世界平和を願う者は世界平和のためなら家族も殺す

 「銃社会ではない日本という国では、他人を罵倒したりすることのリスクが銃社会である国より低いため云々」という話を目にするたびに、そういう面はあるだろうけれども、しかし、銃がなくても、その気になれば人という生き物は割と簡単に殺せてしまう(もちろん、銃があれば手っ取り早いことは確かだ)ということから目を逸らし過ぎている人が多いのではないかと感じてしまう。

 殺す、殺されるというだけでなく、そもそも人なんていつ死ぬかわからない。考えすぎると何も行動できなくなってしまうが、それにしたって頭の片隅にすら、自分の死の危険性というものを置いていないのではないかと思ってしまうような言動が目につく。

 想像もできないことは、当然想像できないのだけれど、「自分が想像できないことが起こってしまう」という漠然とした想像くらいはできるはずだ。水に心があるだの、アポロは月へ行っていないだのといった突拍子もないオカルトやニセ科学、良くてファンタジーな話ではなく、もっと現実的な「想像もできないこと」は周りにたくさんある。根拠のない陰謀論を撒き散らしておきながら、1分後にすれ違う人間がナイフで切りかかってくるかもしれないという想像には至らなかったりするのはなぜなのだろう。

 以前、「被害者であることすら気づけないのなら、加害者であることに気づけるはずもない」という題の雑記を書いたが、「被害者になる可能性を考慮できないのなら、加害者になる可能性も考慮できない」とも言えるかもしれない。