『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(45)

 手袋はやけに映画に詳しく、仲間の手袋たちと共に、様々な映画の名シーンを再現してみせた。ただし、最後の演目は『北北西に進路を取れ』なのか『北北西に進路を取れ』のモノマネをする『アリゾナ・ドリーム』のヴィンセント・ギャロなのか、いかんせん手袋による芸なので判断がつかなかった。右斜め向かいでは髪の毛の生えた西瓜が安売りされているが、買っていく者はおろか売っている者の姿も見えない。盗まれても問題がないのか、盗まれる心配がないのか、とりあえず勝手に動き出すことはないようだ。邪険にされた西瓜たちの逆襲は1969年以降、どこの国でも確認されたことはないらしい。

 スティーヴ・ライヒの音楽に彩られた1960年代のとある実験映画が、西瓜たちの逆襲を捉えたドキュメンタリー映画であることを知ったのは、出身地最大の都市で燻っていた頃で、芽の出ない前衛音楽家ライヒ本人から聞いた話だとして語っていた。ただし、彼がライヒと会ったというのは虚言であった。虚言癖の前衛音楽家の知り合いは、自称と付記せざるを得ない芸術家ばかりで、彼らが不定期に発行する同人誌も気取った内容とは裏腹に、公共機関の報告書のような安っぽさの目立つ装丁で、一度断り切れずに書かされた適当な私の文章が顔も知らぬ編集責任者の酷評で退けられたのはかえって幸いだった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(44)

 溶剤の精度を上げるために必要な薬草を採取するため、山上と共にコスタリカへ向かう途中、人生初のホーボー体験をした。「素敵な景色ですね、ハーパース」と山上が言い、ハーパースとは何か尋ねると「いませんでしたか、そんな奴?」という返事。記憶を探っても、そんな名前の知り合いは思い当たらない。「いなかったよ、そんな奴」と私が答えると、「じゃあ、あれをハーパースだとしましょう」と言って山上が指した先には、線路の脇に転がる誰かの片足があった。「なるほど、これはビザールだ」気分も良かったので、自然と『59番街橋の歌』の口笛を吹いていた。誰かの足も人形アニメの動きで踊り出した。

 薬草の群生する土地に住む人々は、みな人形アニメのような動き方をしていて、あの片足も土地の人間のものだと推察できた。重力も関節も関係なくなり、ぐねぐねと空へ舞いあがっていったことを墓穴の前の衣装ダンスに身を潜めた男に伝えると、嬉しそうに穴に横たわったので、礼儀として桜桃を供えた。桜桃は駅の地下で大道芸を披露していた手袋からもらったもので、二食分の硬貨を投げ入れたことへのお礼だった。「すぐに必要になる」と手袋は伝えてきた。手袋なので、当然手話である。私に手話の知識はなかったはずだが、手袋の伝えたいことは理解できたし、それを不思議なことだとも思わなかった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(43)

 不器用の烙印を押されたことが悔しくて、誰もいない教室の隅で数秒だけ泣いてみたが、すぐに怒りの占める割合のほうが多くなり、校門近くのアスレチックの壁を蹴りつけると、出来の脆さゆえに板が外れ、不思議と教頭は笑って修理してくれたが、2年と持たずに児童にとっては良いトンネルと化していた。私にはトンネルというよりギロチン台に見えたが、同じことを思った者がいたようで、ひどく恨まれていたラグヘッドボール選手の母親でもある教師が首を固定され、別の女子児童へのあからさまな贔屓によって点数を奪われた男子児童が濡れたタオルで教師の首を叩くと、思い込みの力で地面に転げ落ちた。関わった児童たちはすぐに逃げ去ってしまったようだが、たまたま通りかかり、すぐに何事が起きたか理解してしまった両足のカブは、児童と教師を天秤にかけ、4種の農薬を混ぜて作った溶剤で教師の身体を綺麗に地面に染み込ませ、念の為に安いコーラとカラスムギで消毒し、残りで飢えと渇きを癒やした。

 両足のカブに溶剤の作り方を教えたのは私だが、元々カブと私の仲は良好なものではなかった。カブはカブの祖父に似て、常に自分が正しいと考える厄介者だったが、両足と呼ばれざるを得なくなってからは、さすがに態度を軟化させ、私も譲歩としてカブの身体を処理する為に作った溶剤の仕組を教えた。溶剤は後に山上によって精度が高められ、へいま様や専門学校の悪質な掃婦をすっかり流してしまうことにも成功した。掃婦の清掃は不適切だが、汚物も共に溶かせたらしい。見た目や匂いは市販のシャンプーにそっくりで、誤って誰かが頭皮に塗布してしまわぬよう、製法は私たちを含めて4人しか知らない。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(42)

 タズネル氏を総括として行われた映画撮影の最中、目の据わった熊男に因縁をつけられたH氏が発作を起こして退場したがあった。私が別の現場から逃亡した翌日のことで、その頃はちょうど渋谷のタワーレコードで開かれたGUIROのインストアライブを観ていた。「あれかしの歌」の最中にH氏は血を吐いた。雉間とH氏に面識はなかったが、雉間の『詩人、後』はH氏に捧げられている。H氏が校舎の壁に尖った形の石で刻み込んだ「つくれないものはあるが、壊せないものはない」という言葉を私が写真に撮り、山上と共にソーダ水で清めてから表紙に貼り付けた。糊は必要なく、ソーダ水は経費に紛れ込ませた。

 雉間が4歳の頃、彼の祖父の布団に何気なく懐中電灯の光を当てると、オレンジ色の歪な円形光が、ちょうど祖父の身体でいえば胃の辺りを照らしていて、大人たちがたまに口にする「癌」というのは、きっとこんな形だろうと雉間は思った。祖父の死後、雉間は罪の意識から毎晩自分の心臓を照らしている。私もよく自分の左手を照らしたことがあったが、切り開いてみても、思いのほか綺麗な骨が現れるばかりで、腫瘍らしきものは見当たらなかった。無傷の利き手で縫い合わせることもできたため、年長の女子児童たちに不器用呼ばわりされるいわれはないはずだが、切り開きを告白することもできなかった。

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  • アーティスト:GUIRO
  • 8
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『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(41)

 石畳氏によってK氏へと伝わった彼女の意思は、すぐに山上らをも巻き込み、「“デーゲームファシスト”の横暴で死ぬことになるのなら、せめて相討ちすべき」という彼らの叫びは大量の落花生たちを動員し、まるで『爆裂都市』のような鉄屑と豚の臓物が飛び交う狂乱の事態を招くことになった。後に「落花生カーニバル」と呼ばれた騒動だが、凶暴化した落花生たちは、ぬかりなくヘルメットやガスマスクで防御しており、路上に流れた出た体液は全て表の人間のものだった。豚も適切に血抜きされていて、必要以上に街を汚すこともなかったが、その頃私は遠方で詩人の雉間美怜と共に息を潜めていた。

 「ばれるとまずい嘘をついておけば相手と関係を深めずに済みます。予防です。これは予防です」そう語る雉間美怜は、野菜と果物だけを食べて“推し”の無事を祈り続けていた。主義ではなく、肉の脂を受け付けない身体だった。髪と眉と睫以外の体毛を忌避し、血塗れになってもそれらを取り除き続けた。ゆえに雉間の身体には無数の傷があり、ためらい傷と間違う者もいたが、すべては雉間が自らの体毛と格闘した結果である。映画作家のタズネル氏が雉間の傷を撮影しようと試みたが、雉間はそれを頑なに拒否した。ただし、酒の入っていない状態のタズネル氏のことは嫌っていない様子だった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(40)

 まったくの偶然だが、「恥じらいの四戦士」の一人であるH氏がかつて発表した映画のプロットは姉妹を巡る騒ぎに酷似していた。『アトミック・シスターズ』と題されたプロットは講師たちから酷評されたものの、後に多くの文化人が見せた残念な言動を考えると、彼らの反応は皮肉と言う他ない。酷評がきっかけだったわけではないが、H氏は学び舎を支配する空気の毒気や肉親の自死未遂などが重なり、卒業を目前にシュヴァルツェヴァルト氏やエドガル氏のごとく頭部が開かれ、耳から虫が這い出るような悲惨な最期を迎えた。K氏はH氏を悼み、“急に咲く花”を代々木八幡の歩道橋から放り投げた。事務局のドロヌマヒロヤスは「実家の隣にある川が良くないから引っ越すべき」という無責任な診断を卑劣にも間接的に下していた。山上と私はせめてもの報復として、ドロヌマに前科を背負わせようとしたが、意外にも国策が私たちに味方し、ドロヌマだけでなく複数の講師もこれまでの言動を断罪された。

 代々木八幡の歩道橋は、H氏が監督として撮影した唯一の場所であったが、その映像を収めたDVDは下北昇平の住んでいた部屋で、下北が資料室から借りっぱなしにしていた書籍数点を探している際に発見された。発見したのは、やはり山上で、H氏が酷い喘息持ちだったことにも彼だけが気づいていた。歩道橋から千代田区のセントラルパークに移動したK氏は、偶然、オールブラックスのパフォーマンスに鉢合わせ、柄にもなく興奮し見入っているところだった。すると隣に座っていた女の子がK氏の膝を叩いてきた。女の子はマチルダそっくりで、K氏はどうしていいかわからず必死に気づかぬふりを続けた。しかし、女の子はずっとK氏の膝を叩いて何かを訴えてくる。いつの間にかオールブラックスの姿は消え、石畳氏が女の子の通訳を買って出た。Joanna Newsomの歌声のような女の子の言葉はジョージアの言語らしく、K氏は石畳氏がはじめから公園にいたことも自然と納得しているようだった。

 

『今日までの夜に見た夢に彩られた走馬灯にも似た自分史』(39)

 不思議な能力を持つ双子姉妹が生まれたのは16年前の7月4日で、その日、家には一羽のフクロウが迷い込み、そのまま住みついた。フクロウはなぜかリンゴ以外の食物を受け付けず、それは姉妹も同じだった。そして姉妹が3歳になる頃、姉は突然、読んだことのないリラダンの『残酷物語』を原語で暗唱した。妹は姉の暗唱する『残酷物語』をひらがなの教育すら終えていないうちに書き取り、言語学にも文学にも明るくない両親は困惑し、せめて病院を頼るべきところを怪しげな宗教家と活動家に縋りつき、結果的に家庭崩壊の元凶を招いた。姉妹が施設に保護された後も活動家は研究所の影響だと主張し続けた。

 姉妹は吸い込まれそうなほどの白い肌を持つ美少女で、津張悦部以外の土地の者たちからも大いに注目されていた。活動家は研究所への抗議を続ける者たちと結託し、姉妹を反対運動のシンボルに祭り上げようとしたが、14歳を迎えた姉妹は逆に研究所の広報活動を自発的に行いはじめ、世間を騒がせた。動画サイトに投稿された姉妹による広報動画は既に50本を超えていて、再生回数もかなりのものになっている。しかし、内容は研究所をバックに不可思議なパフォーマンスが披露されるばかりで、姉妹は一言も言葉を発しない。抗議活動とは徹底して交わらないが、広報活動と呼べるかどうかは意見が分かれた。

 姉妹の動画作品のなかに、抱き合いながら口づけしたままの体勢を2時間にわたって保ち続けるものがある。かつて、Marina Abramovicが行ったパフォーマンスに似ているものの、鼻呼吸を防いでいない分、そこまでの肉体酷使ではなく、視聴する者のほとんどは静謐な美しさ以外は感じていないようだった。実際に姉妹と会った者たちも、大半が口をそろえて「吸い込まれそうだった」と述べる。二人はほとんど表情を変えず、淡々と静かに質問に答えるだけだったが、それだけですでにアートのようなものだった。活動家たちも同様だったが、彼らは自分の領域に戻った途端、懲りもせずにまた策略を巡らせていた。