ラーメンたいして食べたくない

 ラーメンを食べる機会があまりない。今の生活において、辛うじて口にする機会があるのは、インスタントラーメンかカップ麺、それも定番中の定番である商品くらいのもので、家でも外でも調理と呼べる工程を経たものを食事として摂取したのは、おそらく15年近く前の事になる。

 最もラーメンを口にする機会が多かったのは小学生~中学生の頃で、それはつまり義務教育期間ゆえに学校給食として月に数回支給されていたからに過ぎない。ラーメン王国と呼ばれたりもする北海道ではあるが、給食に登場するのは基本的に醤油・味噌・塩あたりの通常種が大半で、それが小・中学生の昼食として理想的な栄養バランスだったのかどうかは分からないが、さすがにスープ表面が油で覆い尽くされているような、見るからに不健康なラーメンではなかったと記憶している。ラーメン評論家となる事など億万長者以上に縁遠い星の下に生まれた私としては、給食での登場頻度だけでラーメンに対する欲求は充分に満たされていたのだった。

 義務教育を終えると、嫌でも昼食にラーメンがねじ込まれることはなくなり、逆に言えばどうしてもラーメンが食べたいとなると、自分(または同居者など)が作る、もしくは飲食店に注文するという方法をとらないといけないのだが、どうも丁度そのあたりから、世の中ではやたら脂ぎったラーメンが幅を利かせるようになった印象がある。何度か書いた「チーズとマヨネーズの野郎が厚かましい問題」同様、ラーメン界でも「ギトギトのゴテゴテこそラーメンだ」という暑苦しい価値観が拡大し、かと思えば反動なのかフランス料理の前菜のような無駄に小洒落た姿で現れる妙な輩も目につきはじめ、ただでさえ大して強くなかったラーメン欲がトドメとばかり討ち取られていった。

 我が地元では、たて続けに書店が閉店しているというのに、ラーメン屋は増加傾向にある。しかも、風情としてもできれば営業し続けてほしいような、昔ながらのラーメン屋は潰れていくのである。嫌でも目につくほど建ち並ぶのは、医者が良い顔をしなさそうなギトギトが売りのチェーン型ラーメン店ばかりである。偏見だとは思いつつも、ラーメン屋ばかり増えるような街は文化民度が低いのではないかとさえ勘繰っている。

風に慣れたい。いや、やっぱり殴りたい。

 風が強いと苛々してしまう。強い日差しも暑さも寒さも雨も雪も雷も体調まで悪化させる低気圧も、なんだか大抵の気候は苦手な気もするのだが、日差しは遮ることが可能で、暑さ寒さも文明の利器をフル活用できれば、どうにか今のところは凌げている。雨は屋内にいれば当然凌げるし、音も大きさの差はあれど基本的には一定のリズムで降ってくれるので不快にはならない。雪は音がしないし、除雪は辛いが自分の判断で休憩も中止もできる。低気圧による体調不良は、おとなしく眠ることさえできればどうにかなる。しかし、風は強ければ強いほど鳴り響く音に規則性がなくなり、そのうえ雷と違って音が止む時間がほとんどない。換気扇などが嫌なタイミングで唸り声を上げたりすると、ぶち壊したくなったりもする。騒音に敏感なのは、通院を続けてもあまり改善されず、結果として強風への憎しみは以前よりも増大している気がする。なにせ、屋外はもちろん、屋内でも煩わしさから解放されない。

 強い風が撒き散らす騒音は、頭の悪そうな人間が不必要に響かせる自動車のエンジン音に似ている。音の質感というより、こちらの神経を逆撫でする嫌らしさがである。人生を捨てる気になれば、車や車の持ち主を鉄パイプかなにかで殴りつけることは可能だが、風には実体がないのでそれすら不可能だ。風の神なるものが存在するとして、神を罵倒してしまえば逆効果であろう。かといって、ここまで不快にさせられてしまうと敬う気にもなれない。こちらが聴覚か人生そのものを捨てなければならないのだろうか。そんな横暴な奴に屈するわけにはいかないのだが、対抗する手段も思いつかないのである。

 

Valentine's Day Kill

 「バレンタイン」「毒殺」といった物騒なワードで検索してみても、上がってくるのは創作物ばかりで、しかもプロの作品よりも一般の方が趣味で描いた物語が多い。検索結果の概要を眺めているだけで、過剰に甘く、余計な混入物まで大量に加えられたチョコレートを流し込まれるような気分になり、実際に一例でもそのような事件があったのかどうかさえ不明なまま早々に力尽きてしまった。もっとも、たとえ義理という形であっても、殺したいような相手にバレンタインに贈り物などしたくないだろうし、万一殺害に失敗し、そのうえ殺意すら伝わらなかったとしたら、最悪に不快な勘違いを起こされる危険性もある。どうやらモテない者たちが考えるほど(偏見だが)、バレンタインは毒殺に向いていないようである。

 考えてみると、バレンタインに関わらず、特定の人物を食品に混入させた毒物によって殺害するというのは、家族間や表面上の友人関係を築けていない場合は非常に困難に思える。殺意を持つほど険悪であればあるほど、口にするものを送る機会は減るであろうし、機会に恵まれたところで、殺されるとまでは思わずとも、相手だって多少の警戒はするだろう。

 相手が口に入れようとしているものに、隙をみてあらかじめ毒物を混入させておくならまだしも、わざわざ自ら「贈り物」と称して手渡すなど、何か特別な意味が込められていない限り、殺害方法としては愚行としか言いようがない。別の誰かが標的に渡したチョコレートにこっそり……という方法もあるだろうが、標的が誰からも貰っていなければ実行できない。そもそも、差出人の確認がとれようが、その場で標的がチョコを口にするとは限らないし、標的以外を犠牲にしてしまう可能性もある。いずれにせよ、わざわざバレンタインを利用する意味はない。

 それなのに、どうして多くの創作者たちがバレンタインを毒殺日和にしたがるのだろう。やはり、モテない者の歪んだ感情が生み出した哀しき風潮なのだろうか。

 

「だったらいいな」が生むべきものとは

 「テレビアニメ版『ツヨシしっかりしなさい』は集団幻覚ではないのか」という話は、どうも定期的に話題に上がり、その都度小さな盛り上がりをみせている気がするのだけれど、このところ私は「大谷翔平日本ハムファイターズに在籍していたことこそ集団幻覚ではないのか」と疑いを持っている。

 スポーツ嫌い、特に日本におけるスポーツというものの在り方に関しては憎悪を抱き続けている私だが、その私ですら偉大さを理解せずにいられないほどの存在となった大谷翔平が、よりにもよって角盈男がかつて某バラエティ番組内で「あいつらはヒマ」と言ってのけた日本ハムファイターズの選手だったなどと言われても、それは多くの日本人、特に北海道民の「だったらいいな」という願望によって生じた幻覚だと考えても無理はないのではなかろうか。おそらく、スポーツ嫌いの私だからこそ、疑念を持つことが可能だったのである。

 いや、もちろん無理のある話なのだが、自分の娘が大谷翔平を彼氏として連れて来ることを真面目に期待しているような方々(実際、いるらしい)ほど、突拍子もない発想ではないと思いたい。しかし、いくらスポーツ嫌いの私ですら偉大さを認めざるを得なくなった大谷選手が日本で活躍していたことを誇りに思いたい人が多くいたとしても、たとえ集団幻覚であろうと、もっと具現化されて然るべき「だったらいいな」が沢山あるはずだ。さすがに深刻な社会問題等の解決よりも「大谷は日本で活躍していた」が重要視されてしまうとは考えたくないので、やはり集団幻覚説など荒唐無稽な戯言だったという結論にしておきたい。まあ、優先されるべき「だったらいいな」の大半が現実味を失い過ぎてしまっているということかもしれないけれど。

 

酒など飲まずにおそれている

 酒を飲まない私は酒呑みな人間と比べて、死ぬかと思った経験も、死ぬかもしれないという予感も、それぞれ三分の一くらいは少なく生きてこれたはずなのだけれど、あくまで体感的には、死ぬかと思った経験も、死ぬかもしれないという予感も、そのどちらも酒呑みな知人たちの何倍も味わっているようで、そんな風だから精神科通いも続くし、抗鬱剤も飲み続けなければならないのだが、全てに気づいて全100危機の人生と、全てに気づかず実際には全500危機の人生とでは、やはり後者の方が幸せな人生であると考えられ、しかし、全500危機を一つも気づかずに生き続けるような者はよほどの無神経であるとも想像でき、きっと500の5乗くらいの他者を無意識に傷つけているはずで、だとすれば全100危機を察知したうえ、全800思い過ごしの危機を味わった者の方が他者への思いやりも強くなっている可能性があり、そうであれば暗い人生にも多少の誇りがもてるかもしれず、積極的にそう考えて生きていこうと一瞬は決意しかけたものの、涙の数だけ強くなるとか逆境が人を強くするとか、そういった人生訓の大半はそう考えなければやっていけなかっただけの迷惑な負け惜しみ感覚のような気がずっとしていたことを思い出し、それらの人生訓を押し付けてくるような人間は1000の5乗くらいの他者を苦しめているはずなので、これからも大人しく残りの危機と危機ではなかったのに危機だと勝手に感じる苦悩を味わいつづけていこうと思う。

 

(追記)こんな自分は果たしてこの映画を鑑賞しても大丈夫なのだろうかと『ボーはおそれている』の予告編を見て考える。いくら監督:アリ・アスター、主演:ホアキン・フェニックスという、どうしたって気になり過ぎる布陣で制作されているとはいえ、この厄介な性分の人間が「映画鑑賞」というだけの心構えで対峙して良いものだろうか。


www.youtube.com

ミッドサマー 通常版 [Blu-ray]

ミッドサマー 通常版 [Blu-ray]

  • フローレンス・ピュー
Amazon

 

雪面の滞り魚

 一面の銀世界というと、とても美しいイメージが浮かびそうであるが、ある程度の期間、美しいままでいられるような銀世界は、ほとんど人の手が加わっていないような秘境に近い場所がほとんどである。どうしても人の営みの影響を受ける場所では、すぐに自動車の排ガスや泥はね、夏場よりも目立ってしまうゴミの姿などによって、およそ「美しい」とは縁遠い景観になってしまう。なにより、観光ではなく、日々の生活を送る者にとっては、積雪によって生じる諸々の面倒事が頭をよぎり、よほど無垢な子供でもない限り、雪の訪れには微塵も心が弾まない。積雪の面倒事の処理に運良く立ち向かわずに済む立場であっても、節々の薄汚れた白い景観が厚くなったり薄くなったりという程度の日々だと、窓の外を眺める楽しみもあまり得られないだろう。

 あえて冷たく表現するならば、どこへ行っても大して変わり映えのない景色となってしまう冬の北海道であるが、市町村の境界だけは、積雪後の方が明確になったりする。それは、除雪の進み具合の差によって生じる。

 個人の敷地内は各々が汗をつららに変えつつ対応する他ないが、公道の除雪は基本的に各市町村およびその委託業者が行う。そうなると、土地状況や役所の運営状況によって差が出るのは当然で、雪対策に力を入れている町もあれば、あまりに雑な場所もあったりする。人員不足か能力不足か、それとも土地自体の問題か、明確な理由は分からないが、私の在住地とその隣町は特に明確な差が出るようで、たとえカントリーサインが雪に埋まっていたとしても、除雪の進行具合ではっきりと境界線が示される状況が続いている。いつか、人の心まで除雪にとって分断されるのではないかとさえ考えることもある。

 それにしても、定規で測ったように境界を越さない仕事ぶりは、いわゆるお役所仕事と揶揄すべきものなのか、意地でもこんな苦しい作業をヨソの土地までやってやるものかという担当者の気持ちの表れなのか、いずれにせよ、雪国に暮らす者たちの心情の一片が垣間見える情景だとは言えるかもしれない。

 

病院で出される魚は脂や生臭さが少なくて良い

 入院経験が比較的多いせいか、病院の食事があまり苦にならないという話は以前にもした。少なくとも、学校給食より病院食が性に合っていたのは確かで、病状の関係で食欲がなかったことはあるが、嫌なものを出された記憶はない。食べきれなくとも、叱られるより心配してもらえる。周りが子供ばかりでも、なにしろ具合が悪いがゆえに入院しているため、不愉快に騒々しいということもまずない。もちろん、毎食が辛くなるほどの病状ではなかったことが幸いしているのだが。

 平均寿命の半分を終えるのも遠くない未来となった現在もなお、私の味覚は病院食によって大半を形成されたままのようで、薄味好み・素材の味好みというより、クドいものを身体が受けつけなくなったと言った方が近い。舌に味を刺青してくるかのようなゴテゴテギトギトしたものばかり増えていく昨今の食品事情は、ただでさえ生きづらい性格を持って生まれた私の人生をより一層困難なものにしている。とりあえず、何にでもマヨネーズとチーズをぶち込もうとする愚かな者たちは、四年くらい永平寺の修行僧のような食生活を送って、その脂ぎった思想自体を浄化してほしいとすら思う。

 さて、入院経験が多いとはいっても、2ヶ月以上に及ぶほどの長期入院の経験はほぼなく、それゆえか病院食において、繰り返し味わったメニューというものの記憶もあまりない。病状によっては、好みに関係なくほとんど口をつけられなかったことも多いため、あくまでも味わった記憶の有無の問題でしかないのだが、例をあげれば、どれだけ脳内を掘り進めても病院でカレーライスを食べた経験は一度しか見当たらない。それも4歳頃の話であり、小児病棟ゆえにいわゆる甘口のカレーだったとは思うのだが、風邪を悪化させたことによる入院でもあったため、どうしても味がよく思い出せない。調べてみると、病院においてもカレーは人気メニューのようだが、私には経験談として語ることは難しい。病院食との相性は良かったが、病院のカレーとは縁がなかったのだろう。

 ちなみに、病院とカレーの関係を軽く調べてみたところ、ボンカレーの袋(パウチ)は点滴袋の技術を応用したという事を知った。入院時代の思い出に浸りたい時は、ボンカレーの袋を傍に置くと良いかもしれない。

ファミリークッキング

ファミリークッキング

  • アーティスト:YMCK
  • エイベックストラックス
Amazon