TUBEだけが暑苦しい

 7月に入ったのに寒いのである。極度の暑がりの私が寒がっているのである。

 しかし、7月に入っているので、既に私の衣類や寝具は、夏用になっているのである。

 幸い、まだウイルスにやられたりはしていない。だが、時間の問題と思われる。

 人生で初めて、夏の到来を待ちわびている。

 ―――――――――――――――――――――――――――――― 

 呟き散らかしたこと

 理想の相手は「付き合いはじめてから、相手がいかに自分の理想の条件に適っているかばかりを他人に自慢しない人」という話を聞く。

 志垣太郎と同じ位置の血管が目立ち始めたという悩み。

 「大多数に賛同してもらえるようなものだけが好きなうちなら、コミュニケーション能力が多少低くとも、共に語らおうという気にもなろうが、色々観たり読んだり聴いたりしていくうちに、だんだんと、どうしても賛同の得られにくいものの魅力に気づいていくようになり、それがまだ「賛同が得られにくい」くらいなら良いのだが、そのうち「これの何がいいの?」だの「うるさいだけじゃないか」と言われることが多くなっていけば、嫌な思いしたくないから独りで楽しもうと思うようにもなる(その分、賛同者を見つけるとバカみたいに喜びがちになるわけだが)。そこから、こじらせて「これが分からない愚民どもは……」とか言い出せば、それは確かに排他的で駄目なタコツボ姿勢だろうが、そこまでではない、黙って寂しく楽しんでる者たちまで蔑むような言葉なんだよ、あなたの言ったことは。そのクチでよく対等がどうの本当の孤独がどうの言えるな」

 「君は現実的に考えているわけじゃない。現実にある諸問題を解決する能力もなければ、あれこれ考えてみることすらできないので、それらの問題すべてを“しょうがない”で済ましてしまえる方向に持っていこうとしているだけなのに、それを“現実を見ている”“現実的に考えている”と格好良く言っているだけだ」

 友部正人の「びっこのポーの最後」や、それにインスパイアされたであろう森山直太朗の「片足のポー」、不幸な巡りあわせで吉田拓郎が盗作騒動に巻き込まれた「ポーの歌」、存在自体に怪しげな陰を感じるガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」(これは同名詩集が元だが)等、音楽で「ポー」が入ると何か不穏なものを感じてしまうので「ゲラゲラポー」にも何かあるんじゃないかと。

 自分のことを阿呆だとか馬鹿だとか脳筋(脳みそ筋肉)だとか言っておきながら、意見だけは自信満々に述べている人ってどういうつもりなのかといつも思う。「仮に意見が間違っていたとしても、バカってことは先に述べてるじゃん、批判しないでね」みたいなことだろうか。だとすれば、ある意味、小賢しいので阿呆でも馬鹿でも脳筋でもないと言えるし、また別の面で言えば、そんな理屈が通ると思っているわけで、やっぱり阿呆で馬鹿で脳筋なのかもしれない。

 「ディスる」は「悪口を言う」の隠匿表現じゃないかなどと否定的に語るわりに「叩く」は自然に使い、どんな相手でも蔑むようなやり方はよくないとか言っていたわりに「マスゴミ」という言葉は自然に使っていた人が「どんな主張をするにせよ「不倫は文化」などと言う者は、他人を裏切って平気な人間なのだから信用できない。そのことに気付いてない時点で云々」とか言っていた。自分のそれまでの言動はどうなのだ。