ジョン・レノンがのど飴をなめながら歌っていた(特に「ツイスト・アンド・シャウト」は喉がいかれるので、最後でなければいけなかったらしい)と聞いた時、舌が器用なのだなと感心したのを覚えている。喋るだけならともかく、歌いながらとなると、喉に詰まらせずにいられる自信がない。日本人がLとRの発音の違いを会得するのを苦手とするのは、日本語では馴染みの薄い舌の動かし方だからだろうが、ひょっとして英語に馴染んだ者の舌ならば、のど飴をなめながらの歌唱も容易だったりするのだろうか。だとすれば、「海外(英語圏)では良くても、日本では駄目」とする論拠の一端にはなるのかもしれないので、品位や行儀を大事にしたい方は、是非そのあたりを真剣に研究してみてほしい。私はしませんが(結果だけ教えてください)。

プリーズ・プリーズ・ミー

プリーズ・プリーズ・ミー

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クマさんとサルマタケ

 松本零士が押入れに生えたキノコをちばてつやに食べさせたことがある(ラーメンの具にして出した)というのは『トリビアの泉』で知った話だが、食べさせたということよりも『男おいどん』に登場するサルマタケが実在したことに驚いたのを覚えている。サルマタケの正体は、どうやらヒトヨタケのようで、キノコ好きの間では、アルコールと共に食すと中毒症状を起こす場合があることで知られている。松本零士×ちばてつやという顔合わせでラーメンを食している場には、たぶんアルコール類も存在したと思うのだが、お二方が件の食事が原因で体調を崩したという話は聞いていない。

 得体の知れないキノコを他人にも食わせて健康被害まで起こしたのは、“ゲージツ家のクマさん”こと篠原勝之で、若き日の貧乏時代に、クマさんの部屋を訪ねてきた友人が「食い物の匂いがする」と何やらクマさん本人も存在を忘れていた鍋(だったと思う)を引っ張り出し、開けてみると出てきたのは大きなカビの塊のようなもので、水洗いするとそれは巨大なシイタケだった。栽培用のものをしまったまま忘れていたらしい。健康で文化的な最低限度の生活状態であれば、そんな危険なシイタケを口にすることはないだろうが、飢えていた二人は煮込んで食ったという。そして、クマさんの友人は飢えの解消と引き換えに重大な健康被害に見舞われた。

 これは、たしか『いつみても波瀾万丈』で紹介されていたエピソードだったと思うが、元々丈夫だったのか、不健康で非文化的な最低の生活によって何らかの耐性を得たのか、クマさんは無事だったらしい。シイタケの所有者はクマさんだったのだろうが、引っ張り出してきたのは友人なので、自業自得と言えなくもない。願わくば、自分が友人の家の謎の食材を引っ張り出して煮込んで食うほどの生活に陥らないまま生涯を終えたい。もっとも、まともな食材であっても勝手に引っ張り出せるほど気心の知れた友人が存在するのかどうかのほうが今の私には重大な問題だとも言える。