冷たい校舎じゃ眠れない

 愛知県で起きた中学生刺殺事件の翌日、事件のあった中学校での全校集会において校長が「この中学校はみんながひとつの家族のような学校だと思っている」と語り、全員で黙祷したとのことだが、加害者の少年が供述している通りのいじめがあったのかどうかを抜きにしても、家族間殺人の多さを思えば、皮肉としか聞こえない発言に感じてしまう。たしかに、起きて顔をあわせている時間は、実際の家族よりも学校の人間の方が長い場合が多々あるのだが、それゆえにちょっとしたことが悲惨な結果を招く可能性も高いのだろう。いろいろと抱え込んでいる側からすれば、「みんながひとつの家族」などと言われれば、余計に絶望的な気分にもなり得る。

 考えてもみれば、学校という場で居眠りするなど、よほどの寝不足でもない限り、不用心極まりないことである。マナーだの礼儀だのというレベルの話ではない。その気になれば、後ろの席の人間が首の付け根に尖った筆記用具を突き刺すことなど容易いのである。授業態度として問題にするよりも、雪山遭難のように「寝るな!寝たら、死ぬぞ!」と叩き起こした方が良いかもしれない。実際、命にかかわるのだから、体罰に強く反対の立場の私でも容認しよう。修学旅行中に熟睡できるというのも、警戒心がひどく欠けた所業である。

 しかし、今日まで生きてこれたから冗談交じりに語れるものの、改めて考えてみれば、小・中・高と命も失わず、五体満足のままでいられたのは結構な幸運だったと思えてくる。学校にはカッターナイフもあれば包丁もあり、バットやバールもある。火を用意するのも難しくないし、塩酸などの劇物にも手が届く。わざわざ武器など配らなくても、学校生活は常にバトル・ロワイアルなのである。仕組みとして、根本的に無理があったのではないかと思うのだが、おおむね楽しかったと偽りなく感じている者もいるらしいので、解決どころか改良さえ希望が薄いのも無理はない。

 いずれにしても、件の校長の発言は、本心であれ取り繕った綺麗ごとであれ、私には受け入れ難いものである。

 

家に帰って卒業して記憶と折り合いをつけるまでが修学旅行

 私の父は、現在70代前半で、高校時代の修学旅行は空路ではなく、長い列車の旅だった。観光の記憶よりも、列車内の記憶の方が濃いらしい。

 それだけ列車移動の時間が長かったということもあるだろうが、それ以上にクラスメイトの女子が一人、重度のホームシックで精神を病んでしまったことが影響しているという。とても物静かな生徒だったはずが、やけに他の乗客に話しかけたり、車内を歩き回ったりしはじめ、引率の教師だけでなく、生徒たちの彼女の言動を注意深く見守るようになった。

 結局、自宅に到着すると押入れに閉じこもってしまい、以後は一度も登校してこなかったという。修学旅行に関するトラブルは私の時代にもあったし、それなりに深刻な話も聞いたことはある。ホームシックに陥るという話も特に珍しいわけではないようだが、ここまで重度のものは父の話以外では聞いたことがない。根本的に旅行の行程に無理があったのだろう。

 まあ、かくいう私も高校時代に修学旅行をボイコットしようとした人間なのだが、ホームシックというよりは、信用ならない連中との集団行動から抜け出したいというのが本音だった。どうにか参加免除の権利を獲得しようと、出発前の健康調査で事細かに体調の不安な点を申告したものの、職員室に呼び出されたことはないのに保健室に呼び出され、保健教諭からカウンセリングにも似た説得を受けてしまい、さすがに事が大きくなるのが面倒になって観念したのだが、実際の旅行中も「帰りたい」というよりは「逃げたい」というのが近い感情だった。私の呪いのような思いが妙な形で通じたのか、訪れた某テーマパークが翌月になってちょっとしたトラブルに見舞われたりもした。いや、さすがに私のせいではないと思うが。

 幸い、空の便が一般化しきった時代だったので、父の代ほどの長期スケジュールではなかった。それでも、あまり思い出したくない苦しい時間だったのは確かで、今もたまに旅行中に深刻なトラブルに巻き込まれる夢を見てしまうのは、後遺症と言って良いだろう。そして、私と似たような感覚を持った何割かの現代の学生たちが、コロナ禍によって修学旅行をはじめとする学校行事を避けることができたのを羨ましく思うのである。

 

散々クド

 『孤独のグルメ』でお馴染みの久住昌之泉晴紀とのコンビ「泉昌之」名義で発表した短編漫画『最後の晩餐』(名短編集『かっこいいスキヤキ』収録)は、スキヤキに対する己の美学を貫く男の悲喜劇(と言って良いかどうかはわからないけれど)であるが、作中に豆腐の口を開け、肉を挟み込むようにして食すという技が描かれる。「これはなかなかテクニックがいるぞ」と主人公が言うように、私には実践できるほどの器用さはない。

 しかし、豆腐と肉を同時に食すのが「なかなかうまい」ことは事実のようで、肉をあまり好まない者に私にとっては、むしろ、そうでもしなければ肉を食すことができないのだと最近になって理解した。それも、脂の少ない豚肉限定の話であり、牛肉などは近づくことすら拒否したいほどである(匂いからして、私にはくどくて耐え難い)。警戒することなく近づけるのは、幼い頃から鶏肉だけなのだ。

 ゆえに、そもそもスキヤキなど自分から進んで食卓に出すことなどなく、「豆腐と同時に食せばなんとかいける」のが判明したのも、たまたま一口くらいは食さなければ申し訳ないような状況に置かれたからである。前述のとおり、豚肉だったから助かったものの、牛肉であれば豆腐の力を借りようが、手をつけない以上に無礼な生理現象(=嘔吐)を披露することになっていただろう。

 ところが、世界は私の嗜好を否定するかのように、牛肉的クドさに溢れているように感じる。コロナ禍以前より外食が苦手だったのは、多くの場所で耐え難いクドさをぐいぐい推してくるからでもある。生野菜すら排除し、これでもかと味付けされたものばかりが売られるようになってしまえば、きっと私は生きていけないだろう。そう遠くない未来なのではないかと、少々不安に思っている。


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じーっとみてると盗人に思われちゃうよね

 映画館で拾った財布を係員に渡したものの、その後どうなったのかが分からずじまいで少々不安だという話は以前書いたが、財布に限らず落し物を見つけると、そもそも触れて良いものかどうか悩んでしまう。

 別にコロナ禍だからというわけではなく、持主が他人に触れられることを極度に嫌がる人物だった場合、嫌な思いをさせてしまうだけでなく、下手をすれば無茶苦茶な因縁をつけられたりして警察沙汰になったらどうしようなどと悪い方向への想像力だけが発揮されてしまうからである。目の前に持主がいて、落してしまったことに気づいていない場合などは特に悩みどころだ。自動車が嫌いなのに、常にドライバー手袋を鞄に潜ませているのは、こういった場合への備えでもあるのだが、触れる直前に装着したことを知られれば、それはそれで相手を不快にさせそうである。「てめえ、俺の財布が汚いとでも言うのか!」といった具合に。

 こういった性分なので、落し物を発見してしまうと、すぐには手にとらず、次にどう動くべきかあれこれ考えてしまう。しかし、これはこれで盗むチャンスを窺っているようにも見えるだろう。手をつけた瞬間に正義感の強い誰かが取り押さえにくるかもしれない。だが、私が拾わなければ、本物の盗人が奪い去ってしまう可能性だってある。結局、盗人に思われることを覚悟で拾うはめになるわけだが、悪い事をしているわけではなく、むしろ良い事をしているはずなのに、なぜ私がここまで悩まねばならぬのかと腹立たしい気持ちにもなってきて、なにか大きな見返りが欲しくもなるのだが、今のところ、小さな見返りすら味わえたことがないのだった。


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絵を描かされた子供たち

 白い画用紙に黒色で斜面を表す線を一本描く。線の上には先の曲がった板を足に装着し、両手に棒のようなものを持った人間らしき形を描き、あとは左上か右上の余白に記号的な太陽を描いておく。これで3・4時間目「ずがこうさく」の授業での課題「スキーきょうしつのえ」は完成である。

 これは小学校2年の時、図画工作の担当教師(教頭先生が担当だった)が“卒業すべき絵の描き方の例”として語っていた内容である。決して、ここまで適当な絵を提出した過去が私にあるわけではない。いくら絵が苦手で先生も温厚な方だったとはいえ、あからさまに手抜き丸出しな代物を授業で提出するほどの度胸はなかった。

 ゆえに、それなりに真面目に頑張って描こうとするのだけれども、いかんせん苦手なものだから早く片付けてしまいたくなるし、かといって冨樫義博じゃないのだから、誰が見ても未完成な絵を提出することもできない。そもそも、未完成状態でも冨樫義博ほどの画力があれば苦労はしない。下手な人間が自己判断で上手に描こうとすると余計に悲惨なことになり、最悪の場合、教師に叱られ級友に馬鹿にされ、親に先立つ不孝をお許し願わなければならなくなる。結局、真面目に取り組んだ様子を匂わせつつ、下手なりにも酷く馬鹿にされる心配の少ない略画的措置で大部分を誤魔化したものを提出するわけだが、これが義務教育期間ずっと続くのかと思うと、やっぱり先立つ不孝をお許し願いたくもなった。

 他人が見て感心するほどのものだったかは別として、作文であればまったく苦に感じることはなかった。周りは絵よりも作文を苦手としている者が多かったように記憶しているが、義務教育期間中の作文というのは、たまに自分で朗読させられることがある程度で、あとは学級文集や学校文集に掲載されるだけであり、優劣に関わらず、そうそう級友の目に触れるものではない。傍から覗き見するだけで、ある程度の技量が分かってしまう絵のほうが、苦手とする者の心理的負担は大きいように思う。そうでなければ、作文がまったく苦に感じなかった私が、そのことで良い思いをした記憶がないことの説明がつかない。学校便り等の面倒な文章仕事を回される機会が増えただけである。

 もちろん、全ての学校や地域がそうだとは思わないが、勉強ができないよりも運動ができないほうが馬鹿にされ易く、文章が下手であるより絵が下手なほうが馬鹿にされ易い傾向が強いような気がしてならない。自分が貧乏くじを引かされたような経験ばかり思い返してしまうせいだろうが、いまだに逆のタイプの人間を目にすると抑えがたい憎しみが湧き上がってきてしまう。(追記:SNS上でよく見かける、思慮の浅さを可愛げで装った絵柄によって誤魔化したようなコミックエッセイもどきに嫌悪感を抱き易いのも、きっと同じ理由だ)

 

憎悪対象である某球技への心情と信条

 北海道日本ハムファイターズの監督、否、BIG BOSSに新庄剛志が就任した。地域密着し過ぎな感もある地元新聞を含め、連日各種メディアがあれこれ騒ぎ立てている。

 新庄剛志氏は嫌いじゃない。古書ではあるものの、関連書籍を読んだこともある。私にとっては、ただただ不快で憎悪の対象でしかない人間の多い日本の野球界において、嫌いじゃないどころか「けっこう好き」と言っても差し支えない存在だ。しかし、だからこそ、少々気の滅入る点もある。

 嫌な意味での古めかしい思想が根強そうな日本野球界に風穴を開けてくれるのは構わない。むしろ、大いに期待したい。だが、風穴が開いたところで、長年の野球界に対する私の怨みがすぐに消えるわけではないし、消えたところで熱心に応援するようになるわけでもない。新庄剛志という人間が好きで、野球への怨みも消え去ったとしても、別に野球が好きになるわけではないのだ。私の好きな世界は別のところにある。

 新庄BIG BOSSによって停滞気味の日本野球界に活気が戻った場合、おそらく特別番組等も増えるだろう。ファイターズの本拠地である北海道なら尚のことだ。いくら新庄個人への好感をこれでもかと高めてみたところで、ファイターズの特番を私が楽しみきれるわけがない。それだけならともかく、なにより問題なのは、他の番組が削られる可能性も増えてくることだ。特番だけでなく、試合中継の延長もより長い時間を割かれる危険性も出てくる。

 昔ほど熱心に鑑賞したいテレビ番組も減ってはしまったのだが、どういうわけか私が気になっている番組を狙いすましたかのようにスポーツ中継が割り込んでくることが多い気がする(あくまで気のせいなのだろうが、やはり怨みは強まる)。そんな惨事が増えることを想像すると、新城BIG BOSSによって日本野球界が活気づいてしまうのは、あまり喜ばしいことではないのである。

 活気づくのなら、せめて専門の有料チャンネルに喜んで加入するような野球ファンばかりになってくれればありがたいのだが、そんな都合の良い展開は望めまい。実現されたとしても、それは来季から急に導入されるようなものでもない。

 繰り返すが、新庄剛志個人のことは嫌いではない。嫌いではないからこそ、想像し得る私にとっての最悪の展開になった場合、怒りのぶつけどころまで失ってしまうのが厄介だ。個人としても不快なだけなあいつとかそいつとかなら、隠れて様々な呪いの術法を試しても心は痛まないし、人生を捨てる気になるほど怨念が溜まったのならSNSで罵詈雑言を吐き散らかしたり、いっそ角材かなにかで襲撃して力一杯ぶん殴ってしまってもいい。だが、相手がBIG BOSSとなると、どうにも躊躇いが生じてしまうのである。

 

骨を砕かせて歯を磨く

 右腕の鈍痛がどうやら歯磨きのやり過ぎによるものだと診断されたものの、歯医者さんから褒めてもらうことに命をかけている私には、これまでより磨く力を抑えることはできても、磨く時間を短縮することはできない。力を抑えている分、長くなっている気もする。これでは回復のスピードよりも痛めつけられるスピードが勝ったままで、一向に良くならないだろう。

 しかし、他に褒めてくれる人がいないので、念入りな歯磨きを断念するわけにはいかない。だが、腕が完全に駄目になってしまっては元も子もない。そんなわけで、どんづまりの方向に向かいがちな我が脳味噌の導き出した答えは、齢三十五にして両利きになるための訓練を始めるというものであった。

 「右腕が疲れたのなら、左腕で磨けばいいじゃない」というわけである。西尾維新の『〈物語〉シリーズ』に登場する羽川翼は、右手で勉強するのに疲れたら左手にペンを持ち替え、左手が疲れたらまた右手に……を繰り返して両利きとなったらしいが、人外だらけの作中においても規格外とされるキャラクターを手本にしようというのだから、これはもう奇行と言っても差し支えないかもしれない。そもそも、医者に諭されるほど歯磨きに熱中している時点で充分に奇行だとする意見もある。しかし、繰り返すが、そうでもしなければ褒めてもらえないのだから仕方がない。もし、心配してくれるのなら、なんでもいいから私を褒めるべきである。褒めるべき点が見つかるとは思えないが。

 「俺はデンタルフロスの歌を歌ったが、お前の歯は綺麗になったか」というのは、フランク・ザッパ先生の名言だが、歯磨きの間にザッパ先生のアルバムを2~3作聴き終えたのなら、そりゃ歯医者さんに褒められるくらい歯垢や歯石は削ぎ落とされているだろう。なにか別の問題が生じていそうで、「綺麗」と呼べるかどうかは怪しいけれども。