信じることはできないけれど、信じたいのは嘘ではない

 「“あの人のことを悪く言う人はいない”というのは、周りに他人を悪く言うような人がいないということ」といった旨の発言を耳にしたのだけれど、周りの人間が“あの人”以外の悪口を言っていないのかどうかなど確認しようもないので、それがわからない限りは希望的観測でしかない。そのように思って周りと接すること自体は悪い事ではないだろうが、定義にまでされるのは困る。そうやって罪人を罪人と知らずに庇った者たちも大勢いたことだろう。

 まあ、人間の思考の癖というか感情の癖とでも言うべきものかもしれないので、多少は仕方のない面もあるのだろう。しかし、普段は他人の「身内擁護」を鬱陶しいほど厳しく批判していた者が、いざ自分の信じる対象への疑惑となると、急に支離滅裂な呟きを投下しはじめる姿は大袈裟ではなく吐き気を催す光景で、もしも私が突然、犬や猫を虐殺するような凶行に及んだとすれば、それはきっと上記したような振る舞いを見せる者のSNSアカウントのアイコンが犬や猫だったせいである。勿論、それで私の罪が軽くなるわけではないし、決して許される行為ではないのだが、原因の一つであることは確かである。そうならないために、さほど動物好きでもないのに、動物が好きになりそうな映像やお話を積極的に摂取したりもしている。この涙ぐましい努力を誉めてくれる人がいたなら、私はその人のことを「信じたい人リスト」に加えるだろう。

 なぜか話が、私が動物愛護法に抵触する危険があるかのような流れになってしまったが、罪なき動物たちが身勝手な八つ当たりを受ける悲劇を避けるためにも、SNSのアイコンは自分自身の姿以外では、何の生物も企業も関係のない無機物や文字にしておくのが良いかもしれない。普段からそこまで考慮して生きている相手であれば、これもまた私の「信じたり人リスト」の候補となるだろう。

 

電化製品は火葬場の夢を見るか?

 家電が駄目になるタイミングが重なるというのは、なかなか精神にくるものがある。おおむね、家電を買い替えるタイミングというのが、引っ越し等で同時期になったりするため、必然的に寿命が同じくらいの製品がたて続けに御臨終なさるのが要因とひとつとして考えられるが、それだとどこかのタイミングでいずれかの製品をまだまだ使えるうちに新調しなければ、その負のサイクルを崩すことができなくなるわけで、貧乏性としてはなかなか踏ん切りがつかないし、そもそも要因のひとつとして考えられるだけであって、明確な原因であると自信を持って言えるわけでは決してない。

 電気ポットの保温効果が弱まっているようで、しつこいほど沸騰させるようになったのを皮切りに、HDDレコーダーが言う事を聞かなくなり、洗濯機が嫌な音をたて、余波なのか何なのか家電ではないが、私の眼鏡まで壊れた。小さな不運の積み重ねで苛々も溜まり、ちょっとしたことで声を荒げそうになったり、涙が出そうになったりもする。「明るい気持ちで臨めば、おのずと幸運も舞い込んでくるよ」などと助言したがる者もいるし、確かにそういう面もあるのだろうが、そう言われて素直に前向きな気分になれるのであれば、そもそもこれほど落ち込んでおらず、むしろその助言が小さなストレスの一部となる。

 「むしゃくしゃしてやった」という犯罪の動機はよく耳にするし、法を守って生きている状態で聞けば「その身勝手な理由を聞かされるほうがむしゃくしゃするわ!」と怒鳴りたくもなるのだけれど、おそらく、今の私にも降りかかり続けているような小さな不運の積み重ねによって引き起こされた凄惨な事件がたくさん存在しているのだろう。実際に相手を救える自信と実力がなければ、軽はずみで薄っぺらな助言など効果がないどころか、下手をすれば自分の命を奪われる原因ともなる。もっとも、そういった想像が欠片も浮かばない能天気なおめでたい方でなければ、薄っぺらな助言を堂々と口にしたりもしないのだろうけれども。

 

想像してごらん。世界のクロサワに家を壊された者が映画を楽しめるかどうかを。

 「やってみなくちゃわからない」と助言するからには、「やってみたけど駄目だった」場合の責任をとって欲しいと思うわけで、ゆえに私は、たとえ「やってみなくちゃわからない」という考えが浮かんだとしても、自分だけの問題ならばともかく、他人への助言となると確実に責任がとれる場合以外には、決してその台詞を軽々しく口にしないよう心掛けている。

 そもそも、私には「責任恐怖症」とでも呼ぶべき性分があるようで、一時は「映画を撮りたい」とたしかに考え、映画の専門学校にも入学したものの、今では「やっぱり無理」「才能の有無は別としても、どうしても関わるのなら脚本か原作だけ」と心に決めているのも、この性分ゆえである。脚本/原作だけであれば、うまくいけば自分だけの責任にできるし、責任の範囲が広がっても、その作品の制作関係者までで済ませることが可能だろう(それも充分に重いが)。しかし、撮影現場に出向くとなると、近隣への撮影交渉、時には一般車両を停めさせてもらったりと、映画関係者以外への責任がわさわさと生じてくる。古いタイプの横暴な映画人が現場で権力を発揮していたりすると、「あの家の木が邪魔だから切らせてもらえ」だの「向こうに見える家が邪魔だから二階だけでも壊せ」だのといった無茶な要求が飛び交う可能性も高く、板挟み状態で精神を病み、その先に見える未来は自分が死ぬか、周りを殺すか。まあ、後者の場合の最終的な責任も自らの死ということになるだろうから、結果は基本的に同じである。だが、私の死を持って償おうとしたところで、奪った命は戻ってこないし、壊した家は元通りにならない(どれだけ精巧に再現しようとも、まったく同じにはならないし、一度自宅を壊された家主の心の傷を埋めることもできない)。

 「命を懸ける覚悟がないなら映画製作など関わるな」という意見もあるだろうが、確かに命を懸けた芸術家に対する憧憬のようなものは私にもあるけれど、しかし、こと映画製作において上記したような無茶な要求を実行させられるのは、監督でも脚本家でもなく、いつか自分の思い描く映画を撮るために頑張っている助監督をはじめとした末端のスタッフたちである。経済的な面のみを考えても、そう容易に責任がとれる立場ではないだろう。

 このような不条理と言っても差し支えない責任の在り方は、映画製作に限った話ではなく、必死に責任をとらなければならないような事態を避けて生きていても、とれるはずのない責任を負ってしまう可能性に世界は満ち満ちている。それに気づいていながら、さして大きな不安もなく生きていけるというのは、よほど人生に余裕があるのか、はたまたとんでもなく無責任かのどちらかではないかと思う。

(余談:改めて考えてみると、たとえば植木等が演じつづけたような無責任男というのは、責任をとらなくても済むよう立ち回ることに長けているだけで、とるべき責任を放棄したり押し付けたりしているという印象は薄いように感じる。むしろ、一連の無責任シリーズに眉をひそめていた者のほうが、実際は無責任だったのではないかとさえ思う)

 

お猫を撮りたがるカモども(猫たちはあなたの危機意識を知っている)

 『世界ネコ歩き』でお馴染みの岩合光昭によると、猫に対しては「君に興味はないですよ」というような雰囲気を出しておいたほうが警戒心を解いてくれ、結果的に交流もしやすくなるらしい。たしかに、私はそもそも猫が極端に怖いわけでもなければ、見つけ次第抱き寄せようと躍起になるほどの猫好きでもなく、そのためか実家の庭を手入れなどしていると、いつの間にか野良猫がこちらをじっと眺めていることがあり、そのまま放っておくと知らぬうちにすぐ傍に鎮座していたりもする。猫と人間の平和で正しい関係性のようにも思えるので、悪い気はしない。

 しかし、改めて思い返してみると、徒歩であちこち出歩くことは圧倒的に神奈川での専門学校時代のほうが多かったのに、そこでは猫を見かけた記憶がない。松山千春の「大空と大地のなかで」そのままな景色が広がる実家近辺のほうが野良猫の数も多いのかもしれないが、都会は都会で野良猫にとって暮らしやすい場所であろうし、犬と比べれば駆除対象になることも少ないはずだ。実際、コンビニ裏の「猫だまり」など、都会の猫の姿はSNS等でも頻繁に目に入ってくる。

 神奈川での私が猫に対して興味津々だったのならば、岩合さんの理論的に出くわす頻度が低くなっていたのもわかるが、別にそういうわけではない。ただし、猫に限らず、周囲に対する警戒心は強くなっていたかもしれない。実家の庭では、熊と蜂と猟師の流れ弾くらいしか特別に気をつける必要もないが(その3つだって、蜂以外は視界の隅に入ったことすらない)、神奈川では不快害虫の類も含めると、アンテナの感度を高めておくべき対象が山ほど存在していた。そんな私の(過剰だったのかもしれない)警戒心を察知され、猫たちに避けられていたのかもしれない。

 だとすると、都会において猫と遭遇しやすい者は、危機感の足りない人物だということになりそうだ。この理論が定着すると、きっと遭遇した猫の写真をSNSに上げがちな者は、ひったくり等にも狙われやすくなるだろう。今のうちから要注意である。

 

僕の見たスピルバーグの話していた相手は無線士の父親と宇宙人ポール

 「マーシャル諸島ラゴス島に生息していた恐竜の生き残り(ゴジラザウルス)が、ビキニ環礁の水爆実験によりゴジラ化した」

 『ゴジラVSキングギドラ』で語られるゴジラ誕生秘話である。劇中では、ゴジラに変貌する前のゴジラザウルスを別の場所へテレポートさせるため、太平洋戦争中のラゴス島へタイムトラベルを行うのだが、主人公たちの乗るタイムマシンの光を見た米兵が部下に対し「未来の息子に話してやれ、スピルバーグ少佐」と語りかける場面がある。この「スピルバーグ少佐」は、当然スティーヴン・スピルバーグの父親であるという示唆で、いわば制作側のちょっとしたお遊び的オマージュである。

 実際のスピルバーグの父親は、B-25の無線士を務めていたらしい。『ゴジラVSキングギドラ』に登場するスピルバーグ少佐の役割が具体的に何だったのかはよく分からないが、マーシャル諸島付近の軍艦上でUFOを見たという話は聞いたことがない。しかし、幼い頃のスピルバーグ少年に流星雨を見せて宇宙への興味を抱かせたのは事実らしく、ひょっとしたら、戦場で何か不思議な体験をしたことはあるのかもしれない。未来の息子に話したかどうかは別としても。

 さて、前作の『ゴジラVSビオランテ』において、物語の重要人物でもあった「サラジア共和国」の工作員役を、他の外国人俳優の通訳として現場に来ていただけのマンジョット・ベディにしてしまった反省からか(オーディオコメンタリーで「外国人キャストはもう少しきちんとキャスティングすれば良かった」と監督の大森一樹が語っている)、『ゴジラVSキングギドラ』には、チャック・ウィルソンをはじめ、公開当時人気のあった外国人タレントが数名出演している。スピルバーグ少佐を演じたのはダニエル・カールで、その上官役にはケント・ギルバートという、今ではおそらく共演することもないであろう二人の貴重なツーショットが上記シーンだったわけである。ちなみに、ケント・デリカットとケント・フリックは残念ながら出演していない。

 ところで、チャック・ウィルソンと共に未来人を演じたリチャード・バーガーの本業は「国際研究家」らしいのだが、映画公開当時の私は、何かの番組で和田勉らと駄洒落対決をしている姿くらいしか知らず、勝手にコメディアンだと思い込んでいた。もっとも、この時期の「外国人タレント」の多くは、頻繁にテレビバラエティでひょうきんな姿を見せてくれていたため、総じてコメディアン的な印象があった。しかし、実際に本業もコメディアンだと言って差し支えなさそうなのは、今回の日記上で挙げた中だとケント・フリックだけである。そんなケント・フリックのコメディアンな勇姿を堪能できる映画は、ゴジラシリーズではなく岩井俊二監督の『スワロウテイル』だったりする。

 

ここは、アルカローズの村よ

 RPGに登場する町や村の入口付近には、「ここは○○の町(村)よ」と地名を教えてくれるだけの人物がよくうろついているのだが、基本的に何度話しかけても同じ反応しかしない彼ら彼女らに対し、しつこく話しかけ続けると、そのうちブチ切れて襲いかかってきたりはしないだろうかと考えていたことがある。スタッフの遊び心や悪戯心による隠しイベント等は珍しくないし、その中には町や村の人たちとのバトルに発展するものも存在する。ゆえに、なにかしらの特別な反応があるかもしれないと、実際に延々と“入口の人”に話しかけた経験もあるのだが、今のところ喧嘩になったことはない。私が知らないだけで、そういった展開が隠されているゲームがあるのなら、是非教えていただきたい。

 ところで、この“入口の人”たちだが、RPGの世界というのは概ね町や村の外には魔物がうろついているわけで、戦士や兵士姿の番兵らしき人物が入口を警護している場合も多く、そこから考えると、常に入口付近をうろついているということは、それなりに腕に自信のある人物なのではなかろうか。レベルの低い段階で、下手にしつこく話しかけ続けると、瞬殺されてしまうかもしれない。その分、得られる経験値が高い可能性もあるが、特殊な戦闘では経験を得られないこともあるので、やはりリスクが大きい。

 いずれにせよ、金さえ払えば町内の武器屋・防具屋でラスボスに立ち向かえるほどの装備を整えることも不可能ではない世界である。世界を救う勇者だからといって、一般人に横暴な態度で接すると、思わぬしっぺ返しを食らうこともあるのだろう。

 

そして血が滲むほど身体を洗う

 仮に必ず願いの叶う方法があったとして、その方法によって好きな人の幸せを願った途端、相手への想いが冷めるのではないかと考えることがある。自分が相手を好きでいることが相手にとっての不幸に繋がるのであれば、「願いが叶う」は「自分の想いが冷める」のと同義である。もちろん、結果的には両者にとって幸せだとも考えられるが、必ず願いの叶う方法で幸せを願いたくなるほどの相手に対する想いが冷めたら、それはそれで願った側の生きる糧が失われるのではないかとも思う。想いは冷めているから、ショックを受けるということもないのだろうが、しかし、廃人になる危険性はあるのではないか。

 自己肯定感の低い者は、こういった八方塞りな思考に陥りやすい。私自身、その傾向がある。ゆえに、以前にも述べた通り、自殺を止めるための台詞として某所で挙げられていた「橋本環奈がお前と付き合いたいって言ってたぞ(もちろん、橋本環奈の部分は、止めたい相手の好みの人物に変換可能)」は、それで自殺を思い留まれるだけの自己肯定感があるのならば、そもそも自殺を考える可能性自体低い気がする。そもそも、嘘だし。

 「会いに行けるアイドル」というのも、私のようなタイプの人間からすると、あまり意味を成さなくなる。もちろん、AKBグループをはじめとするアイドルたちが、このコンセプトによって人気を得て、(良い面も悪い面も含めて)スリリングな魅力を構築したことは確かだろうが、アイドルに限らず、憧れの相手に会っても自分の存在自体が相手を不快にさせるのではと不安になるような者にとっては、好意を持ってもらえたらなんて夢のまた夢で、言い方は悪くなるが「金蔓の客」としてすら扱ってもらえるかどうか心配になるのである。なんならあらかじめ催眠術かなにかで相手にとって好ましい人物に映るよう仕掛けておいてほしい。いや、それだと催眠が解けた後、相手が地獄を見る可能性が出てくる ゆえに「不快ではない印象に残りにくいただのファン」くらいに見えるような催眠術をかけておいてもらいたい。それでも「術が途中で解けたらどうしよう」などと考え始めてしまうのだろうから、幸せは尚更歩いてこない。嫌悪感を抱かれて、へこんで帰ってくるためだけに、金と時間を浪費したとなれば、元々低い自己肯定感の人間がそのまま生きていけるとは思えない。

 結局、平気で会いに行けるだけの自己肯定感を持った者たちに対し、歪んだ羨望と八つ当たりでしかない憎悪を抱きつつ、人知れずお金を落とすことしかできないのである。

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