あの日、山塚アイが火炎ビンを投げ損なった

 「あの日、山塚アイが会場に火炎ビンを投げ入れてくれていれば、あたしがこの世に生まれることも多分なかったし、こんなに苦しい思いをする必要もなかったのに」

 「あたしはそこまで入れ込んでいるわけではないから、山塚アイに関する様々な伝説やGhoulの故・マサミが事故で切断した片手を常に持ち歩いていたという噂の真偽については分からない。ただ、あたしがわかっているのは、あたしを無神経な言動で傷つけたのは、山塚アイやGhoulを教えてくれたあの人ではなく、愛や恋や青春を優しく歌ったうたを聴いていたあの人たちだということ」



 急にどうした? と思われる方もいるかもしれませんが(そんなことを思ってくれる人がいるほど、このブログに読者が存在しているのか? と思った方なら確実に存在しているでしょうが)、後半に関しては、別に「急に」というわけでもなく、割と常日頃から、そんなことを考えていたりします。最初の文章は、なんとなく思いついた物語の「書き出し」のメモです。

 優しい歌を好む人、歌う人、作る人が優しい人であるかどうか(優しさとは何か?という問題は置いておき)は、まったく別の話で、たぶんジョン・レノンの「イマジン」を好んで歌う殺人鬼というのも存在していると思う。逆もまた然り、というだけの、おそらく散々述べられてきたあたりまえの話。

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 さて、話は変わります。とある漫画作品に関して、ずっと自分なりの考えをブログに書いている方がおりまして、私もその作品はたいへん気に入っており、自分の好きな作品に対して、他の方はどのような感想を持つのだろうと思い、たとえ否定的な感想であっても読んでみようと、今も更新されるたびにチェックしています。

 先に述べると、その方の考えは、評価している点においても批判している点においても私とはかなり異なっておりました。しかし、それはそれで構いません。

 また、その方の文体も、なんだかやけに小難しい言葉を好んでいて、それがその文章にとって必要であると感じられれば良いのですが、まったくそうとも思えず、ひたすら読みにくいだけで、疲れている時にはパソコン画面を叩き割りたくなる衝動に駆られたりもするのですが、実際に叩き割って困る事になるのは私であり、その方では当然なく、ゆえにそこはもう諦めて、なるべく体力と気力が健康な時に読むように心がけているのです。ゆえに、文体が肌に合わないことも、それはそれでしょうがないと思うことにしています。

 しかし、どうにもこの所、その方の発言(ブログに限らず、ツイッターなども含め)に対し、何かこう、もし目の前にその方が実際にいたら、しっかりと拳を握った「おともだちパンチ」などでは決してない、可能ならメリケンサックを装備した状態で顔面を思い切り凹ませてやりたい、という暴力的な感情を抱くようになってきました。

 自分の好きな作品が批判されているから、という理由では決してないでしょう。その方は、作品を叩くことを決して許さない、というような盲信者的存在を激しく嫌っていて、その点に関しては、信者レベルでその作品を好んでいる私も「たしかに、そこまで行くのは見苦しいな」とは思っているわけですし、何より、さほど注意深く読まずとも、その方がその作品を、色々批判はしつつも、評価するところは評価している(評価する点が私とは異なっていても)のは分かることですし、何より、もっと口汚く作品を否定している人もいて、中にはもうただの作者に対する人格否定のようなものもあったりして、そういう批判には同じようにメリケンサックを利用した痛烈な一撃を加えたくなりもしますが、批判者全員に対してそんな感情が芽生えるわけではありません。では、なぜ私は、その方に対して「憎しみだけがこもった拳」を食らわせたくなるのでしょう。

 それは、その方の発言が、だんだんと「自身の考えに対する信者しか認めない」ような形に思えてきたからです。自分の考えに頷かない者は、すべて信者。そんな傲慢で見苦しい態度。あれほど「盲信者」を嫌っていながら、その方の言動は、少しずつそうなっていったのか、はたまた化けの皮が剥がれただけなのか、自分に対する盲信者以外を見下すようなものになっていったように思うのです。

 たしかに、その方のブログのコメント欄における「その方への批判的なコメント」から、その方の言う「盲信者」的な空気を感じるのは否定できません。しかし、ツイッター等で、あきらかにその方の目にも入っているであろう「非盲信者的な批判(その作品に対する批判もしつつ、その方の考えにも批判をしているようなタイプ)」には、一切答えようとはせず、「○○氏の考察は的を射てますよ」といったものばかり返答/RTしているような状態では、あなたはただ「教祖」になりたいだけなのでは?とさえ思ってしまいます。

 その方は、他の人の感想や考察は、基本的に目を通さないようです(その割には、その方の言う「信者的感想/考察」をやたらと気にしているようですが)。なので、私も含め、他の誰が何を言ったところで無駄なのでしょう。仮に目に入ったとしても、その時点で、私などは「作品の批判を一切認めない信者」として扱われるのでしょう。下手をすれば、作品のアンチ的な人やまったく作品とは関係のない人から、その「姿勢」を批判されたとしても、「信者であることを隠した信者」扱いしだすかもしれません。作品の登場人物に対して「逃げの姿勢がよくない」というような感想(それ自体はキャラクターに対する感想であり、作品への批判とイコールでないことはわかりますが)を述べていた方ですが、あなたのその姿勢こそ、あの作品のどの登場人物よりも見苦しい「逃げ」だと私には思えるのですが、それもまた「信者が吠えている」ということにしてしまえば良いのでしょうね。

 ここからは特に邪推。仮に図星だったとしても、その方はおそらくお認めにならないでしょうし、盲信者の勝手な戯言として一笑に付されるでしょう。しかし、私には、結局ただ「他人と違う作品を褒める自分」「他人と違う観点で“冷静に”“中立的に”批評する自分」に酔っているだけに思えるのです。そうでなければ、御自身のブログで好きに書いているだけならともかく、わざわざ作品の絶賛コメントをツイッターリツイートして馬鹿にしたり、エアリプ的にあてこすったりする必要はないはずです。その方のブログやツイッターアカウントに直接文句を言うのは、たしかに少々盲信者的な行いに見えなくもないですが、ただ作品を楽しんでいるだけの人まで見下しているようでは、非難を受けるのも当然で、もしその点を分かっていてやっているのなら、人間性に相当問題アリだと思いますし、分かっていないのなら、頭が悪すぎるのではないかと。

 私は、私の好きな作品が批判されるのが許せないのではありません。ただ「あなた」が許せないだけです。あなたかあなたの親が、山塚アイが火炎ビンを本当に投げることのできた世界軸の、あの日あの場所に存在していたらいいのに、なんてことを思ってしまうほどに。そういうことです鷹……あ、名前出しかけちゃった。

5

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1984-1989

1984-1989

イマジン

イマジン

恐山のストゥージス狂

恐山のストゥージス狂

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 北村昌士は某所で今も拝めるインタビュー映像の中で「偉大で革命的なものは絶対にマイナーなものである」というジル・ドゥルーズの言葉を引用するのだが、マイナーなものが必ずしも偉大で革命的であるわけではないことも誰より分かっていたはず。インディーズを気取るだけの窮屈な言葉、今も溢れてる。

 チーズとマヨネーズには、もう少し遠慮してほしい。最近のあいつらは、厚かましすぎる。「あたしのこと嫌いな人なんていないでしょ?」みたいな感じで勝手にすり寄ってくる。

 それに比べて、ピクルスさんの慎ましさ。「あたしは、別に抜きでもかまいませんよ」という……。そんなことないよ、いていいよ!むしろ、いてほしいよ! チーズとマヨネーズが席を占領しすぎなんだよ。

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 いろんな回bot(@ironnakaibot)に便乗して、ちょっと遊んでみた。



 『おにぎりあたためますか』で、仕事の関係から途中で合流するはずだった戸次重幸が寝坊のために遅刻し、死のうとまで思い詰めていたところを、大泉洋おちゃらけた電話によって救われる回。

 『ビデオあなたが主役』で、所ジョージもゲストとして出演するはずだったのに、前の仕事の影響で番組開始時にはまだ来ておらず、結局最後まで現れなかった回。

 『ウリナリ』でよゐこ濱口優自己啓発セミナーに行き、「南原ー!」と叫びながら枕を殴っていた回。

 『ウリナリ』で、自己啓発セミナーによって生まれ変わったよゐこ・濱口が、プールで無茶な泳ぎ方をして倒れ、結構深刻な感じで治療されている姿が放送された回。

 『ブギウギ専務』で、山の中のロケで熊とニアミスしていたことを、後になって映像を見て気づく回。

 『こち亀』(アニメ版)で、ハードボイルド刑事というキャラの無茶な要求にアニメスタッフも声優も匙を投げて、最終的に映像がぶっつり切れて終わる回。

 『ぐるぐるナインティナイン』で織田無道の寺で鬼ごっこする回。

 『イカ天いかすバンド天国)』で、バンドのボーカルの女性が履いていたダメージタイツを見て、ラッシャー木村が「足の爪を切った方が良いんじゃないか」とコメントした回。

 『どさんこワイド』で、新鮮なホタテ貝をリポートしていた明石英一郎がよせばいいのに貝の口に指を入れ、案の定挟まれて、その悲痛な苦しみぶりに現場もスタジオも一瞬深刻な空気に包まれた回。

 『SMAP×SMAP』でファインディング・ニモの人形を頭につけた状態で狭い水槽のようなセットに潜らされた草磲剛が溺れかけ、「コレ(人形)をつけた状態で誰もリハしてないだろ!」と訴える回。

 『Music Museum』で、奥田民生が「パロディしたつもりがパクったって言われるのって悲しいじゃないですか」と、ちょっとマジな目をして語った回。

 『ハナタレナックス』で、寝起きの安田顕がパンツを脱いだら、しっかりとガムテープで前貼りされていて「これが俺の健康法だよ」と言った回。

 テレビ版『座頭市』で、何度もコテコテの悪党として登場し、その度に斬られていた岸田森が、初めて悪党ではない形で登場したが、結局斬られた回。

 『ウルトラマンタロウ』で、地球上のビタミンCをすべて奪うことを目的とした怪獣「食いしん坊怪獣モットクレロン」が登場した回。

 『ウリナリ』で、ウド鈴木が自身のギター演奏によるインスト曲「まごころ」のPVを見て、「ハルマゲドンが来た後の、冬虫夏草が凍ってます」という前衛的な詩のような感想を述べた回。

 『フルハウス』で、プレスリーそっくりの男に人生のアドバイス的なことを言われたジェシーが、去り際に「あんた……(プレスリーだよな/似てるな、的なことと思われる)」と言いかけたら、「ああ、わかってる。ジョン・レノンだろ?」と答えられる回。

 『裂けた旅券』で、当初は「誰が見ても子供とは思わんだろう」と言われていたはずのマレッタが自分が童顔であることに悩む回。

 『学校へ行こう』で、井ノ原快彦がゴミだらけの汚ギャルの部屋で、「最近見ない」という彼女たちのペットのフェレットを捜しあてた回。

 『堂本兄弟』で、ほぼ全員がリタイアした激辛カレーをGACKT堂島孝平だけが食べきり、しかも堂島孝平は汗ひとつかいていなかった回。

 『世界まる見え!テレビ特捜部』で、ビートたけしが料理の盛られた皿の黄色い模様をカラシと間違える回。

 『東京フレンドパーク』で、パーカッションの光るタイミングと場所を記憶して、うまく叩けたら回答する側に曲が伝わるというゲームで、演奏自体はほぼ失敗だったものの、回答側の三谷幸喜がベース音だけでカーペンターズの曲であることを当てた回。

 『アルフ』で、ストレス解消法としてアルフが綿を食べまくる回。

 『ポンキッキーズ』の爆チュー問題のコーナーで、視聴者の子供が考えたお話を、絵やセリフの不備なども含めて忠実に映像化する回。

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映画『VHSテープを巻き戻せ!』予告編

 はい。私もVHSに対するフェティシズムを持っている一人であります。「映画愛」というより「VHS愛」ですよ、はい。 
 ちなみに、VHSマニアであると同時に「MDマニア」でもあります。

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 スパーク一発やりにげ〜 やっぱり心洗われる(笑)
 

明和電機×Pepper コラボレーション

GOLDEN☆BEST ALL OF 明和電機

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 さまぁ〜ずの大竹さんが「顔中に血管があるからぁ〜♪顔中に血管があるからぁ〜♪」という謎の歌を弾き語りしている夢を見た。
 いずれ、この歌(?)は、歌詞だけでも完成させておきたい。

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 呟き散らかしたこと



 必要があって『トルネコの大冒険』を再プレイしていたのですが、そこで改めて気付いたこと。現実に「ござる」口調の人が現れたら、ちょっと引くと思いますが、文章として読む場合、はるかに「〜ッス」口調の方が読み辛くイライラする。「〜でござる」は読み辛くはない。

トルネコの大冒険~不思議のダンジョン~

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 「ボーイ・スイーツ・ガール」。検索したけど見つからなかったから、暫定的に私が発案者ということで。「男だと頼みづらいスイーツを心置きなく楽しむ為に女装する男子」のことね。使用したい方は、私にそれなりの対価を払うように。みうらじゅんさんと違って欲望の塊だかんね(だから成功しないのよ)。

 女性限定のスイーツ食べ放題の列に女装して並んだ殺せんせーは「ボーイ・スイーツ・ガール」の典型例。パフェを注文するために「らんま」になった「乱馬」は「ボーイ・スイーツ・ガール」の究極例。

男子スイーツ塾! (柴田書店MOOK)

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暗殺教室 7 (ジャンプコミックス)

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