明るいマンガを暗くしたがった、消息不明のいまを生きるこどもたち

 「少年」とされる世代が具体的に何歳から何歳頃までなのかは、おおよその定義しかないのだろうけれど、私がまだ「少年」と呼んでもらえる年齢だった頃、いわゆる「少年マンガ」というものに、ほぼハマることができなかったのは、それらの作品世界の中に私の居場所を見つけることができなかったからだと思う。別に主人公になりたいわけではないし、主人公の友達になりたいわけでもない。けれど、通りすがりのモブキャラとしてすら存在を許してもらえないような気がしていた。

 私が小学校から中学校くらいまで、周りで流行っていた少年マンガは、同級生たちが話題にしていたものを思い出してみると、『SLAM DUNK』『NINKU -忍空-』『地獄先生ぬ〜べ〜』『みどりのマキバオー』『世紀末リーダー伝たけし!』『ONE PIECE』あたり、あるいはリアルタイム世代とは言い難いが根強く『ドラゴンボール』や『キン肉マン』の話題が聞こえてきた。それら全てがマンガとして、物語としての面白さが微塵も理解できないというわけではない。いや、いまだに微塵も面白さが理解できないものなど、ごく僅かしかないのだけれど、上記した作品には自分の居場所はないと感じたし、今でもそう思っている。富樫義博や『幕張』のことは遅れてしったので、私にとって初めて自分の居場所がありそうに感じた少年マンガは『銀魂』であって、連載開始が2004年、私はもうそろそろ少年と呼び難い年齢になっていた。

 今でも、上記の作品を自分にとってのバイブルのように語る人を見ると、きっとこの人の生きる世界には、私の居場所なんてないのだろうと思う。「個人的なキン肉マンの好きな所についてイラスト付きで紹介した」というツイートを見かけたけれど、挙げられていた「好きな所」にまったく共感できない。“いつも明るい”キン肉マンと、その姿勢を崇める人たちが、「明るくないまま生きることの自由」を認めてくれるようには、どうしても思えないのだ。むしろ私は「陽気な人って、他人を苦しめたりもする」というみうらじゅんの言葉のほうに同意する。「落ちこぼれのどこが悪い」と弱者を庇うと言っても、彼が優しく接する落ちこぼれは、どうせ前向きなまっすぐな光とやらを彼が感じることのできる相手だけだろうと思ってしまう。「まっすである、前向きである、ということは手放しで賞賛して良いものなのかどうか」という疑問を抱くことすら、あの世界には存在していないような気すらした(苦手すぎて、全てを読んだことはないので、もし、そういった疑問にも向き合っているような展開があるのなら教えてほしい。もしあるのなら、改めて読み直してみますので)。

 少年だった私が読んでいたマンガの筆頭は、つげ義春だった。その弟・つげ忠男の原作『成り行き』が『なりゆきな魂、』として瀬々敬久監督の手で映画化され、28日から公開されているのだけれど、主演の佐野史郎がインタビューでこう語っている。

「みんなが共感できないこと、わかり合えないこと、孤独であること――そういうマイノリティの世界をきちんと感じ取れることが大切だと思うんです」(つげ忠男の世界に挑むアングラ精神 佐野史郎――この人のスケジュール表  http://bunshun.jp/articles/-/1126

 別に明るい少年マンガを否定はしない。それはそれとして必要な世界だろう。でも、明るい少年マンガの世界しか認めない人の生きる世界に私の居場所はないだろう。いとうせいこうは「噂だけの世紀末」のなかでこう歌う。

「子供はマンガのヒーローを殺して 最終回を勝手につくった 明るいマンガを暗くしたがった 誰もがそれにきづかなかった」

 明るいマンガのヒーローを殺し、勝手に暗い最終回をつくった、あの頃の「いまを生きるこどもたち」はどこでなにをしているのか。明るいマンガに馴染めないまま少年時代を終えてしまった私は、そんなかつてのこどもたちの話を聞いてみたくてしかたない。

成り行き

成り行き

無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

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MESS/AGE

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