『東京腸女むすび』(12)

 町の行く末が心配になりそうな地方都市とはいえ、デパートの中のチェーン型喫茶店は、さすがにお客さんがわたしと克仁さんだけということはありませんでした。喫茶店の外に目を向けても、他の目的を持ってデパート内を歩く人たちが見えます。
 わたしは、デパートで楽しそうにお母さんといっしょに歩く子供を見るのが苦手です。そもそも子供自体が、あまり好きではないのです。なんといいますか、デパートをお母さんといっしょに歩いているだけで、世界に対するすべての不安を忘れてしまえた頃のことを思い出して、辛くなってしまうからかもしれません。
 そんな子供たちも、平日のお昼頃には、あまり見当たりません。東京で通っていたデパートと比べれば、さらにその数は少ないです。
 先に喫茶店に着いたわたしは、一杯の紅茶だけをゆっくりと飲みながら、克仁さんを待ちます。いちおう、お腹がちらりと覗いてしまうことがないよう、注意はしています。
 克仁さんも、すぐにやって来ました。
「お待たせしてすみません」
「いえ、わたしもついさっき着いたところです」
 まさかこんな、デートのテンプレートのような会話を自分がするとは思いませんでした。
 サトウさんとのお付き合いのなかでは、基本的にあり得なかった会話なのです。お会いしていたのは、ほとんどがどちらかのお部屋でのことでしたし、どこかへ出かける際の待ち合わせ場所も、お互いのお部屋だったのです。
 わたしの前の席に座った克仁さんは、今日も一杯のコーヒーを注文されました。わたしは黙って、克仁さんが話題を振ってくるのを待ちます。
 さあさあ、克仁さん。いつもはぼーっとしているだけのわたしのお昼休憩をにぎやかしてくださいませ。
 わたしがそんな勝手な期待を胸に抱いていると、克仁さんがこんなことを口にしました。
「あの、今日は小竹さんのお話をもっと聞かせてくれませんか?」
 ひくひく。
 おやおや、これは想定外の流れです。わたしの話を聞かせてほしい、ですって?
「わたしの話ですか?」
「はい。僕がしゃべってばかりなのは申し訳ないですし」
 考えてみれば、これは誠実な対応と言えるのかもしれません。大学の頃を思い出してみれば、男女を問わず、自分がしゃべりたいことだけを一方的にしゃべって、他の方々から疎まれていることにも気づかないような人がたくさんいたのです。
 基本的に受け身の姿勢だったわたしでも、「この人のお話はつまらないなあ。なのに一人だけべらべらしゃべっているなあ」なんて思ったりしていたくらいです。
 そういえば塔子さんも、「世の中には、つまらないくせに明石家さんま気取りでしゃべるりまくる奴が多すぎる」と怒っていたことがあります。つまらないくせに、一人でしゃべりまくるのは、本当に迷惑なことです。それは、さんまさんなどの一部のお笑い怪獣にのみ許された特権です。
 ゆえに、そういった自分本位な人たちに比べると、克仁さんのおっしゃっていることは、とても素敵な姿勢なのだと思います。
 ですが、わたしには語るべき内容がありません。
 いや、腸が飛び出ている女ですから、興味を持ってもらえるようなお話のネタ自体はたくさんあります。ですけれど、それはおおっぴらにできるものではないのです。
 これは、困りましたよ。
 ひくひくひくひく。
「あの。わたし、自分からしゃべり慣れていないもので」
 とりあえず、話べたなキャラクターをアピールしてみます。古い言葉ですけれど、もっとカマトトぶったような、腹立たしい女を演じてみるべきかもしれません。もごもごもじもじしておきましょう。
 このまま諦めて、克仁さんが一方的に面白いお話をしてくだされば御の字なのですが。
「ええと……なら、僕からいくつか質問してもいいですか?」
 世の中は思い通りいきませんね。
 腸が飛び出るという、極めつけのトラブルに見舞われておきながら、そんなことも忘れてしまっていたようです。
 質問ですか。受け付けておりません、とお答えするのは、あまりにひどい話ですよね。
「まあ……わたしに答えられる範囲でしたら」
 自分ばかりしゃべっているのは駄目だという判断ができる克仁さんですから、きっとデリカシーのない質問をするなんてことはないはずです。体重やバストやヒップのサイズを聞いてきたり、昔の恋愛事情をあれこれ詮索してくる克仁さんというのは、わたしも想像しにくいです。きっと大丈夫。そう信じましょう。
「他人の前で食事するのは苦手とおっしゃっていましたけど、好きな食べ物はあるんですよね?」
 ひくひくひくひく。
 おっと、いきなり答えにくい質問でした。
 ですが、それほどデリカシーのない質問というわけでもありません。
 相手がなにかアレルギーを持っていないかどうかを確認するという意味においても、デリカシーがないどころか、最初の質問としては、適切すぎるものかもしれません。
 以前、夕方のテレビを見ていたら、日本ハムファイターズによる選手へのアンケートの項目に「小学生の頃好きだった給食」というものがありましたし、他人の好きな食べ物というのは、純粋に興味のある人もたくさんいるのでしょう。「大谷選手の好きな給食のメニューはカレー」という情報も、ファンのみなさんにとっては、とても重要なものなのかもしれません。
 しかし、食事をそもそも必要としないわたしには、非常に答えづらい質問です。しかも、「好きな食べ物はなんですか?」ではなく「好きな食べ物はあるんですよね?」という聞かれ方をしてしまいました。
 克仁さん、どうして人間には好きな食べ物があるのが当たり前だというような質問の仕方をするのですか?
 スティーヴン・キングの『グリーン・マイル』で、死刑執行前の最後の食事になにを食べたいか聞かれたジョン・コーフィが、自分は食べ物の好き嫌いがないという理由で返答に窮していた場面を思い出します。いや、わたしの場合、そんな深刻な話ではないのですけれどね。
「なにが好き……ということは特にないです。牛乳は苦手です」
 好きな食べ物を聞かれているのに、嫌いな食べ物を答えてしまいました。しかも、食べ物ではなく、飲み物です。
「あ……そうでしたか。なんか、ごめんなさい」
「いえ。こちらこそ」
 なんなのでしょう、この噛み合わないお見合いのような会話は。
「あの小竹さん。それじゃあ、好きな映画とかありますか?」
 きゅるきゅるきゅるきゅる。
 また、どうしてわたしの古傷を抉るような質問を。
 いや、これもまた、当たり障りのない質問のひとつではあるのです。たまたま、わたしという腸の飛び出た妙な人間に対してのみ、いわゆる「地雷」だというだけの話です。
 それに、わたしは映画関連の商品をたくさん扱っているのですから、まったく当然の質問と言って良いのです。どうして、こういう流れになる可能性を少しも考えていなかったのでしょうか。
「あの、クローネンバーグさんの映画とか……」
 ひっくひっくひっくひっく。
 小竹七実さん、あなたはお馬鹿さんなのですか? 大槻ケンヂさんの『グミ・チョコレート・パイン』じゃないのですよ。こんなところで、こんな状況下で、サブカル女子をアピールしてなんの意味があるのですか? そもそも自分で古傷に塩どころか唐辛子を塗りこむような真似をして、なんのつもりですか? 腸にも怒られていますよ?
 わたしのなかの理性さんが、必死につっこみを入れていましたが、克仁さんは「え? クローネンバーグですか? 意外ですね」と食いついてしまいました。食いつかないでください。引いてください。餌どころか、毛バリでもルアーでもないんです。
「特にどの映画が好きとかありますか?」
「あの……『ザ・ブルード』とか」
 よりによってそれですか。腸を飛び出させた女がよくそんな映画を推せますね。むしろ、腸を飛び出させているがゆえですか? クローネンバーグ監督が離婚訴訟中に考えた、とんでもない内容の映画ですよね? 『怒りのメタファー』なんてサブタイトルが付いているやつですよね? 腸も呆れているのか、反応できないでいますよ?
「ああ……それ観てないです。今度かならず観てみますね」
 観なくていいと思います。いや、観ていただけたら、わたしなんかへの興味を失ってもらえるかもしれませんね。やっぱり、観てください。そして、地の果てまで引いてしまってください。
「僕ももっと、ちゃんとした映画を観たほうがいいですよね」
 ちゃんとした映画ってなんなのでしょう? クローネンバーグさんを否定するわけではありませんけれど、あの方の作品が「ちゃんとした映画」というわけではないような気はしますよ。
「クローネンバーグのどういうところがお好きなんですか?」
 元彼との思い出なんです、とは言えませんね。いや、いっそ言ってしまったほうが良いのでしょうか。これまでの返事より、よっぽどまともな会話になる気がします。でも、サトウさんとのことは、わたしの胸だけに秘めておきたいです。
「……内臓の美しさ、ですかね」
 克仁さんにお腹をお見せするつもりですか? デパートで大パニックを引き起こすつもりですか?
 やっぱり、腸の飛び出た変な女が、のこのこと男性とお茶を楽しんだりするものではありません。そもそも、楽しめていません。これは明らかな罰でしょう。腸が飛び出たときと違って、はっきり自分のせいだと理解できます。
 結局わたしは、こんな調子で、終始わけの分からない変な女ぶりを発揮しました。飛び出た腸を見せるまでもありません。
 当の腸は、途中からは、ひっくひっくと怒りを露わにしているようでした。誰に対して怒っているのでしょうか。それはやはり自分、つまり、わたしに対してでしょうね。
 それでも、克仁さんは、呆れることなくわたしの話を興味深そうに聞いていました。できれば、呆れて何も言わずに立ち去ってほしかったくらいなのですけれどね。そうなっていれば、もうわたしが悩む必要もなくなるのですから。
「なんか、質問ばかりしてすみませんでした」
「いえ……」
 そこは気になさらなくていいですよ。わたしが自分から話せる内容さえ用意しておけばこんなことにはならなかったのですから。
「でも、楽しかったです」
 それはなによりです。わたしはへとへとですけれどね。
「なんていうか……小竹さんのこと、いろいろ知れてよかったです」
 また、どうしてここで「相手を好きになってしまった人」が言いそうな台詞を発するのですか。克仁さんには悪いですけれど、もうこちらとしては、あまり他人に関わらず、ひっそりと暮らしていきたい気分なんですよ。それに、今日あなたが知った情報は、ほとんどがろくでもないものだという気がしますよ。それでも良かったのですか。
 どんどんわたしの理性さんがわたしに対して冷たくなっていきます。とにかく、今日はここでおひらきにしましょう。
「あ……はい。わたしも話せて楽しかったです。また……今度は来週の金曜ですか? 金曜日にお話しましょうね」
 なにが「わたしも話せてたのしかったです」なのですか? ただでさえ、いろんな人に隠し事をして嘘をついて生きているのに、自分にまで嘘をつきますか?
 それよりなにより、どうしてここまで気まずい思いをしたのに、また会う約束をしてしまったのですか?
 笑顔で「気をつけてね」とわたしを送り出してくれた茅原主任の声が頭に響きます。
 ごめんなさい、茅原主任。気をつけられませんでした。
それから、岡田主任。もし今、連絡をしたら、助けてもらえますか?
 ひっくひっくひっくひっく。
 腸が怒っているのか、心で泣いているのか、さっぱり分かりません。